モノツキ | ナノ


コウヤマ・フミノリは世間では人間嫌いであると言われている。

ある種のストイックとも言える程に徹底した人払いっぷりが、そうさせたとも言えるが。
もう一つ、彼が人嫌いであると言われるエピソードがあった。
彼はどれだけ金を積まれようとも、肖像画を描くことがなかったのだ。

著名になってからというもの。彼に自分を描いてもらいたい、と金を積んだ愚かな芸術愛好家気取りが何人も現れたのだが。
コウヤマ・フミノリはどれだけの金を提示されようとも、その話を受けはしなかった。
人物を描けない、という訳ではなく、人物を描きたくないという理由で。

事実、彼の作品はどれも人物を主に据えられることはなく。
彼は人嫌いなのであろうという話が広がり、それがまた彼の奇人伝に華を添えていた。

そんな彼が、唯一描いた肖像画がある。コウヤマ・フミノリの死後まもなく、そんな噂は広まっていた。
根も葉もない話だが、もし存在したのであれば、それはとてつもない価値になる。
霞みを掴むようなことであると分かっていても、彼の死後五十年。
表でも裏でも実に多くの人間が、まさに”幻”と言える絵画を探し求めたが。
結局、幻は幻であると、誰もが膝をつくことになったのは言うまでもない。


今や探し求めるのも馬鹿らしい、伝説級の絵。

それを探し出せ、と言われた昼行灯は、当然信じられないと炎を蝋燭から浮かせていた。
ハルイチはその反応を見て、「まぁ、そうなるだろうな」と鼻を鳴らした。

コウヤマ・フミノリの描いた肖像画を探し出せ、ということは、ツチノコを見つけて捕えてこい、未確認飛行物体と交信してこいというようなものである。
都市伝説と同等である筈の物を、仕事として探してこいなどと、信じられないのも無理はない。
この仕事を持ってきたハルイチですら、聞いた当初は耳を疑ったものだ。


「事の始まりは、一般人には存在すら知られていない、限られた人間だけが集う闇のネットオークション。そこにある物が出品されたことから、全ては始まった」


ハルイチは胸ポケットから取り出した煙草に火をつけながら、顎で昼行灯の持つ紙束を指した。
捲ってみろ、ということらしい。昼行灯はホッチキスで止められただけの資料に、改めて視線を落とした。

パソコンの画面をそのままプリントアウトしたであろうコピー用紙が、安い音を立てて捲れる。

一枚、ぱらりと捲れた先。
ハルイチの言う闇のネットオークションのページを見て、昼行灯の蝋燭の炎が飛び上がるようにして燃えた。


「このサイトは紹介でしか入会出来ない会員制度だ。
大層な趣味をお持ちの上流階級者か、裏社会のツテでもなければ知ることも出来ない。
匿名主義であるこのサイト上では、出品者も購入者も素性はまるで分からないが…。
それでも、立ち入る人間は選ばれた人間であることは間違いない。
そんな人間が集まる場所に出品されるブツが、本物であれ贋作であれ、とにかく信憑性を持たせて相手に売りつけるのが重要だ。
掲載する写真と、出品者への質疑応答でいかに相手を信じ込ませて商品を売りつけるか。
買い手側も出品者とのそうしたやり取りから得られるスリルを求めて、此処に齧り付いている奴が多い」


帝都の歴史はそれなりに長い。

かつて先祖達が暮らしていたという世界に比べれば遥かに浅い歴史だが。それでも、この世界の人間達は様々な文化を築いてきた。
中でも、芸術文化は限られた世界の貴重な娯楽として、常に時代と共にあった。
絵画だけでなく、焼き物、彫刻、金細工と、実に多くの美術品が帝都の中で生み出され。
それらの中でも特に価値のある物を持つ者こそ、力を持つ者であるとして、どの時代も権力者達はこぞって価値ある品を求めてきた。

その歪んだ文化は現代も変わらず。時代を象徴する芸術品の数々が、今もこうして裏で流れ、有権力者の慢心を満たしているのだが。


「そんな闇オークションに、信憑性など欠片もないブツが出てきた。それがこの肖像画っつー訳だ」


黒塗りされた背景の中に浮かぶ、ただの少女の絵。

タイトルはなく、説明文には『作:コウヤマ・フミノリ』とだけ書かれたその商品は、
愚かでこそあれど間抜けではないオークション参加者達をこけにしているとしか思えない。

