モノツキ | ナノ
「――ねぇ、聞いた?ヨリコちゃんの話」
「うん…お父さんとお母さん、事故で死んじゃったって……」
「それでね、ヨリコちゃん…親戚のお家に引き取られることになったから……もうすぐ転校しちゃうんだって」
「ホシムラさんは、皆とのお別れが辛いということで…皆と会わずに、転校してしまいました」
「……ケイちゃん、もうヨリコちゃんは…あのお家にいないんだよ。行こうよ、ねぇ」
「ヨリコちゃんのとこに行きたいってねアンタ…あの子が何処に引っ越したかも分からないのに」
「それでは、出席をとります」
いつもの通学路が変わった。登下校のメンバーの中に、ぽっかりと穴が空いた。
行きも帰りも通った家は、いつの間にかなくなっていた。
教室の机が一つ少なくなった、出席の点呼で呼ばれる名前が減った。
いつしか誰もが、その名前を口にすることがなくなった。
あいつだけを置き去りに時間が進んでいくような気がした。
新しい住所も電話番号も知らず、何も出来なかったガキのアタシは、ただどうしようもならない後悔だけを重ねていく日々を過ごしていた。
アタシを救ってくれたヨリコが、一番辛い時に傍にいてやれなかったこと。
何か励みになる言葉すらも残してやれないまま別れてしまったこと。
距離など関係なしに駆け付けてやることが出来なかったこと。
何一つ、アタシにはどうにもならないことだってのに 悔やまずにはいられなかった。
弾かれ者だったアタシが、一つの輪の中に納まれていられたのも、あいつのお蔭だってのに。
アタシはどうして、あいつに報いることが出来ないのかと。
「……もしかして、ケイちゃん?」
だから。お前に会えた時は純粋に嬉しかったし、ようやくお前を助けられる時がきたとも思った。
長い時間が空いてしまったけれど、お前が困っていることがあれば、どんなことでも助けてやろうと、そう心に誓った。
――それだってのに。
「…お前さ、アタシが想像してたよりも色んなこと抱え込んでてさ。
アタシなんかで助けられるのかって、テンパって、突っ走って…お前の迷惑とか、そういうの……全然考えられなかった」
ケイナは未だ、ヨリコの顔を見ることが出来なかった。
何者にも屈せず、何者をも恐れぬ強い自分が崩れ、剥がれた面の皮の下で息を潜めていた弱さが、誰よりも強さを見せたかったヨリコの前に曝されることが、ケイナは恐ろしくて仕方なかったのだ。
かつて自分がそうしてもらったように、彼女の手を引いて、障害は押し退けていくつもりだというのに、吹けば飛ぶような心を見せては示しがつかない。
何より、弱みを見せることで彼女に呆れられることが、ケイナは怖かった。
そして、恩を返すつもりが彼女に徒を返してしまう形になるのではないかという不安が、彼女の時間を巻き戻していた。
「アタシがやったのは…ただの、善意の押し売りだってのに。それが正しいと思い込んでさ。なんつーか…ホント、馬鹿だよな」
一人を嘆いて暴れていた日から、変わったと言えば変わった。
孤独からではなくなり、誰かの為に牙を剥くようになり、大きく成長した。
だが、根は未だに、淋しがり屋の暴君のまま。
一度弱みが顔を出してしまうと、途端に小さくなってしまうところは、変わらずにいた。
「ケイちゃん」
こつん、と軽く、ヨリコはケイの背中に額を当てた。
そこでケイナは、話している間に詰められていた距離に気が付くが。
いつの間に、と口にすることも出来ない内に、ヨリコが続けた。
「…押し売りだなんて、言わないで」
背中越しから、子供をあやすような調子のヨリコの声が、耳を打つ。
相手は自分の背中に隠れてしまう小さいというのに、此方の方が幼くなってしまったような感覚の中、ケイナはヨリコの声を聞いた。
「私は、ケイちゃんが…私のこと心配してくれて、すっごく嬉しかったんだよ。
転校してから…私のこと心配してくれる人は、いなかったから」
「……ヨリコ」
「だから、ケイちゃんの優しさを、否定しないでほしい。
ケイちゃんが私のこと知っても受け入れてくれた時から…私、もうケイちゃんに救われてるんだよ」
それまで頭を埋め尽くしていた自責を熔かすような、温かい声だった。
制服越しに感じる額の温度すらも、ケイナの絞めつけられたように痛む心臓を、緩やかに解いていく。
ゆっくりとヨリコが一歩引くと同時に、ケイナは固く縫い付けられていた足を動かして、ようやっとヨリコに向き合った。
どんな顔をしたらいいのか、未だに迷って上手く表情が作れずにいるケイナに対し、ヨリコはにっこりと笑っていた。
あの日、寂しさで押し潰れそうだったケイナに手を伸ばしてきた時と同じように。
拒絶の色を一切示さない、穏やかな微笑みを浮かべて。
「……あ、でもね!」
しばらくこちらを絆すよう、此方の手を握っていたかと思えば、はっとヨリコは手を離し、あたふたと手持無沙汰気味に動かし始めた。
きょとん、としているケイナをそのままに、ヨリコはえっとえっとと言葉を選びながら話す。
「心配してくれる人がいなかったって言ったけどね、昼さん達はまた別なんだよ!
