「そうやって幹にへばりついていると、いよいよ猫みたいじゃないか」
 ルシウスの揶揄へナマエは顔を強張らせる。それが一層怯えた子猫のようで、ルシウスは先日庭へ入り込んだ子猫のことを思い出した。どこから入り込んだのか、クリームの毛並をした子猫が木から降りれなくなって、フーフー毛を逆立てて怯えていた。潔癖な母親と面倒くさがりな父親が屋敷僕妖精に処分させようとしているのがあんまりに可哀想で、ルシウスが助けてやった。散々引っかかれたけれど、自分の腕の中でぷるぷる震える子猫は可愛らしい。この子猫を飼いたいと、普段は聞き分けの良いルシウスが珍しくもごねたものだ。勿論両親は許してくれなかった。ホグワーツへ行ったらじき梟を買ってあげるからと素気無くあしらわれ、ルシウスにしがみ付く子猫は屋敷僕妖精に連れて行かれてしまった。屋敷僕妖精のしわくちゃな手をひっかきながら、子猫がルシウスを見つめる。みゃあ。子猫の鳴き声へ被せるようにして、母親が頭を振る。あんな汚い猫、何だって飼いたいなんて思ったの。ルシウスはぎゅっと拳を握りしめた。そうとまで言われてしまえば、まだ九歳のルシウスは母親へ従う他なかった。にゃあん。子猫の呼び声がルシウスの耳朶を震わす――否、子猫のものよりもずっとしっかりした鳴き声だった。我に返ったルシウスの目の前にはぐすぐす泣くナマエが居た。
「なによ……なによお」ナマエはごしごし目じりを擦った。指が眼球を掠めて、また涙が出る。「ほっといて、よ。猫が、ねこが木の上いたって面白くなんか、なんにも楽しくないでしょ」鼻水が出た。ナマエは袖を引っ張って、鼻を拭う。

 しくしく泣くナマエに、ルシウスは複雑な顔をした。本当を言えば笑いたかったのだけど、そうしたらこの“子猫”が機嫌を損ねることは火を見るより明らかだった。ひっかいたりしない分、こっちのほうがずっと厄介だとルシウスは他人事っぽく思った。
「面白くなんてないけど、木の上から降りられないんじゃ可哀想だと思ってね」おいでよと手を差し出す。ナマエは訝しげに手を見るだけで、指一本動かさない。「泣くだけなら下でも出来るだろう。頭の上でみゃあみゃあ鳴かれていると気になるんだ」
 いつまでもじっとしているナマエに痺れを切らせ、ルシウスは身を乗り出した。ナマエの腰を抱き寄せて、その耳元へ「頭から落ちたくなかったら僕の肩に掴まっているのがケンメイだと思うけど」と囁いた。ナマエがルシウスの首を絞めようとする。ナマエは目をぎゅっと瞑り、ルシウスは気道をぎゅっと圧迫されていた。もっと緩めろと指示を出したくても声が出し辛い。それに自分が脅しすぎたのだと思えば諦める他なかった。窒息死が先か転落死が先かと危ぶんだものの、二人は無事に地上へ降り立つことが出来た。

