諦観と期待、歓喜に基づく何か

たとえばお金持ちになりたいと言う人間の目の前に、特に理由もなくポンと1億円が置かれたとしよう。その人は果たして喜ぶだろうか?いや、喜びはするだろうけれど、最初に困惑するのではないだろうか。驚愕、でもいい。喜びの前にまず、「本当にもらっていいものか?」「何か対価があるのではないか?」「そもそも何故自分に?」だとか、そういう疑問が生まれてくるものだと思う。
要は今の僕も、それだった。
突然降って湧いた僥倖に、歓喜よりも驚愕や困惑が勝っている。
女の子になりたい──僕の感覚的に言えば、戻りたい──とは思っていた。けれどそれは叶わないはずだったのだ。叶わないとずっと諦めていたことだった。叶えられることがないのだと、思っていた。
だからこそ……いきなりその願いが叶えられて、どうしたら良いのかわからない、わけで。

「と、りあえず、……警察行くか……?」
「あ、うん。……うん、そうだね」

個性の違法行使は犯罪である。その被害者になってしまったのなら、とりあえず通報するべきだ。
スラックスの裾を折り、ベルトを締め、とりあえず満足に歩けるようになった。サイズの合わない服とはこうも動き辛いのだなと他人事のように考える。そもそも靴のサイズが合わないので歩き辛いことこの上ない。前屈みになった時に気が付いたけれども、髪もそこそこ長くなっているらしかった。ずっと短かったので鬱陶しさがある。
……だけど、そうか。これは個性の影響だから、長続きするとは限らないか。もしかしたら時間経過で効果が切れるかもしれないし、そうじゃなかったとしても、犯人が捕まれば元に戻るだろう。永久的にこのままとは限らない。それに思い当たった僕は、何とも複雑な心境だった。
僕と勝己は、最寄りの交番に行って事情を説明する。いたずらだと疑われることはなかった。自分では自分の顔がわからないけれど、女性になったからといってそうも大きく顔つきが変化するということもないはずだ。学生証を見せたら納得してもらえたらしい。今までにこういった被害に遭った人を見たことがないというから、おそらくは僕が初めて。まあだから、犯人はわからないし、この個性がどのようなもので、またどの程度これが持続するのかもわからないということだ。
被害届を提出して、これ以上はどうしようもないのでおとなしく帰宅することにした。まさか、入学初日にこんなことになるとは。……明日も戻らなかったら、説明が面倒そうだ。

「身体大丈夫なんか」
「たぶん。女の子になった以外は何もないかな」
「そうかよ」

体調面は、全く問題ないのだ。普段通り。痛いところもない、気分も悪くない。ただ、精神的にはどうしたら良いのかわからないのが本音。あまり考えないように、しているけれど。どうせ一過性のものなのだから。

「……ていうかこれ」
「あ?」
「勝己が女の子になってた可能性……」
「やめろや!きめえこと考えてんじゃねえ!」
「いやきっつい……僕のほうで良かったんじゃないの?」

まあ勝己が女の子になったら、どう考えてもおばさんを若くした感じになるんだろうけれど。すごい似てるし、いつだか見せてもらったおばさんの若い頃の写真を思い出して、一つ頷く。
だけれども、勝己のこの性格と口調だ。どこからどう見てもヤンキーにしかなりそうにない。……これを考えるとやっぱり、僕で良かったのかもしれない。中身はそもそもあれだし。

「あー何かでも、勝己より身長低いのやだな〜、僕のほうが高かったじゃん?」
「うっせえたかが3cmで調子のんな!体格考えりゃそう変わんねえだろが!」
「いや、たかが3cmされど3cmでしょ、……っていうか僕、今どのくらいなんだろ……?」
「そこらの女子と変わんねえだろ」
「女子の平均身長って、155〜160cmくらいだっけ……?そっか、そのくらいか。あはは、勝己のこと立って下から見るの初めてだ」
「おいそりゃ嫌味か?受けて立つぞクソが」
「事実じゃん?」

立ったまま下から見上げる勝己は新鮮だ。幼少期からずっと、勝己よりも僕のほうが背が高かったから。勝己より身長が低かったことなんて一度だってないというのに、性差は顕著だった。僕の頭は現在勝己の目線くらいだろうか?威圧感の割にさほど身長の高くない──基、男子の平均身長くらいの勝己だけれど、こうして自分の背が縮んで見るとやはり大きく見えるものだ。