私のこといつも気に掛けてくれててね…半年間ずっとアルバイトしてられてるのも、あの人達のお蔭なの!
ケイちゃんが言うように…その、心配掛けちゃうような場所だってのは、分かるんだけどね。でも私……」
ヨリコは先程の発言を取り繕う言葉を模索していたようで、どうにか昼行灯達を擁護せねばと焦っていたようだった。
こうなったのも、彼女が批難された昼行灯達を庇ったことが発端なのだ。
また彼らにあらぬ誤解を招いてはいけない、とヨリコは慌てて彼らが此方に害成す人間ではないことをアピールした。
何せその場で浮かんだことをどうにか形にして言っているだけなので、説得力があるとは言えない言葉だが、それでも。
「あの会社が…あそこにいる人達が大好きなの。とっても、大切なの」
彼らを語る口振りと、思い返して自然と込み上げてきた笑顔に敵う言い分は、他になかった。
例え誰が彼らを乏しめたとしても、彼女はあの異端者達を信じ続けるだろう。
彼らから拒否されない限り、ヨリコはあの場所を拠り所として、身を寄せていくだろう。
危険性も何もかも承知の上で止まり木にしていたい程に。彼女にとってあの薄暗い雑居ビルは大切なものだと、ケイナは理解した。
「……そっかぁ、そっかぁ」
「わっ!?」
がばっと音を立て、ケイナがヨリコに思い切り抱き着いた。
まるで此方を押し潰すように全力で腕を回してくるケイナに、やや仰け反ったヨリコは溺れかけているように息をした。
「ケ、ケイちゃん…く、くるしいよ……」
ケイナはそれでも、腕に込めた力を緩めなかった。
全身全霊の力で抱きしめてやらねば気が済まないと、とにかくヨリコを強く抱き締めてやりたかったのだ。
此方が不安定になる程細い体で、長らく一人でいたヨリコが、自分の脚で歩き、新しい居場所を見つけたことを、褒めてやりたくて。
あらゆる不幸に打ちのめされてきたヨリコが、受け入れてもらえる場所が出来たことを、祝ってやりたくて。
溢れんばかりの嬉しさや、安堵感。
そして少しばかしの切なさを言葉に出来ない分、ケイナはヨリコをぎゅうと抱きしめた。
ヨリコはどうにか離してはもらえないか、と必死にケイナに呼びかけるが、その声も感極まった彼女には届かず。
「よかった…よかったよ……うあぁああああああああ、ヨリコぉおおおおおお!!」
「ケ、ケイちゃん?!!どうしたの?!ねぇ…って、うぅぅ!ちょっと…待ってケイちゃ…私、このままじゃ死んじゃ………」
突如大声を上げて泣き出したケイナに度胆を抜かれるわ、更に腕の力が増していくわで、
もうどうしたらいいのか分からないヨリコには、おいおい嗚咽を上げる彼女の心境を汲み取る余裕はなかった。
(アタシがどうこうするでもなく、ちゃんとお前は、救われてたんだな…ヨリコ)
これまで重く圧し掛かっていた、不安や自責から解き放たれたケイナの慟哭が、夕闇に沈んでいく雑居ビルに響いていった。
「あーあー、人の気も知らずよく喚くネ」