ナマエが身動ぎするたび、手首の鈴がチリチリ鳴る。もう二年も昔にやったものをまだ着けているのかと、ルシウスは感心した。
「たったの三年よ」ナマエは窓辺に寄りかかるルシウスのほうへ寝返りを打った。「そうしたら、私もホグワーツへ行くの」
 乞うように伸ばされた手へ、ルシウスは歩み寄る。ナマエが僅かに身を起こして、ルシウスへ抱き着いた。少なくとも三年は見ることがないだろうルシウスの制服姿を瞼に蘇らせながら、ナマエはルシウスに顔を擦りつけた。目じりに涙が滲んで、ルシウスのローブに吸い込まれて行く。「私もすぐにホグワーツへ行く、絶対にスリザリンへ入るわ」だから私を置いてかないで、三年間待っていて。
 幼い口約束さえはぐらかすルシウスへそんなことを言っても無駄なようで、ナマエは口を噤んだ。
 ルシウスがナマエの髪を優しく梳いた。指先から零れた金色がキラキラと陽光を映し出す。「たった三年だ」ぽつんと呟いた。
「それに、夏季休暇やクリスマス休暇には帰ってくる。お前のことだから、どうせ、僕の家に入り浸るんだろう」
 ナマエはルシウスの胸から顔をあげて、泣きそうな顔で笑った。

 三年。自分はその間ルシウスと殆どお喋り出来ないし、ホグワーツへ入学してからも今みたく一緒にいることは出来ないだろう。やがてルシウスは自分を残して卒業してしまうのだ。ホグワーツからの入学許可証を待つ三年と、卒業までの時間を無意味に潰す三年がナマエを待っている。でも、少なくとも四年は一緒にホグワーツで暮らすことが出来るじゃないかとナマエは己に言い聞かせた。
 それにホグワーツを卒業すれば、ルシウスと結婚出来る。結婚したら一緒に住んで、もう離れることもないだろう。

「……シシーは良いな」ルシウスと出会って以来、実に二年ぶりに口にする妬みだった。「せめて一つ下だったら、良かったのに」
 悔しそうに親指を噛むナマエへルシウスは何も言わなかった。年齢差は如何しようもないし、それにルシウスは少しばかりこの年齢差を有り難く思っていた。確かにナマエは可愛らしかったけれど、構ってちゃんな一面がある。少しばかり一人の時間を望んでも罰は当たらないだろうとは思ったものの、こうして寂しがるナマエを前にすると罪悪感が滲んできた。
 ルシウスは身を屈めると、しくしくと泣きだしたナマエの唇にそっと口付ける。涙に潤んだ瞳で自分を見つめるナマエを慰めるように抱きしめた。「ホグワーツから梟便を送るよ。毎日出してやるから、もう泣くんじゃない」
 ファーストキスは本の記述とは違ってレモンのように甘酸っぱくはなかったが、ナマエの不安を溶かしてくれた。
「ルシウス、大きくなったら、わたしと、結婚してくれる?」
 ナマエはルシウスの胸に顔を埋め、鼻声でいつもの質問を繰り返す。ルシウスはやれやれと頭を振った。
「お前は職業魔女として社会へ羽ばたく気はないのか。才媛を多く輩出してきたブラックの名が泣くぞ」
 上から降ってきたのはいつもの“はぐらかし”だった。

 ルシウスは不誠実だと、ナマエは思った。面倒くさいことになるとこうしてはぐらかしてしまうし、凡そ重要な選択というのをしたがらない。両親がイエスと言えばイエス、ノーと言えばノー。まるきり考える頭がないわけではないが、如何も両親との衝突を避ける節があった。今まではそこへ付け込み、ルシウスの両親が自分へ好意的なのを笠に着てきたわけだが、ホグワーツへ行ってからは如何すれば良いんだろう。悶々とする内に三年が過ぎ、果たせるかなホグワーツでのルシウスは奔放に暮らしていた。

