モノツキ | ナノ


その頃、帝都第九区のとある路地。


「おい、起きろすすぎあらい」


駅の裏側。雑居ビルの群れの間に出来た小さな空地前に停められた車の中に、
ピピピと電子的なアラーム音と、疲弊しきった男の声が響いた。

排気ガスで汚れたコンクリートとその影に覆われて辺りは薄暗いが、けたたましく鳴り響いていた携帯電話の時計は、角ばった文字で午後三時を表示していた。
いつもならもぞもぞと布団から這い出る時間帯だが、今は仕事中の仮眠時間である。
睡魔の限界を感じながら後部座席に倒れ込んだのが、確か正午のことであったから、三時間は眠れたようだ。

仮眠にしては長いが、日頃十二時間は惰眠を貪っているすすぎあらいには、短すぎる時間だった。
おまけに、眠る場所が人一人どうにか納まる程の幅しかない座席では、快適な睡眠が取れていたとは言い難い。

すすぎあらいは渋々、そして嫌々体を起こし、寝ながらバランスを取ろうとしていたのか、きしきし痛む体をうんと伸ばした。


「…あぁ……体痛い」

「寝転がっていただけマシだと思え。俺に至っては一睡もしないで座りっぱなしだぞ」

「ふぁあ………ご苦労様」


すすぎあらいが肩を回す中。顔が見えないが、恐らく疲労の色を浮かべているであろう薄紅が、ごくりと何かを飲み下した。

車内にぷん、と香る匂いからして、気つけには打ってつけだと昨夜コンビニで買っていた、缶コーヒーだろう。
すすぎあらいは頭を掻きながら、座席の下に放っていたコンビニ袋に手を伸ばした。
コーヒーを好かない彼が買ったのは、やはりゼリー飲料である。

他人が飲んでいる分には構わないのだが、自分が飲むとなるとあの匂いがまず気掛かりだった。
次に口の中にざり、と残るような苦味がいつまでも口の中に残って気に食わない。
いつもぼうっとしているのだから、飲んでシャキっとしろと言われて何度も勧められてきたのも、コーヒーを好かない一因かもしれない。

そんなことをぼんやり考えながら、すすぎあらいはじゅるじゅるとゼリー飲料を啜った。
車内の生温い空気で、ゼリー飲料は人によっては不愉快なまでのぬるさになっているが、
そんなことを気にするまでもなく喉を流れて腹に溜まっていくこれが、すすぎあらいは好きだった。

食事すら億劫なものだと考えている彼にとって、ただ飲み込めばそれで終わるゼリー飲料は、実に素晴らしい食品だった。
蓋を開けて、手で持って、啜る。咀嚼する必要もなく、惰性のままに食事が終わる。
特にこれといって匂いもなく味もないので、食欲がドン底まで沸かない時でもお構いなしに口にすることが出来る。
周囲の人間は口を揃えて「不健康だ」と言うが 匂いだけで腹が膨れる気になる米や、繊維がしつこく咀嚼を欲求してくる肉を無理に口にする方が、自分にとっては不健康に繋がると彼は思っている。

どうせ望まぬ方へ、望まぬ方へと流されていく運命の渦中にあるのだ。
食事位好きにさせてくれ、とすすぎあらいは次々空になったゼリー飲料のパックをコンビニ袋に放った。

全てのゼリー飲料を平らげた頃、調度前の座席の薄紅も、食事を終えたらしい。
パンが包まっていた薄い袋が、くしゃくしゃと丸められる音がした。


「昼行灯からターゲットの情報が届いた。目を通して、次の目的地を決めてくれ」

「…はいはい」


すすぎあらいは半開きの目を擦るように、洗濯機の戸をきゅっきゅと指で磨いた。

指が視界を行き来する中、思い浮かぶのは昨夜、第九区付近を根城にしている裏の情報屋からで買い取った、インターネットカフェや区営図書館に設置された監視カメラのジャック映像だ。裏の情報屋が、表社会の監視カメラからくすねた映像は、この世界では非常に重宝される。
警察や探偵のように聞き込みなど出来ない御身分である裏社会の人間達が、こうした人探しの際に利用しているなど。犯罪防止の為にカメラを設置した人間は思いもしないだろう。

ターゲットがアクセスに利用していた施設の一部にカメラがあったのは、今回非常に有り難かった。
日付と時間を絞り込んでターゲットと思わしき人物が調査開始一日目で見付かり。
映像に映るその人物の特徴を元に調査した結果、それらしい人物がだいぶ絞り込めてきたところで、此方の調査に限界が見えてきたので、得られた情報を昼行灯に送ったのが三時間前のことだったか。
そして、「向こうから何か新しい情報が来るまでは眠っていてもいい」と言われたのを、すすぎあらいはぼんやりと思い出してきた。
こんな時ばかりはあちらの仕事の早さが恨めしいものである。