明らかにふざけている。普通であれば誰もがそう思い、出品者をサーバーに通報するだろう。
だが、今こうして最初の資料に目を通しただけの昼行灯ですら、感じ取れた。


「…これは、本物………なんですか?」

「おそらく、な」


コウヤマ・フミノリのそれとは到底思えない、繊細なタッチで描かれた穏やかな青でまとめられた肖像画は、コピー用紙に粗雑に印刷されただけでも、此方を圧倒する彼の代表作の数々と同じく。此方の目を引き付けた。

藍色の花に囲まれた、黒髪の少女。
評論家たちがこぞって推察した、地獄のような光景が意味する現代の若者が世に抱く不満や怒り、曇天の中の孔雀の目が示す人の傲慢さと言った暗喩などなく。
ただ素朴な美しさだけを訴えかけてくるその絵は 到底信じられないのだが、信じざるを得ない。

稀代の天才、人間嫌いの奇人。コウヤマ・フミノリが描いた絵であると、写真一枚で此方を信じ込ませていた。
当人のサインだの、付属品に押された年号つきの印だの、傷痕の拡大図だの。
そんな物を並べても、これ以上の証明にはなりえないだろう。
彼の作品であることを知らしめるには、そこに写真が一枚と、コウヤマ・フミノリの名があれば十分であった。
理屈など求めるのは野暮である。


昼行灯は先程まで頭に渦巻いていた疑念を全て払い、ハルイチが冗談を言っているのではないと態度を改めた。

ハルイチはもう一度鼻をすん、と鳴らし、話を続ける。


「こいつの登場により、オークションサイトはサーバー落ちする程の大混乱となった。
それと同時に、出品者は忽然と現れなくなり…幻の作品に相応しく、蜃気楼のように消えちまった。
出品者が何が目的であれを一度出品したのか分からんが、あれの存在を知った収集家達は完全に焚き付けられた。
幾ら叩いてでも、どんな手段を使ってでもあの絵を手に入れようと、俺のところに話が舞い込んできた。そして、今に至る」

「…成る程。このサイトの仕組みでは、出品者の特定も容易ではありませんね」


昼行灯はハルイチの話と手元の資料を合わせ、ふぅと浅く溜め息をついた。

これが普通のネットオークションでのことになれば、会員登録情報で出品者がすぐに割れるものだが。
裏の人間が出入りする闇のネットオークションサイトでは、売り手側の安全の為に、
より公平さを出す為に会員登録の際に個人情報などは一切入れられない。

代わりに信頼出来る現会員からの紹介制と、会員の誰が何を出品したのか分からない仕組みにすることで、売り手が贋作を売りつけた怨恨で襲撃されたり、高額商品を売り出す前に強奪されることを回避しているのだが。
それが今回、より一層ことを面倒にしていた。

素性の知れない出品者。それも、品はこうして出品されるまで空想上の物とされてきた五十年行方知れずの絵画である。
出品者の足取りを掴み、絵までたどり着くのは、やはり幻を求めるようなことだろう。
しかし、彼が今回探し出すものは都市伝説でも夢でもない。実存する絵画である。
存在する以上、この世にある以上は到達出来ないことはない。


「依頼人曰く、何処で見付かろうと、誰が所持していようと構わない。
見付けることが出来たのなら、どんな手を使ってでも持ってこいとのことだ」




「……どんな手でも、なぁ」


すぱぁと大きく紫煙を吐き出し、赤いライトが此方を照らした。

ハルイチが去った三階オフィスの応接間。
ソファの背もたれにどっかりと凭れ、テーブルに積まれた資料をぱらぱらとめくっていたシグナルがくっくと喉を鳴らす中。昼行灯はキーボードを叩きながら手元の書類と格闘していた。


「実際手を使う側じゃねぇ人間は、実に簡単に言ってくれるもんだぜ。なぁあ、昼行灯よぉ」

「…どんな手でも使えることしか取り柄のない私達に、文句を言う権利はないですよ」


ウィンドウにはチャット画面が開かれ、そこにはやたらテンションの高い顔文字つきの文章と、受信データが往行していた。

事の糸口がネットオークションにあるのなら、まず動くだろう人物は、話を横で聞いていただけのヨリコでもすぐ思い浮かんだ。
その能力を買われ、此処での生活を保障されているハッカー、LANである。