「一人でも、降りれたわ。私、木登り得意なのよ。うちんなかで一等上手なのよ」
 地に足が着くや否やナマエは生意気な口を叩いた。泣き顔を見られたのが気恥ずかしかったのだ。そうして物言いたげに口を尖らせてから、くるりとルシウスに背を向ける。ルシウスは眉を顰めたが、何も走って逃げようというわけではない。クスノキの下にある低木のあたりをごそごそと漁るナマエの足には靴も靴下もない。猫みたくお転婆と吹聴されるだけあって手馴れているなとルシウスは思った。ルシウスは今回もローファーを履いたまま登ったが、確かに裸足のほうがずっと上りやすいのかもしれない。
 茂みからひっぱり出した靴から靴下を取り出すナマエを尻目に、ルシウスはポケットを探った。ルシウスはシリウスほどやんちゃではないが、それでも九歳の少年だ。少年のポケットにはゴミみたく便利なものの一つや二つ入っているものだと決まっていた。
「僕は木へ登ったのはこれで二回目だけど、結構簡単だな。一等上手なんじゃなくて、君以外誰もしないだけだろう」
 ストラップシューズのつま先でとんとんと芝生を蹴っていたナマエがルシウスを睨んだ。何度も何度もチャレンジしてはようやっと登れるようになったものを簡単と言われ、ナマエの矜持は殆ど崩れかかっていた。木からは下ろされてしまったし、相変わらずお転婆と馬鹿にされているし、ナマエの胸は行き場のない悲しみで一杯になっていた。ナマエは唇を噛んで俯いた。ナマエが心置きなく泣けるのは木の上だけだった。こうして地上へ下りてみれば世界はあまりに狭くて、ちょっと泣くだけでも世界中からジロジロ見られてしまいそうだった。そうして大人達が言うのだ。お転婆で我儘な上に泣き虫なのねと笑い出す。頬を伝う涙を冷たい指が拭った。
「そんなに泣くことないだろう。何も君を馬鹿にして猫みたいだって言ってるわけじゃない」
 ルシウスがバツの悪そうな顔でナマエを見つめていた。冷たい指が乱暴に目じりを擦る。皮膚へじわりと滲む冷たさが優しくて、あやすように話すのが優しくて、ナマエは顔をくしゃり歪めるとぼろぼろ泣き出した。
「だって、シシーはお姫さまみたいだって、言われるもの。なのに、私、わたし、ねこみたいにおてんばだって皆ばかにして、」
 なるほど、姉と比べられでもしたんだな。ルシウスはナマエの泣いている理由に合点が行った。元々ルシウスはナマエよりもナルシッサとのほうが親しかったし、年下連中とわあわあ遊んでいるナマエは傍目にも“お利口”とは言い難い。自分とお喋りをしているナルシッサが遠くを見てソワソワしているのに何事かと思えば、ナマエがブラック本家の息子を泣かせていた。こんなに大人しいナルシッサの妹が如何してあんなにじゃじゃ馬なのだとは勿論ルシウスも思ったが、上の姉二人を思い出して頭を振った。自分だって小さなころはベラトリックスに散々虐められたじゃないか。未だにチクチクされるのを顧みれば、ベラトリックスの妹がシリウスを泣かしていても何の不思議もないというものだ。こうしてお澄まししていられるナルシッサのほうが異分子なのだとルシウスは結論づけ、それ以降ナマエを意識することはなかった。まあ、ベラトリックスに似ているんだろうと結論付けたナマエが殊勝にも一人樹上で泣いているというのは意外だったが、ナマエのブロンドの髪は光がないとクリーム色のように見える。
 ルシウスはしくしく泣いているナマエの前髪を掻き上げて、ホットミルクみたいに温かい額に口づけた。
「お姫様より子猫のほうが可愛いじゃないか」
 そうだろうと問いかければ、目を丸くさせたナマエが首を傾げる。「だってお姫様は飛び切り可愛いからお姫様なのよ」チビなりに世界の不条理を正そうと反論してきた。ルシウスはナマエの不満をあしらいながら髪を結んでいたリボンを解いて、ポケットから取り出した鈴を通した。緑色のリボンの真ん中でチリチリなる銀の鈴を見て、ナマエがきょとんとする。ルシウスの指が暮れた空にくすんでクリーム色に見える髪をかき分けて、ナマエの首にリボンを結びつけた。ナマエがくっと顎をあげると、チリチリ鳴った。
「そんなみすぼらしい恰好して、首輪つけておかないと外に放りだされるぞ」
 ルシウスのからかいへナマエは眉を寄せたが、リボンを解こうとはしなかった。シリウスと一緒にレギュラスを飛ばそうともしなかったし、ナルシッサの姿を探す事さえなく、ナマエはルシウスが暖炉のなかに消えるまでずっと彼にしがみ付いていた。チリチリと鈴を鳴らしながらルシウスの後をついていく姿を見て、大人達は平和に笑った。まるでルシウスの飼い猫みたいね。そう笑われているのも気にならないぐらい、あっという間にナマエの世界は狭くなっていった。

 パーティが開かれる度、ナマエはルシウスの影を探す。そうしてきらきら光る銀髪を見つけると、ルシウスから貰った首輪を手首につけて、銀の鈴をチリチリ鳴らしながら走って行くのだった。ルシウスもナマエを冷たくあしらいはしない。力いっぱい自分へ抱き着くナマエを剥がすと、大人しくしていることと引き換えに隣にいることを許すのだった。まるで本当の兄妹のようと周囲の大人達に微笑ましく見守られながら、ナマエはルシウスを慕っていた。ブラック家との密接な繋がりを欲しがっていたルシウスの両親にとって二人の親密さは好都合だったし、ナマエの両親はルシウスが娘を躾けてくれるのに大喜びだった。あれだけお転婆・じゃじゃ馬と囃されていたナマエはルシウスの“飼い猫”になって以来木登りを止めてしまった。髪も伸ばすようになり、ナルシッサほどとまでは行かずとも少女らしくなった。そうしてタフタのワンピースを仕立ててあげましょうかと言う母親へ微笑うのだ。タフタのワンピースも何も要らないから、大きくなったらルシウスと結婚させて、と。

 己の願いは妥当なものだとナマエは思っていた。ナマエはナルシッサやルシウスほど聡明ではなかったが、八歳になる頃にはルシウスの両親がブラック家の娘を娶りたがっているということも、伯母が気に入りのナルシッサを嫁に欲しがっていることも知っていた。母親も一等お気に入りのナルシッサをブラック本家へ嫁に入れたいだろうし、シリウスが年頃になり次第ナルシッサと婚約するのは目に見えている。アンドロメダはルシウスを嫌っているし、ルシウスの母親も変わり者と彼女を嫌っていた。ベラトリックスのことはルシウスが嫌っている。自分がルシウスと結婚するのは殆ど決まったことだとナマエは思った。ナマエはチリチリと鈴を鳴らしながらルシウスへ囁くのだった。いつか大きくなったらルシウスと結婚するの。約束よ。そう繰り返すとルシウスは苦笑して、何年後の話だとナマエを窘める。ナマエは如何してもルシウスの口から承諾の台詞を聞きたいと思ったが、どんなに頼み込んでも確約するどころか相手にすらしてくれないのが常だ。

「これで三年は耳元でみゃーみゃー言われなくて済む」
 縫いあがったホグワーツ制服を着たルシウスが、自分のベッドの上で本を読むナマエへため息をついた。ナマエは煙突飛行粉の使い方を覚えるとマルフォイ家へ出入りするようになり、今となってはルシウスの部屋の一部に自分専用の本棚を持ちこんでいた。四六時中付き纏われるのに嫌気がさしたルシウスが強制送還を目論んだこともあったものの、両親たちが邪魔をする。ルシウスの両親は「可愛い妹が出来て良かったじゃないか」と他人事だし、ナマエの両親は「馬鹿な子だけどルシウスに教わったところはちゃんと覚えているのよね」と専属家庭教師みたく扱ってくる。それにナマエがルシウスの布団のなかで泣き出すので、強制送還は諦めた。
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