モノツキ | ナノ
翌日、早朝。
「ぎゃーーーーーーーーーーーーーーっ!!」
月光ビルに、大きな叫び声がびりびりと響いた。声の主はサカナ。そしてその声の原因は、言うまでもなく昼行灯であった。
「ギ、ギブ!ギブですって社長!もう、もう背骨が逝く!!」
サカナは頭の中の熱帯魚を血が濁ったような赤に点滅させながら、体を弓のように曲げてくる昼行灯の腕をばしばしと叩いた。
その景色の中、茶々子はわたわたと昼行灯の周りをうろつき、修治は知らない素振りを決め込みながら新聞に顔を隠していた。
といっても長い釘抜きの頭はほとんど見えていたが。
「ひ、昼さぁん…もう許してあげてくださぁい…!サカナちゃんが死んじゃいますよぅ!」
ボストンクラブ。逆エビ固めとも呼ばれる、プロレスではポピュラーな技を無表情で掛けながら、昼行灯はただ頭の炎を燃やしていた。
細い身の割に力があるのか、サカナを平然と担ぎ上げて彼の脚と首に力をかけて背骨を傷めつけていく姿は一種の恐怖を覚える。
「大丈夫です、死なないよう加減くらいできていますから」
「いや、もう背骨が臨界点突破しようとしてるんで!ホントもう勘弁してくださいよぉおおお!!」
サカナが決死の抗議をすると、そこで何かが切れたかのように、ぷすんと昼行灯の頭の炎が一瞬消えた。
火はまたすぐについたが、それも先ほどまでの火力ではない。
昼行灯は白けたようにサカナを乱暴に床に下した。正確には、恐らく落とした。
「…も、もう……朝からなんてバイオレンスな」
「朝から『昨日はお楽しみでしたか?』なんて聞いてくる人には言われたくないですね」
昼行灯はちゃちゃっとネクタイを直すと、腰を老人のように押さえるサカナを見ないようにして席についた。
ようやく静かになったオフィスで、茶々子は戸棚から取り出した湿布をサカナの腰に貼ってやった。
「あーん、もっと優しく貼ってくださいよぉ茶々子さん」
「もう、変な声出さないの!まったく懲りないんだからサカナちゃん…聞き方ってものがあるでしょ?」
「聞こえてますよ、茶々子」
昼行灯がキーボードを叩きながらそう言うと、茶々子は「えへへ…」と舌を出すように笑った。
昨日の分の遅れを取り戻すと言わんばかりに、昼行灯の仕事のスピードは凄まじかった。
昨日一日休んだ程度では差支えないのだが、それでも仕事をしなければ落ち着かないと言わんばかりに昼行灯はキーボードを打っていく。
ヨリコがここに来てからは、何処か心ここに非ずといった感じで仕事をしていた昼行灯だったが、その日の仕事っぷりは今までとも何かが違っていた。
例えるなら、そう。仕事に未来を見据えている人間のようだった。
この仕事の先に将来が待っていると言わんばかりに、昼行灯が仕事に向かう姿勢は研ぎ澄まされていた。
茶々子とサカナは眼を見合わせ、そして二人揃って仲良く修治にも視線を投げると、三人は同時にうんと頷いた。
サカナのいうお楽しみはなかったにしろ、それでも先日二人の間には何かあったに違いない。
ではそれを、どうやって聞き出そうか。茶々子達の昼休みの会議内容はそこで決まった。
この想いは、決して許されるものではない。
世界中が祝福することのない恋で、日の当たる世界にいる少女を壊していい筈もない。
それでも 彼女を闇に引きずり込むこともなく、這い上がり、彼女と同じとは行かずとも近い道を歩けるように。
昼行灯の心は、決まっていた。
いつか全てを知られようとも、それにより自分を否定されることになろうとも。必ず来るその時に、後悔しない時を迎えられるように。
真っ直ぐに自分を見てくれた彼女の為に、自分が彼女から眼を逸らさないことを胸に誓い。彼はたった一つの恋を原動力に、世界に唾を吐くことを決めた。