大抵の先生は新任であっても、わたしの名前と顔はすぐに覚える。幸か不幸かそれにより、わたしはいつも、授業で当てられたりする。なぜか。それはこのわたしが、黒い目に黒い髪というここでは“異端”な外見であること、また、日本人にしては珍しい響きの名前であることからくるものらしかった。


「ああ、それは明日も使うから、そこに置いておいてくれると嬉しいな」

「はい」

「すまないね。私一人で出来たら良かったんだが」


 そう言って、ルーピン先生は目をしぶしぶとさせながら羽ペンを走らせる。さすがは教師、やることはまるで泉のように次から次へと湧いてくるらしい。しかし無理もない。彼は新任であるうえ、なにかと重要で内容も濃い防衛術担当の教授なのだから。疲れているのか、たまに眉間を指でもんだりこめかみの辺りを押さえたりしている。こけ落ちた血色の悪い頬を見れば、この人が健康か不健康かだなんてすぐに分かった。
 よいしょと、言われた通りにそこへ教材をまとめていれば、ふいに彼が立ち上がって自室へ向かうのが見える。気にせずプリントやらを丁寧に整理していれば、ぽん、右肩に温かい感触がした。振り向けば高い位置のそこに、曖昧に笑うその顔はあった。


「今からちょうど、お茶にしようかと思ってたんだけど―――この間、たまたまお菓子を沢山貰ってね。一人じゃ食べきれないぐらい。もし君さえ嫌じゃなかったら、どう、これから?」

「えっ……でも。いいんですか、」

「もちろん!いつも手伝ってくれてるお礼」


 そう言われてしまえば、その言い訳がましい前置きも気にならなくなってしまった。「甘いものは好き?」短い階段を上がりながら言われたそんな言葉に食いつくような肯定をせずにはいられないぐらい、わたしはお菓子やらそういうたぐいは好きだった。メインディッシュの前にまずデザートに手をつける。ハーマイオニーにはそれを、「本末転倒」としばしば形容されるぐらい。
 紅茶を淹れて貰っている間は手持ちぶさただったのでそのエピソードを話すと、先生は「へえ」となんだか意外そうに笑って言った。「そんなイメージは無かったなあ。」
 魔法を使わずに淹れたその紅茶は、あくまで自然な湯気を上げる。アールグレイのみずみずしい香りをたっぷりと含んだそれは、シンプルな柄のマグカップの上でしたたかに息を吸い込んだわたしの鼻腔の隅々までを清めた。きちんとした淹れ方を心得た人のを飲むのは、きわめて初めてだった。


「砂糖は?」

「あ……先生が思うぐらいで、」

「なんだか緊張するなあ。口に合わなかったりしたら、言ってね」


 そう言う割にはさほど迷わずに砂糖を掬う銀色のスプーンは、やがてかちゃんと小さな音を立ててそれをかき混ぜる。手渡されたそれを受け取ったわたしは、「うん?」と眉毛を上げてこちらを見る先生に、一口すすった感想を半ば驚きながら述べた。まさか、わたしにも知らないわたしの“丁度良さ”を心得たような、適切な程度の甘さだった。その言葉に先生は「良かった。あまり他人に紅茶は淹れたりしないから。」笑いながらこれまた意外なことを口にする。
 先生ほどに大人な人なら、恋人の一人や二人、いるであろうに。


「私に?うーん、それは喜ぶべきなのかな。でも残念ながら私は独り身さ、ご覧の通り」

「でも、ロンドンで待ってる……!みたいな人が」

「いないんだな、これが。ロンドンには知り合いの一人も、ああ、いや騎士団時代のが一人いたっけ。でも恋仲じゃない。興味ないんだよ、昔っからその手のことには」

「じゃあ恋したことは?」

「あー、それは、ある。けど見事に惨敗。ほら僕、人から好かれるような容姿も性格もしてないから」


 なんだかえらく昔のコメディ映画を語るような口調で言う先生に、わたしは思わず「そんなことない、」スカートの上にクッキーをぼとりと落として言った。きょとんとしたような顔の先生。わたしはすぐにかあっと顔が熱くなるのを感じて、「だから、つまり……」温かい紅茶の入ったマグカップをテーブルに置く。


「先生は、優しいし、おもしろいし……背だって高い、から。人から好かれないわけないって、思って」

「それは、」


 素直に嬉しいよ。
 高い位置からくすりと、空気が漏れるのを聞いた。(わたし、なにいってんだろ)とてもじゃないけれど先生を直視できないわたしはそして、誤魔化すように紅茶をすする。少しだけさめたそれは舌に優しい温度を守って、ゆっくりと胃に落ちていく。それからスカートの上に落ちたクッキーを口に詰め込んだわたしは、そこでやっと、先生を見た。なんだか興味のある何かを、注意深く観察しているかのような目だった。高い座高は座ってもなお高いままで、できるだけ威圧的にならないようにと、努力して首を斜めに傾げているのが分かる。ゆえになにか、うかがうような丸い背格好の先生の目は上目遣いに、わたしをじっと見る。不思議とこちらがどきまぎしてしまうような目だった。それぐらい、優しさの奥になにか、得体の知れないものをはらんだ目だった。


「……の。もう、帰ります。そろそろ夕食だし」

「ああ、もうそんな時間か。今日はありがとう。実に楽しい時間だった」

「いえっ!こ、こちらこそごちそう様で―――」

「それにナマエが、背の高い人が好みだってことも分かったし」

「え?」

「なあんてね、冗談だよ。本気にした?」


 くすくす笑う先生に、わたしはまた顔がかあっと熱くなるのが分かった。事実、そうだからますます恥ずかしい。先生の大きな手も、高い背丈も、全部、ぜんぶわたしの好みだなんて死んでも言えない。


おなかの中に隠したこと