おねえさんのものを、やたら欲しがるんじゃありません。

 そう叱る母の隣ではすぐ上の姉が眉を八の字にしてナマエを見ていた。ブロンドの髪をキラキラ輝かせながら、泣きそうな顔でナマエを見つめる姉の名前はナルシッサ。幼いながらナルシスの花のように美しい姉の体をタフタ生地のワンピースが包んでいた。その、天の川みたく静かに光る生地が羨ましくて、自分も同じのが欲しいとせがんだ。もう誰もエプロンドレスなんてつけてなかったわ。あんまりに子供っぽすぎるもの。母親はナマエの我儘だと切り捨てて、狼狽えたナルシッサがナマエを慰める。ナマエ、そのエプロンドレスだって、とっても可愛いじゃないの。ナマエが母親から叱られる度、ナルシッサは助け舟を出してくれる。しかしナマエはこの、良く出来た姉が嫌いだった。ナルシッサがそうやって“優等生”に振舞えば振舞うほど皆がナマエを見てため息を吐く。まあなんて賢くて可愛らしいお嬢さん。それに比べて、妹さんは少し奔放ですのね。苦笑と共に落ちてくる残酷な批評がナマエの胸を塗りつぶす。堪えきれない劣等感から俯くナマエへ、無神経な母親は追い打ちを掛ける。それに貴方、すぐ木の枝
やなんかへ引っ掛けてしまうじゃないの。ナルシッサの慰めを聞いただけで自分も十分に慰めたように勘違いした母親がナマエのつむじへため息をついた。先まで鍵盤の上を踊っていたしなやかな指が頬に寄り添い、眉が吊り上る。猫みたくお転婆だから、丈夫な木綿で仕立てさせたのよ。貴女がナルシッサみたいに大人しくしてられるなら同じものを着せてあげたわ。ナマエは懸命に感情を押し殺したが、夏の夜は遅い。まだ静かに明るい庭で、ナマエが泣いているのは誰の目にも明らかだった。ぽたっと縁石が濡れたのに、ナルシッサはいよいよ居た堪れないような顔をする。母親と並んで鍵盤を鳴らしていた白い指が、ナマエの涙を拭おうと伸ばされた。止めてよ、ママー人形の癖に! パンと辺りに響いた音はナマエがナルシッサの手を弾いた音でもあったし、母親がナマエの頬を打った音でもあった。貴女ったら、いつもそうやってシシーに酷く八つ当たって――ドロメダやベラとは上手くやっているでしょう。如何してシシーにばかり意地悪言うの。ナマエを叱る母親の隣で、やはりナルシッサは怒るでも悲しむでもなく狼狽している。そう
してじきに言うのだ。お母様、そんなに怒らないで。ナマエ、少し気が立っているんだわ。ねえナマエ、そうでしょう? 今日はとってもお利口にしていたもの……。気遣わしげな視線がナマエの輪郭を捉えて微笑む。今度こそ涙を拭おうと伸ばされた手から逃げるように、ナマエは駆けていく。走りながらストラップシューズを脱いで、両手に持つ。四阿を通り越して、薔薇園を曲がればもう二人の姿は見えなくなってしまった。母親の呆れた声さえも置き去りにしようと、ナマエは懸命に駆ける。ほらね――あの子はお転婆に過ぎるのよ。