ネット上の事柄であれば、社内では誰よりも精通している彼は、既に件の肖像画のことも知っており、話は早かった。
すぐさまネットオークションサイトのサーバーに侵入し、オークショニアのデータバンクから例の絵の出品者の情報をくすね。
出品者がいつからこの闇オークションサイトを利用していたのか、どのページを閲覧してきたのか、出品時にはどこからアクセスしたのかまでを調べあげてきたLANの手腕は、やはり手は掛かれど置いておく価値のあるものである。

昼行灯は受け取ったデータに入念に目を通しながら、幻の絵画の出品者を洗い出すべく使えそうな情報を絞り込んでいた。

デスクに広げられた地図や、闇オークションの情報ファイルなど、使えるものは全て使い、纏められた情報は後にすすぎあらいに手渡されるのだろう。


何事も実行するに辺り、過程がより簡潔であることを望むすすぎあらいは、こうした調べ事を嫌う。
調べられないことはないのだが、自分以外の人間にこなせるのなら、自分はやりたくない。
彼はそういう人間だからだ。全くもって、此処の人間は扱い辛い。

昼行灯はとんとん、と纏めたコピー用紙をデスクで叩いて均した。そして。


「そんな分かり切ったことより、こういう時こそ報告書が大事であることを理解していただきたいですねぇ…シグナル」


ごぉっと燃える火がパソコン画面から向けられると同時に、さっとシグナルが顔を逸らした。

いそいそと煙草を消し、テーブルに山積みされたこれまでの報告書と顧客ファイルに手を伸ばし、シグナルは次々に飛んでくるだろう昼行灯の攻撃から身を庇うようにして背を丸めた。
攻撃というのは物理的なものではないが、防げる拳や蹴りの方が彼にとってはマシであった。


「いいですか、貴方はただ物を運べばいいと思っているようですがね、その運ぶ物も、相手も、こういう時非常に大事な情報になるのですよ!」


ガードをすり抜け、鼓膜から頭へガンガン響く説教攻撃。

昼行灯から浴びせられる防ぎようのない弾幕が、シグナルには非常に堪える。
聞き流したくとも此方が何か言うまで止まることなく、更に激化する恐れのある厄介な言葉の銃撃。
その口煩さと来たら、思春期の息子を持つ母親に匹敵するだろう。とにかく五月蝿い。そしてねちっこい。
怒った昼行灯は、いつも隠れされている彼の性格の悪さと、普段は良い方向に働いている神経質さが混じり合って、実に面倒な存在になっている。

シグナルは止まることなく投げかけられる小言から、無駄だと分かっていても身を守るべく、耳に両手を宛がって、ソファの上に体を屈めた。


「例のオークションサイトの利用者も、この中に必ずいる筈なのですからもっと真面目に……」

「あ゛ーあ゛ーあ゛ー、うるっせぇなぁあああ!!気が散るから小言は後にしやがれ!」

「今言われたくないのなら先に聞いておきなさい!どうせ貴方に後なんて時はこないんですから!」

「てめぇそうやって決めつけんのよくねぇって母ちゃんに習わなかったか?!
あー、もう俺に後こねぇーぞー。お前が言ったから絶対こねぇーぞぉおー」

「だから今聞けと言っているでしょう!それと、手を書類から離さない!!仕事中ですよ!」

「………昼さん、大変そうですね」

「いつものことだから大丈夫よぉ、ヨリちゃん」


掃き掃除を終え、今度は拭き掃除に手をつけ始めたヨリコが、ぎゃーすぎゃーすと口論しながらもキーボードを叩く手を休めない昼行灯を心配そうな目で見たが。
茶々子達は気にせず、それぞれの仕事に打ち込んでいた。

彼女の言う通り、本当にこんなのがいつものことで。
介入したところで二人の口争いが沈静化することもないので、構って余計な時間を食わせるより、こうして仕事を進めていた方が、彼等にとっても都合がいいのだ。

それに、あれだけぎゃんぎゃん言い合っていても、小競り合いの範囲である。


「ところで昼さぁん。昨日来た依頼、すすぎくんの担当になってましたけどどうします?」

「…あぁ、ゴルフ場新設の件ですか。そういえば彼に任せようと思案していましたが…」


本気の喧嘩ではないので、取っ組み合いになることもないし、こうして仕事の話を投げかければ反応してくる。
シグナルもぶつくさ何か言いながら、オークションでの落札履歴と、ツキカゲが請け負った配送記録を照らし合わせる作業に戻っている。