すすぎあらいは寝るのに邪魔になる、と薄紅に渡していたノートパソコンを受け取って、昼行灯から届いたという新しい情報を開いた。
そこにはLANが調べ上げてきたのだろうか。候補に挙げた人物たちの個人情報が家族構成から職歴までつらつらと記されていた。


「…成る程、ね」


それらに目を通し、ぱたんとノートパソコンを閉じると、すすぎあらいは足元に転がっていたペンとメモ手帳を引っ掴んで、さらさらと何かを書き出した。

薄紅がミラー越しにその様子を見ていると、やがて後部座席から身を乗り出してきたすすぎあらいが、雑に千切ったメモ用紙を此方に手渡してきた。

受け取ったメモには、住所と電話番号らしき文字の羅列が見える。
聞くまでもなく、送られてきた候補者の個人情報を見て、更に絞り込んだターゲットと思わしき人物のものだろう。

しかし、何故次の目的地をメモにしたのかと聞き出す前に、すすぎあらいは脱ぎ散らかしていた靴を履いて、ドアに手を掛けていた。

まさか、と思う間もなく、ドアが開く音がする。


「副社長、此処…この住所んとこに、ターゲット住んでると思うから、悪いんだけどあんた一人で行ってもらってもいい?」

「…何、」

「俺、此処で仕事しなきゃなんないみたいだから」


じゃり、と空地から流れてきた砂を踏み、すすぎあらいは気怠そうに道に出た。
手には、二つに折りたたんで座席下に置いていた、物干し竿を持って。


薄紅はもう何も聞くまい、と携帯を手に取った。
コール音が鳴り響いている間に、路地には明らかにカタギではないだろう顔付きの人間が集まってきた。

軒並み、ハイエナのような目だと薄紅達は思った。
どこから嗅ぎつけてきたのか知らないが、十中八九、例の絵の情報を奪い取りにきた連中だろう。

薄紅は小さく溜息を吐きながら、窓から顔を出して、ぐるんと物干し竿を一回転させたすすぎあらいに一声かけた。


「すすぎあらい、先に昼行灯に連絡を入れておくぞ。迎えが来ないと、お前は困るだろう」

「…どうも」


この状況で交わすべきではないだろうとハイエナ達が思う会話が終わると、すすぎあらいが踏み出し、同時に車がエンジンの唸りを上げて走り出した。

交通法違反と分かってはいるが、そんなことを言っていられる場合ではないだろう、と薄紅は携帯を頭と肩で挟みながらハンドルを切る。

後方では早速一人、また一人と、人間が紙屑のように宙を舞っている。
すすぎあらいを囲みにかかった連中については、もう問題ないだろう。

あとは此方を追ってつけてくる、いかにも怪しい車だ。これまですすぎあらいにやらせる訳にはいかない。
まずは適当な場所まで走って、これを始末しなければと、薄紅は長年の仕事で把握しきっている裏の道へと車を走らせた。

そうこうしていると、耳に宛がっていた携帯からコール音が消えて、声が聞こえてきた。昼行灯が出たようだ。
薄紅は狭い路地の中、神経を研ぎ澄ましながら、口と手を動かした。


「俺だ。今、すすぎあらいと別れて動いている。…あぁ、そうだ。恐らく、情報屋が俺らのことを流したんだろう。一先ず、後ろをつけてきている奴らを始末してから、すすぎあらいが割り出したターゲットの住所へ向かう。
…あぁ。あいつのことだ、すぐに片付けは終わるだろうから、迎えを寄越してやってくれ。場所は第九駅の路地…小さな空地がある付近にいるだろう。
俺は事が済んだら、周辺で調査をして戻る。……あぁ、情報屋の方はお前から頼む。それじゃあ、また後で連絡する」


薄紅は携帯を折り畳むと、此方の誘いと知ってか知らずか、きっちり後をつけてきている車をミラー越しに睨み付けた。
これを始末して、注意深く動きながらターゲットの身辺を探るのは時間が掛かるだろう。
また今夜も座席に座って夜を明かさなければならないのか、と気が重くなると共に、腹立たしさが込み上げてくる。

薄紅はアクセルを踏む足に力を入れながら、チッと舌打ちした。


「やれやれ…家庭が恋しくなる時に、仕事を長引かせてくれやがって」


カタカタ、車の揺れに合わせて彼の愛刀が、今か今かと出番を待ち望むように音を立てている。
まるで獣が歯を噛みあわせているようだ。

そんなことを思いながら、ふんと鼻を鳴らした薄紅は、自身の眼が何より獣めいていることを、恐らく自覚している。



「はぁ…順調に事が運んだかと思ったらこれですよ」

「まぁ、でっけぇ金に換わる幻の絵画相手じゃ、そう簡単にはいかんわなぁ」


昼行灯は通話の切れた携帯を手に、口にせずにはいられないと不服を吐いた。

思惑通り、いや、それ以上に事が上手く流れて行ったと思った矢先。
想定こそしていたが望んでいなかった妨害に遭い、面白くないと言いたげに彼の炎は揺れていた。

送った個人情報リストを見て、すすぎあらいが上手いこと勘付いてくれたのはよかった。
だが、それに群がるハイエナ共が来るのは、非常にいただけない。
今集りにきている分はすすぎあらい達に駆除させるとして、これ以上その数を増やさないようにしなければと、昼行灯は携帯の電話帳を開いた。