 分かってないと、ナマエは唇を噛んだ。私はもう六歳。そりゃシシーに比べればお転婆かもしれないけれど、ガーデンパーティの席で急に木登りを始めるほどじゃじゃ馬じゃあない。そりゃシシーみたくピアノを弾いてみせることは出来ないけれど、お客さんが来ていれば大人しく座っているぐらい出来る。なのに母さんったら、私を猫みたいに扱うんだもの。タフタのワンピースを着たシシーと、木綿のエプロンドレスを着た私とを並べて、私がお転婆だって吹聴するんだもの。母さんはやっぱりねって言うけれど、一人になりたくって木に登る私の気持ちなんて全然分かってない。お客さんがいなくなるまで一人になりたいのを我慢してた私のことなんて、分かってない。シシーがそれを分かっていて、困り顔をしているのも嫌だった。そうやってシシーがフォローするから、母さんが私とシシーを比べるじゃない。
 真っ白いエプロンに覆われたナマエの胸はぐちゃぐちゃで、苔や木の皮がすり寄って汚れても、まだまだ自分の胸よりはずっと白いように思った。手に持っていた靴をそこらに放り投げて、ナマエは慣れた手つきで枝によじ登る。ひっくひっくと惨めっぽく嗚咽を漏らしながらスルスルと上へ登って行く。どんなに高くまで登っても霧に覆われた塀の向こうは見えないが、庭は一望出来る。茂みの間からはがらんとしたパーティ会場が見えた。夏空は夢見る時間まで明るいけれど、皆室内へ入ってしまったのだろう。屋敷僕妖精は晩餐会の支度に駆り出されて、白いテーブルクロスもティートレイもカトラリーもそのまま夕暮れに晒されていた。瞳に映る寂しさが胸の奥にあるものとリンクして、ナマエは幹にしがみ付いて泣きはじめた。どうせ誰もいないからと声を殺す事もなく泣き続ける。
 ナルシッサが迎えに来るまで泣き続けて、そうして下へ降りて、何とか私を庇い立てしようとするナルシッサの努力も空しく母親からまた厳しく叱られるだろうとナマエは思った。そう予想しながら、しくしく泣き続ける。

 アンドロメダは元々一匹狼だし、ベラトリックスはチビちゃんなんかに構ってられないと無視を決め込む。この家の中で唯一の男である父親はナマエのお転婆に寛容だが、恐妻へ逆らってまで庇おうとは思わないらしかった。結局母親の怒りを買ったナマエが頼るのはナルシッサと決まっていた。それを見越したようにナルシッサはナマエの絶望へ見て見ぬふりをする。あまりお母様を怒らせるようなことをしないで頂戴。貴女が単なる我儘じゃないって分かってるわ。ナルシッサはナマエの髪を梳きながらこんこんと言い聞かせる。お母様は疲れていらっしゃるのよ――お祖母様が伯母様と比べるから……。
 ナマエの父方の伯母に当たるヴァルブルガは二人男の子を産んでいる。尤もナマエの家は所詮分家だ。跡継ぎがいなくて困るわけではない。しかし四人も産んでおいて一人も男の子がいないなんてと事ある毎に当てつけられ、母親と伯母の仲は悪かった。
 八歳のナルシッサには分かっても、まだ六歳のナマエには分からないことがある。それを教え諭すように、ナルシッサは妹の髪を梳くのだった。ナマエの髪はナルシッサより随分短い。この妹が大人の我儘へ応えようと男の子のように振舞っているのも知っているし、父親からの海外土産が箒の模型だったことも知っている。お転婆だじゃじゃ馬だと叱りつける癖、機嫌の良い時は「可愛い坊や」と戯れに可愛がることも知っていた。それでもナルシッサだってたった八歳だ。自分のことで手一杯だった。
 お母様は疲れていらっしゃるのだから、貴女が我慢してあげてね。あまり甘えないでと突き放すような響きを感じ取って、ナマエはナルシッサを苦手に思うのだった。母親からの叱責と相成って、ナマエは自分を恥ずかしく思う。目の前に他人へ甘えないでも上手くやっていけるナルシッサがいて、自分がそうじゃないから。他人に甘えるのも、助けを求めるのも、自分で物事を如何にか出来ないのは恥ずかしいことなのだと植え付けられて、ナマエは縊られているかのような圧迫感を常に感じていた。

 一人になりたかった。一人になって、自分の浅ましさや惨めさをがなり立てる母親から逃れたかった。母から逃れ、一頻り泣いたら、何もかも忘れた振りをしなきゃならない。お母様は疲れているから私が良い子にしなければと、そう自然に反芻出来るようになったら、また今まで通りの暮らしが待っている。猫のようにお転婆だと笑われて、エプロンドレスに喉を締めつけられる暮らしへ戻らなければならない。嫌だとナマエは思った。ずっとこのままここで泣いていようかと思ったけれど、じきにお腹も減るだろう。それに樹上で一生を終えるにはまだ幼すぎるし、家族からそこまで冷たい仕打ちを受けているわけでもなかった。