ヨリコが感心したように目をぱちぱちさせる中、昼行灯はコツコツとデスクを指で叩いた。
何かいい考えが音と共に出てきやしないかと、爪の先が軽快な音を立てる。


「…少し不安ですが、火縄ガンに行かせますか。プロファイリングは彼にしか出来ませんし、人払いであれば彼女でも大丈夫でしょう」

「じゃあ、先方には火縄と、送り迎えにシグくんが行くって伝えておきますね」

「……プロファイリング?」


ヨリコは何処かで聞いたことがあるような。しかし、日常生活ではあまり活用されないだろう言葉に首を傾げた。

成人男性であるすすぎあらいと、まだ十歳ばかしの火縄ガンでは、出来ること出来ないことが多々――例えば高いところにあるものを取るだとか――あるだろうが。
聞き慣れないその言葉は、火縄ガンに限らず、他の社員達でも出来るものではなく。すすぎあらいだけが固有する能力のようだ。

何事も要領の良い(と、ヨリコは思っている)昼行灯でも、それをやるに辺り彼の手を借りたいと思う位だ。
一体どんなものなのだろう、と溢れ出てくるヨリコの関心を察したのか。
昼行灯は顎に手を宛がい、少し考えた後に、彼女の頭の上に浮いた疑問への回答を口にした。


「すすぎあらいの役職は掃除屋…この会社にとって不利益なものを消し、有益なものを洗い出すのが彼の仕事です。
プロファイリングは後者で活用されるのですが…説明するより、実際見ていただいた方が早いでしょう」


言い終ると共にカタタン、とキーボードを打つ音に終止符が打たれた。

ようやっとパソコンから解放された昼行灯は、携帯電話を取り出すと、片手でペンを動かしながらどこかへとコールを掛けた。
どこか、など決まっているのだが。


「……成る程。大体の像が浮かんできたかな」



呼び出されるまで自室で眠っていたのだろう。
何度も欠伸をしながら昼行灯が纏め上げた書類に目を通していたすすぎあらいは、気怠そうに椅子から立ち上がると、茶々子が用意したホワイトボードに向った。
起きてそのまま来ました、と言わんばかりの 毛玉が出来たロングTシャツに、黒いジャージ姿で。

しかし、万年芋ジャージのすすぎあらいが、明らかにセット品ではない服を合わせて着ているのはどういうことなのかと、社員達はだらんと力無い背中と互いの顔を見合わせた。

ヨリコだけは(あ、こないだの…)と、ウライチで彼に予備用の服を選んだ時のことを思い出していたのだが、今着目すべき問題は彼が着ている服ではない。


「出品者は闇オークションサイトにアクセスする際、全て違う場所。
おまけに必ず公共施設を利用していることから、かなり用心深く、心底特定を回避したがっている。
まぁ、幻の絵を抱えてるんじゃ、警戒するのも当然だろうけど」


すすぎあらいは黒いインキマジックで、独り言のように呟いた言葉をつらつらと書き出した。

心底だるそうに書いている割に、字が読めない程汚いということはない。
もしかしたら、真面目に書いたら結構綺麗な字なのかもしれないとヨリコが思う中 すすぎあらいの解説と共に、解析が始まった。


「闇オークションを楽しむ程の身分なら、普通は忍んだ場所でアクセスして、
其処をボディガードなり警備員なりで固く守るもんだが…そう出来てないこいつは、一般人の可能性が高い。
一般人でありながら闇オークションサイトへのコネを入手出来ていることから、芸術方面に何等かの繋がりがあって…。
これまでアクセスに利用してきた施設とその日時から照らし合わせるに、
深夜から早朝の時間はなく、平日の真昼間から図書館の個室パソコンを使っていることから、相当自由の効く職か、或いは無職。…利用時間からして、恐らく若い奴ではないかな。
パソコンの利用場所も、バラけてこそいるが全て間は電車やバスで行ける程度の範囲だし…ターゲットは定年退職してる位の歳。
んで、アクセスした場所と時間、周囲の交通情報から洗い出した結果…」


てらてらと蛍光灯の明かりに照らされていた白の上に、黒い文字が奔る。

その文字一つ一つが現すは、影も形も見ることが叶わないと思われていた人物の肖像。


「ターゲットは多分帝都第九地区在住。親縁者か友人に芸術方面で繋がりを持っている六十五歳前後の一般人。
性格はかなり生真面目なしっかり者…自分で何でもしようとするタイプの人間じゃないかな」