 この三年の内夏季休暇やクリスマス休暇の度会ってはいた。ホグワーツへ向かう汽車のなかでも付き添ってくれた。しかしナマエの目に校内を歩くルシウスは酷く大人びて見えた。そんなに親から抑圧されていたようには思わなかったけれど、同級生たちに囲まれているルシウスは活き活きとしていて、ナマエの知らない人のようだった。何よりも等級付けられてしまうと、自分達の年齢差をひしひしと感じる。ナマエはピカピカの一年生、ルシウスはもう先輩風吹かすのも板についてきた四年生だ。
 ぽつんと寂しさが一粒胸に染みを作った。どんなに大事にしても五年の歳月に傷んでしまうリボンはまだ手首に巻かれていて、鳴らせば鈴がチリチリと響く。鳴らしてもルシウスは私のそばに来てくれないかもしれないとナマエは思った。ルシウスの隣には可愛い女の子や綺麗な女の子が一杯いて、十一歳の自分は出るところも出ていないチビ助だ。胃が痛くなった。世界が歪んで見える。苦しいほどの圧迫感に、ナマエはクスノキを探して駆けだしていた。ナルシッサが気づかわしげに手を伸ばしたけれど、ナマエの望んでいるのはそんな華奢な指じゃない。力いっぱい走って、そうして玄関ホール脇の木に寄りかかる。梢は高く、ナマエの手が届くところには枝の一本さえなかった。それでもどうにか登れないかと手を上げる。チリチリと鈴が鳴って、丁寧に爪の切りそろえられた手がナマエの腕を掴んだ。もう片方の手で胸を押さえて、はあはあ息切れに喘いでいる。ルシウスは眉間にしわを寄せ、ナマエを睨んだ。
「爪を研ぎたいなら寮のなかでやれ――じきに夕飯だぞ。それともホグワーツにきて最初の週末をすきっ腹で過ごしたいのか?」
 ナマエはルシウスへ抱き着いて、酸素を求める魚のように喘いだ。

 私を置いてかないで、シシーみたく綺麗になれなくても、可愛くなれるよう努力するから、早く大人になるよう頑張るから、良い子にするから私を置いて行かないで――世界中の人がじろじろ見てきて、人目を気にして泣くことさえ出来ない世界に置いて行かないで。

 そう口にしたらルシウスがするりと何処かへ消えてしまいそうで、ナマエは悲鳴ではなく駄々を口にした。
 もっと構ってくれなきゃ嫌。ホグワーツへ行ったら沢山遊んでくれるって言ったのに、ルシウスの約束破り。そう詰ればルシウスはため息と共にからかいを口にしてくれるのだった。いつか、そう遠くない内にからかいではなく求愛を紡いでくれるようになるだろう。そう言い聞かせても不安は溶けない。三年前も同じような事を言い聞かせたじゃないと不服が鎌首をもたげる。胸の内に不安が広がった。せめてもう一年歳が近ければ良かったのにと、親指の爪を噛む。伸びることはないが縮むこともなく存在している三年が恨めしかった。早くホグワーツを卒業してしまいたい。そう願った途端ルシウスとの学校生活は飛ぶように過ぎていき、もうルシウスのいない校内にも慣れた。ルシウスのいないホグワーツは酸素ポンプを付け忘れた水槽のようだとナマエは思った。ホグワーツで共に過ごした四年の間にも、ルシウスは“約束”してくれなかった。それどころかナマエの知らない女の人とキスをしていることさえあった。ナマエがルシウスとキスをしたのはもう七年の昔のことになってしまって、それでもまだルシウスと婚約するという未来を疑ったことはなかった。そうよ、だってルシウスのお母様はブラックの娘を欲しがってる。ルシウスと釣り合う年齢で、私ほど血筋の良い女の子なんて絶対にいない。絶対にルシウスと結婚するの。ルシウスの奥さんになって恥ずかしくないように勉強も頑張るわ。お洒落も、ルシウスと並んで恥ずかしくないように頑張る。早く時間が過ぎれば良い。早くホグワーツを卒業して、ルシウスと結婚したい。シシーのように、世界中からお姫様みたく扱われなくて良い。貴方に愛して貰えるなら、何も要らない。

