ありますけど…覚悟くらい






二人分の足音が木霊する。
上着のポケットの中に手を突っ込み 高い背を少しだけ丸めて歩くイデアの半歩後ろを追いかけながら、ナマエは意味もなく笑った。
明日から始まるイデアとの新しい学校生活。売りをしない生活。
普通の女の子≠ニしての生活を考えれば考えるほど 幸せな気持ちになっていくのだから。

無意識のうちに唇に手をあてて 先程のキスを思い出す。
今まで何回もしている行為なのに 先程のキスは酷く甘く、そして何よりも切なかった。
はじめて特別な人と交わしたキス。
「すき」という気持ちを改めて実感した。

「何 ニヤけてるの」
「…イデア先輩と同じ理由です…たぶん」
「…ほんと、君ってかわいいよね」

こちらを振り返ったイデアも少しだけ浮かれた表情をしていて、思わず顔を見合わせて笑ってしまった。
次の角を曲がれば 鏡の間に着いてしまう。
鏡を抜けたら 寮についてしまう。
離れ難くなって 少しだけ歩くスピードを遅くした。

「あ、」
「え?」

はた、と立ち止まる。
驚いたように振り返るイデアに「ごめんなさい、わたし 行かなきゃいけないところがあることを 思い出して、」と告げた。

売りをやめることを伝えなくてはならない人物が あともう一人だけいる。
誰よりも自分の身を案じてくれて、誰よりも愛をくれていた人に。

「わたし、デイヴィスおじさま…クルーウェル先生に 会いに行かなければいけません」

ナマエは少しだけ顔を青くして イデアにそう告げた。
こんな大切なことを なぜ忘れていたのだろう。
誰よりも先に伝えるべき人なのに。

「ごめんなさい、また明日」それだけ告げると、彼女は唖然とするイデアに背中を向け 教師室に向かって走り出した。



△▽



辿り着いたクルーウェルの教師室の前。
軽くノックをして名前を名乗ると 驚いた表情をしたクルーウェルが扉を開けた。

「どうした?」
「おじさま!…あの、話が あるの」
「入れ」

走ってきたのだろうか、少し上がった息と 赤い頬。
いつもと違うナマエの表情に クルーウェルは訝しげな表情で首を傾げた。

いつも──といっても 授業中や廊下ですれ違う時の彼女は、澄まし顔で 何処か遠くを見ていて 綺麗なのに近寄り難い雰囲気を醸し出していた。
唯一心を許している自分の前では笑顔を見せるものの、こんなに人間らしい&\情は ここ数年見たことがなかった。

「何があった」
「おじさま、あの、あのね。」

何から言えばいいかしら。どうやって伝えたらいいかしら。
そんなことを小声で呟きながら、ナマエは胸の前できゅ と手を握った。

どこか嬉しそうで、それでいて少しだけ恥ずかしそうな。
そんな表情をする彼女を見たのは、「友達ができた」と報告してくれた あの時以来だった。

「わたし、好きな人ができたの」

彼女の言葉に クルーウェルは目を見開く。
そんなクルーウェルに笑いかけると 「おじさま、わたしの話 聞いてくれる?」と問うた。



わたし、あの事件があってから 誰も信じられなくなったの。

折角友達になれたのに、あの子はわたしを売った。
人と関わるのも 人を信じるのも怖くなった。

あの子がわたしを虐めたのは、あの子が好きだった男の子がわたしに告白したから。
だから、人を好きになるのが怖くなった。

全部が怖くて 全部がどうでもよくて、だけどクルーウェル家のみんなだけは そんなわたしを大切に思ってくれて。
こんなわたしを養ってくれるクルーウェル家に これ以上迷惑をかけられないって思った。
どうせ汚れてるんだから どうでもいい、なんて自暴自棄になって 自分の身体を売ることにしたの。

色んな人の気持ちをお金で買っていたわたしは 最低だ って分かってる。
そんな最低なわたしは 誰かを好きになる権利も 好かれる権利もないと思った。

それでも、何にも囚われず わたしのことを見てくれる人が現れたの。
その人は、わたしのことをそういう目≠ナ見なかった。
それどころか、ありのままのわたしが好き って言ってくれた。わたしの特別な人≠ノなりたい って言ってくれた。

わたし その人に「すき」って気持ちを教えてもらったの。
……だから わたし、



「売りを やめることにしたの」

たどたどしくて 文脈もグチャグチャで、だけどナマエは必死に言葉を紡いだ。
そんな彼女の話を黙って聞いていたクルーウェルはただ一言「そうか」と呟いた。

喜ばしいこと、なのだろう。
今まで「すき」という感情を知らなかった彼女が 漸くその感情を理解した。
それどころか、身体を売ることもやめる と決意したのだ。
しかし、クルーウェルの表情はどこか険しかった。