掛ける相手は無論、此方が真相に近付きつつあることを流してくれた裏の情報屋である。
相手は愚かであるが、此方が手にしがたい情報を入手出来る貴重な人材でもある。それが彼の生命線であった。

もし彼が、取るに足らない者であったのなら。
昼行灯はこうして電話を掛けるまでもなく、潜伏先に乗り込んで、容赦なく彼を吊し上げていただろう。

尊いもの程処分に困るものだ。きっと、例の幻の絵画もそうだと昼行灯は思った。


この世に一点しか存在しない、稀代の天才抽象画家が描いた唯一の肖像画。
その価値は掛け値なしに尊いものだろうが、希少を極め過ぎた物というのは扱いに困るもので、手にしていること事態が幸福である筈のそれが大きな不幸を招くこともある。

今こうして、自分達を始め、様々な人間がそれを求めて蠢いているのがいい証拠だ。

巨万の富が動く、それ故に要らぬ災厄をも呼び込む幻の絵画を、持ち主も持て余してきているのではないだろうか。
そこまで考えたところで。昼行灯の胸中で引っかかり続けていたある疑問を、ふと近くで会計報告の書類を作っているサカナが口にした。


「にしても。何で奴さんは例の絵を、一度オークションサイトに出したんでしょうねぇ。それも、わざわざ闇の方に」


サカナは手を止めると、昼行灯から小言が飛んでくることをよく知っているので、キーボードを叩く手は休めなかった。

逆に、仕事さえこなしていればある程度のことは許されるのが此処の方針だ。
昼行灯が咎めてこないのは、作業をしているのであればこの話を続けても構わないという了承と受け取り、サカナは話を続けた。


「マスコミにでも公表しとけば、盗られるかもなんて危惧する前に買い手が群がってきたでしょうに。…いや、っていうかサバ落ちした後から一度もアクセスしなくなるとか、そもそも売る気があったんでしょうかねぇ」

「確かになぁ。イタズラにしたって、手が込み過ぎっつかなんつーかなぁ」

「…やはり、そこが気になりますよね」


コール音が止まったと思えば、留守番電話サービスの案内が聞こえていた。

昼行灯は結局直接乗り込むしかないのか、と溜息を吐きながら、携帯をばたりと閉じた。
小賢しいことに関しては一級品の情報屋のことだ。

恐らく、薄紅伝手に情報流しが伝わったことを察知して、逃走でも謀っているのだろう。
大人しく電話に出ていれば、脅し文句だけで済んだものを。
つくづく馬鹿な男だと、昼行灯は唾を吐き捨てたい気持ちを舌で転がし、そのまま会話へと興じた。

今すぐ情報屋の元に詰めかけている暇はないし、現在交わされている話が、実に興味深いのもあった。
昼行灯はデスクを占拠しつつある書類を片付けようと、いくつか手に取りながら、
未だ確信を得られていない絵画の持ち主の話に食い掛った。


「何度かオークションサイトにアクセスして、様子を窺っていたようなところもありますし…。
一度出品して以降姿を見せなくなったことも踏まえて考えると…私は、ターゲットが人を選んでいたのではないかと思うのですが…」

「人?」

「えぇ」


実のところ、昼行灯には事の真相がかなり見えてきていた。

まだそうと決まった訳ではないので、そうとは決して言えないが。
自分の意見を此処で話して、同感を得て、確信を強くしたい。そんな思いが彼の胸にはあった。


「幻の絵画を譲渡するに値する人間が、闇オークションを利用してまで芸術品を漁る熱心なコレクター達の中にいるかどうか…と」

「…うぅーん、言われてみれば確かにそんな気もしないでもないですけど」

「でも、何の為にそんな」

「…実は、一人。すすぎあらいが絞り込んだ人物に気になる方がいまして」


その仮説の切っ掛けとなったのが、LANが調べ上げてきた候補者の個人情報だった。
すすぎあらいがおよそ十人にまで絞り込んだ人物の中。
明らかに他の人物とは異なるプロフィールを持っているその人物が、昼行灯は非常に気掛かりであった。

そして、恐らくは あの情報を受け取ったすすぎあらいも同じことに目を付けただろうと、昼行灯は思う。


「これはまだ、推測の話ですが――」


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