 ナマエが六歳なりに色々な事を考えながらしくしくやっていると、下から声を掛けられた。「どうした。誰か、降りれなくなったのか」ナマエはぴたりと息を止めた。涙でべしょべしょになっている鼻を手で押さえる。鼻水が指に絡んだ。今更ながらに自分が情けない顔をしている事実に気付いて赤面する。こんな汚い顔、見せられない。矢継ぎ早に問いかけてくる樹下の人へ、ナマエは猫の鳴き声を真似て聞かせた。「なんだ猫か」と思ってどこかへ行ってしまえば良いと思ったし、騙されずとも木の上の誰かが一人でいたいと思っていることに気付いてくれれば良いと思ったのだ。樹下の人はよっぽどうっかりだったのか、はたまたナマエの猫真似が上手かったのか「なんだ猫か」とため息を落とした。そうして声がしなくなる。ナマエは胸を撫で下ろして、鼻水のついた指を枝へこすり付けた。真っ黒にぐるぐる渦巻いていた胸は随分落ち着いていた。声を掛けられたのに驚いたので、涙も引っこんでしまった。ナマエは腰掛けている枝をぎいぎい揺らしてみた。ナルシッサはまだ迎えに来ていないけれど、帰ろうか。ガーデンパーティの時、皆が話に
夢中になったら、レギュラスを箒に括りつけて飛ばしてみようってシリウスと話したっけ。ナマエはすんと鼻をすすった。歳が近いのもあってナマエはあの我儘坊主がそう嫌いではなかった。ナルシッサは毛嫌いしているが、中々に発想が突飛で面白い。
 シリウスの好き放題を思い出したらこんなところで泣いているのが馬鹿みたいに思えてきた。降りよう。そうしてシリウスと一緒にレギュラスでも虐めて、母親の愚痴でも言い合おう。そう下を向いた途端にアイスブルーの瞳とかち合って、ナマエはぎょっとした。誰だ。ナマエは自分を見上げる男の子とじいっと見つめ合う。見覚えがある――そりゃ同年代の子なら一通り紹介されているから、なけりゃ困るのだけど――男の子の癖にリボンで髪なんて結んで変なのと思ったことしか思い出せない。それから、シシーと並んでお喋りしていたように思う。それはつまりシシーと同じママー人形ということで、私やシリウスと違う、大人達から誉めそやされるタイプの人間ということで……。悶々と考え込んでいる内ナマエは大人達の台詞を思い出した。息子さんはまだ九歳なのに聡明で、先が楽しみですな。いやいやルシウスなんて、こう見えて家では好き放題だ。お宅の娘さんは普段から大人しいんでしょう。ナマエは赤い目でルシウスを睨みつけた。
 ルシウスはナマエが腰掛ける枝へ膝を乗せる。ぎいっと傾いだのを聞いて、足を引っこめた。六歳の女の子の体重には耐えられても、九歳の男の子の体重は支えきれないようだ。そうやって考えを巡らせている間にも剣呑な視線で射抜かれ続ける。ルシウスは肩を竦めるとからかうような笑みを口元へ浮かべた。「ここの家の末娘は猫みたくお転婆だと聞いたけど、なるほどね」クスクスと笑われたのに――それも大嫌いな形容詞を使われて――ナマエの顔がさあっと赤くなった。「まるきり猫みたいだ」
 ナマエは反論するべく口を開いたが、枝の軋む音にたじろいだ。よじよじと、幹の近くへ寄る。おっかなびっくり移動するのが木から降りれなくなった猫のようで、ルシウスはぷっと噴き出した。悔しそうに顔を歪めながら、ナマエは結果的にルシウスへ近づいていく。ルシウスは幹近くの太い枝を軸にしていた。このクスノキは随分と頑丈だが、それでも細くなっている枝の先へ行こうなどとは思えなかった。尤もナマエはそんなことお構いなしで好きにギシギシ揺らしていたらしいが。
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