「…すっごい、ここまで絞り込めちゃうんですね……」


これが、すすぎあらいが掃除屋という職に就いている所以だった。
火縄ガンのように殺しだけをするのではなく、こうして何かを洗い出すことも手掛けているが故に、彼は掃除屋と呼ばれいるのだ。

ヨリコは昼行灯が言っていたことの意味を理解し、ただただ感心していた。
昼行灯は内心「しまった」と、すすぎあらいを尊敬の眼差しで見るヨリコの気を逸らせないかと咳払いしたが。
咳のついでに心の古傷が開きそうな気がして、気晴らしにもならなかった。何というか、虚しい。

だが、そんな昼行灯の心境になどお構いなしに、すすぎあらいは大きな欠伸をしながら椅子に戻った。


「取り敢えず、今ある情報で出せるのはここまで…。あくまで推察の範囲だから当たってないかもしれないけど、まぁ…宛てが出来ただけいいよね」

「えぇ、重々承知です」


すすぎあらいが事務椅子の背凭れの方を体の前にして、それにつかまるようにして座る頃には、開きかけた傷も黙り込んでくれた。

昼行灯はあの件のことはもう済んだことではないか、と自分に言い聞かせながら、仕事へと気を乗り換える。


「それでは、すすぎあらい。明日から薄紅と組んでこの人物の捜索に当たってください。
それらしい人物を絞り込めたら、身辺調査の方をお願いします。
此方もオークションサイト利用者から、ターゲットの利用開始日付近に入会した人物・紹介をした人物を探しがてら、新しい情報が入り次第送りますので」

「了解……はぁ。当分は車内生活か」

「…終わったらしばらく寝ていていいですから」


仕事が来なければ、と敢えて付け足すことはせず。昼行灯は未だ応接間で書類の山と格闘しているシグナルを見た。

一人では進む気がしない、と髑髏路を巻き込んで、どれを見てどれを見てないんだかと頭を掻き毟ってている様は、これからしばらく外での仕事が続くことを想像して気落ちしているすすぎあらいと相俟って、肺から溜め息を吐き出させてくる。

本当に、優秀でありながら扱い難い社員達である。昼行灯は、しばらくは社内がごたつきそうだと肩を落とした。


「あの…私にも、何かお手伝い出来ることはありませんか?」


そんな小さな鬱積を晴らしたのは、おずおずとしていながらも芯の通った声。此方を遠慮しがちに見つめてくる青い双眸。


「ヨリコさん、」

「えっと、その…私なんかが出来ることなんて無いかもしれないですけど…。
どんなことでも出来ることがあったら、お手伝いしたいなって……」


ヨリコは、すすぎあらいのプロファイリングを見た後で、こんなことを申し出るのは、料簡違いもいいところなのではという思いに顎を引かれ、俯いていた。

特に秀でた能力がある訳でもなく、真面目にこつこつ仕事をすることが取り柄であることが精一杯であり、それが昼行灯達の生きる社会では、どうにも役に立ち難いことを、彼女はこれまでの経験から重々理解している。
それでも。仕事に追われ、忙しそうにしている昼行灯を見て、声を掛けずにはいられなかったのだろう。

役に立たないのだから引っ込んでいろ、とでも言われることを恐れているのか。
きゅっとつなぎを握って返答を待つヨリコに、昼行灯の炎がふわりと柔らかく揺れた。


「…ありがとうございます、ヨリコさん」


旋毛が綺麗に見えている頭をくしゃりと撫でると、ヨリコの顔がゆっくりと上がり、少し驚いたように小さく開いた目が此方の視線と噛み合った。

数拍置いて、感謝されたことが呑み込めてきたのか。
徐々に明るさを増していくヨリコの顔を見ていると、昼行灯は憂苦が溜まった胸が透いていく思いがした。

彼女の心というのは、いつもこうして自分を揺らがして、心労も憂鬱も溶かして、冷め切った指先まで温めてくれる。
昼行灯はこそばゆそうに微笑むヨリコからそっと手を離すと、その手をデスクの上の書類へと伸ばした。

今にも雪崩れそうな程重なった紙の山から、一枚。
先程プリンターで印刷したばかりのものを引き抜くと、昼行灯はそれをヨリコへと差し出した。


「では、一つ頼まれていただけますか?…これは、貴方にしか出来ないことなんです」


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