「…おじさま?」
「…昔、友達が出来たと俺に言ってくれた時と 同じ顔をしているな」
「それ、は、」

クルーウェルの考えていることを察して 彼女は黙り込んだ。

自分のことを 心配してくれているのだ。
あの時も、今日と同じようにクルーウェルに報告した。
毎日が楽しくて 幸せだ、と事ある毎に話した。
しかし彼女は裏切られた。
身体も心もボロボロにされた。

その時の二の舞になることを クルーウェルは恐れているのだ。
もし今回も同じように裏切られてしまったら、今度こそ彼女は壊れてしまうだろう。

そんなことないわ。とナマエは言いかけて その言葉を呑み込んだ。
わたしがここで幾ら言っても おじさまは納得してくれない。…だって、確証がないんだもの。
悔しそうに唇を噛んで俯いた彼女に、クルーウェルは優しく諭すように言った。

「別に、疑っているわけではない。
ただ、俺は心配しているだけだ」
「わかって、る…」
「お前の好きになった奴が いつかお前を裏切る時が来るかもしれない。
そうなった時に 俺は冷静で居られる自信がない。
きっと其奴を、」

呪い殺してしまうだろう。
クルーウェルの言葉に ぶるりと身震いした。
そんな彼女を見て クルーウェルは更に続けた。

「そして お前が二度と傷つかないように、俺はお前を目の届く所にずっと 置かなくてはいけなくなる」

絶対に裏切らない覚悟が、裏切った場合 俺に殺される覚悟が、其奴にあるのか。
クルーウェルの言葉に ナマエは何も言えず俯いた。
答えられなかった。
彼を イデアを まだ何も知らないのだから。

二人の間に 無言の張り詰めた空気が流れる。
その空気は、突然開いた扉の音で掻き消えることになった。

「ありますけど。…覚悟くらい」

不意に扉が開いて、イデアが教師室に入ってきた。



△▽



ナマエが走り去る後ろ姿を唖然と見送った後、少し迷ってから イデアは彼女を追いかけることにした。
クルーウェルは学内で唯一彼女が心を開いている人間だ というのは昨日聞いていたし、何より彼女の家族には 誰よりも彼女の身を案じているであろう家族には、キチンと挨拶するべきだと思ったから。
普段ならば人と関わりを持つことを頑なに避けているイデアだったが、彼女のこととなると そのタガが外れるようだった。

「ありますけど。…覚悟くらい」

彼女とクルーウェルの話を扉の外で聞いていて、さてどのタイミングで入ろうか と思案していた矢先、イデアの覚悟を問うクルーウェルの言葉が聞こえた。
あ、と思うよりも先に身体が動き 気づくとイデアは二人の間に割って入ったのだった。

「…しゅ、ラウド、先輩、?」
「ごめんね、外で聞いてたんだ 二人の話。
重ねて謝るけど ちょっと話させて」
「イデア・シュラウド三年生?」

驚いたようにこちらを見る彼女に背を向け 眉根に皺を寄せるクルーウェルに向き合うと、イデアは少しだけ息を吸ってから深々と頭を下げた。

「この度は妹さんとお付き合いをさせて頂くことになりましたイデア・シュラウドです。
妹さんを僕に下さい。」
「…早くないか」

頭を下げたイデアに対して クルーウェルは思わず拍子抜けた。
我に返り コホンと誤魔化すように咳払いをする。
此奴がお前の特別な人か?と目線でナマエに問おうとして、ポーっとイデアを見上げる彼女の表情に 聞くまでもないことだと悟った。

「…そうか お前か」

イデア・シュラウド。
名門 シュラウド家の長男であり、イグニハイド寮の寮長。家柄も成績も問題ない。
唯一 コミュニケーション能力に問題がある とは思っていたが、今の彼を見る限り 彼女に関連する事柄であれば問題ないようであった。
クルーウェルは眉を下げて少しだけ笑うと、徐に傍らの指示棒をイデアに突きつけた。

「おじさま!」
「少し黙れ 俺は此奴と話がしたい」

目を見開いて慌てる彼女に目もくれず、クルーウェルは目の前のイデアを睨んだ。
イデアは少しだけ驚いた表情をしたものの 直ぐにクルーウェルの目を鋭い双眸で睨み返す。

「…ほう」
「何度でも言います…けど、」

こんなンじゃ ビビんないっすわ。イデアの言葉に クルーウェルは今度こそ笑った。
指示棒を下ろし イデアを解放する。

「イデア・シュラウド三年生」
「ハイ」
「俺のプリンセスを傷付けることがあれば 俺はお前を許さない」

最後にもう一度だけ念を押した。
分かってますよ。そう言ったイデアの耳元で「それと、」と声を潜めた。

「礼を言う」

そんなの、コッチの台詞ですッて。イデアは笑った。


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