 早く私にキスをして。跪いての求愛など望みはしないから、ただ一言イエスと言って。

 父上から仕事を教わるので忙しいんだ。一体夏季休暇に入ってから幾度同じ返事を貰っただろう。ナマエはルシウスの仕事机の脇に、同じ文面の羊皮紙が束になっているところを想像した。ナマエの豆梟がルシウスの部屋の窓を叩くたび、そこから取って持たすのだ。あながちこの想像は間違っていないかもしれないとナマエは思った。
 コピーレターを片手に遅い朝食を取りながら、ナマエはルシウスへの恨み辛みを募らせる。そんな風にして平和な夏の日を謳歌していると、蝶番の軋む音がした。かつては六人が暮らした家に、今はもう四人しかいない。父親は日中仕事に出かけているし、ナルシッサは友達の家へ遊びに行っている。消去法で音の主に気付いたナマエは咄嗟に手紙を隠したが、母親はお行儀悪に目ざとく反応した。「ナマエったら、十六歳にもなってそんなんじゃ嫁の貰い手がないわよ」ナマエはミルクと一緒に苦虫を飲み込んだ。
 良いわ。ルシウスに貰って貰うんだもの。ナマエがそう言おうとしたのを遮って、母親が畳み掛けた。
「シシーでさえ婚約者が決まるまで結構掛かったんですからね。貴女の時は一体どうなるやら」
 ころんと、フォークから逃れたトマトがお皿の上を転がる。ぱくと口が開いたが、何の音も出ないままに閉じた。息が苦しい。ナマエの母親は娘の動揺から顔を背けた。母親の無神経で残酷なところは、十年前から変わらない。
「来年あたり結婚することになったわ――ルシウスと」
 シリウスがグリフィンドールに入ったでしょう? そりゃ最初はルシウスと貴女、シリウスとナルシッサで話が進んでいたけれど……あんな子が夫じゃあナルシッサがあんまりに可哀想すぎるわ。でも義姉さんたら跡継ぎの嫁は如何してもナルシッサかナマエじゃないと嫌だってゴネて、貴女、ほら、昔はシリウスと仲が良かったでしょう? それにここだけの話、義姉さんはレギュラスを跡継ぎに据える気かもしれないのよ。そうしたら、ねえ? ナルシッサとじゃああんまりに歳が離れすぎているわ。レギュラスは少し気の弱いところもあるけれど、気が強い貴女と合うんじゃないかって義姉さんが言うのよ。それにナルシッサのほうがルシウスと歳が近いでしょう。
 何も聞こえない。ただ、ルシウスとナルシッサが二人で話している姿が脳裏に過ぎる。整った顔立ちのルシウスと、ホグワーツ一美人のナルシッサが並ぶと酷く様になる。ラブロマンスのワンシーンみたいねとはしゃぐ友人に、ナマエの胸は黒く塗りつぶされた。気道さえ、視界さえ塗りつぶされていく。そりゃナマエだって可愛いけど、お姉さんは断トツ。それに、お姉さんのほうが歳が近いじゃない。ルシウスと結婚するんだって言ってるけど、そう上手く行くのかしら? 意地悪な少女の名前が思い出せない。その名前を紡げないほどに、妬んでいた。いつだってナマエの欲しいものを手にしていて、圧倒的な優位から優しく振舞って下さる。
 容貌は勿論のこと、成績だって、人望だって、友達の多さだって、到底勝つことなど出来なかった。タフタのワンピースも、外国土産のオルゴールも、お母様の愛情だって貴女のもの。私はルシウスさえいれば良いのに、他に何も要らないのに、また手に入らない。

 チリチリと、この十年間寄り添った鈴の音が響く。チリチリと真っ黒い胸が焦げる音が響く。


世界はあなたにやさしい


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