「でもお母さんとお父さんびっくりするだろうなあ……信じて送り出した息子が女の子になって帰ってきましたなんてシャレにならない……」
「卒倒すんじゃね」
「いやどうだろ……案外楽しむかも」
「てめえの家族メンタルどうなってんだ」

不慮の事故とも言えるけれど、卒倒するようなことはないと思う。出久のとこのおばさんだったらわからないな、不測の事態に弱そうだから、ふらっと倒れてしまいそうだ。勝己のとこは……たぶん勝己を見たら爆笑しそうだ。肝が据わってるからなあ、おばさん。

「それよりせっかく制服とローファー買ったのに!って怒られそう」
「……明日になりゃ戻ってんじゃねえの」
「さあ?どうだろ」
「てめェ明日、戻ってなかったらどうすんだ」
「んー……まあ、学校には行くよ。入学二日目で休むのもヤだし」
「制服……はまだしも、靴どうすんだ」
「お母さんの借りる」
「そうか」

……まあ。わかっては、いたんだけれど。
僕としても今の自分の心境を明確に表現することはできない。驚愕、困惑、諦観、期待、歓喜。その辺りがない交ぜになって、どうしたら良いのかわからないから。だけれど少なくとも、これは僕の責任だと思う。僕の判断が遅れて、そのせいでこうなっているのだと僕としては思っている。
だから。

「別に勝己のせいじゃないよ」
「………」
「だからあんまり、気にしないでよ。そのうち元に戻るだろうし、それに犯人もすぐ捕まるんじゃないかな。あそこ人多かったし、走ってた人なら目立つでしょ。僕が犯人の顔見てなかったのが痛かったかなー。明らかに変だったんだから見てれば良かった。将来的なこと考えるなら、やっぱり不審人物は観察する癖つけないとダメだね。ぼーっとしてたら見落としそうだし。勝己ってみみっちいからそういうのはしっかりしてそう」
「名前」
「なに?」
「……あんま喋んな」
「うん」

常ならぬ高い声は、姿を見ていなくたって僕が女の子になったことを勝己に知らせてしまう。勝己は割と複雑で繊細な内面をしているから、今回のことも自分のせいだと感じているのだと思う。それを自覚したくないのか、はたまたなにか別の感情があって、喋るなと言ったのか。いくら幼馴染で、多少感情の機微に敏感だからといって、全ての感情を推し量れるわけでもない。だから今、勝己が考えていることを完全に理解することは難しいけれど。でも確かに……いつも通りの勝己であれば、横から走ってくる誰かを避けることなんて簡単にできたのだと思うし。自分が避けた後、僕がその誰かとぶつからないようにさりげなく庇ってくれたりもするかもしれない。
だけれどあの時、勝己は出久のこともあって上の空だった。だから、普段なら気付けるはずのそれに気付けなくて、勝己視点から考えれば、結果僕に庇われる羽目になったわけだ。自分の不注意でこうなってしまったのだと思っているのかもしれない。
女の子になってしまったことをどうこう思っているわけではない。ただこれが突然だったこと、どうせいつかは……きっと近いうちに戻ってしまうのだという諦観が、僕の心境をここまで複雑にしているだけで。
……白状するなら喜んでいるのだ。二度とこのまま、戻りたくないと思っている。だって、……だって、僕はずっと、本当は。

「名前」
「! ……あ、降り、るのか。ごめん、ぼーっとしてた」

考え込んでいたせいで、駅に着いていたことに気付くのが遅れた。慌てて電車を降りて、そこからは家までの距離を無言で歩く。普段ならこういう時は他愛もない会話をするものだけれど、今日に限っては一言も交わさないまま。それどころか、視線さえ合わない。勝己が早足で歩くものだから、僕は若干小走りでその隣に並んでいる。歩幅が縮んだから仕方がない。

「……勝己、家過ぎたけど」
「先にてめェの家だ」
「え?いや良いよ、一人で」
「説明すんだろ。俺もいたほうがいい」
「ええ……?」

良いのに、と言ったそれに良くねえよと返答がある。しかしやはりそれきりだった。
勝己の家から歩いて数歩。僕が鍵を開けるのを待って、そして僕よりも先に家に入っていった。まあ幼馴染だからそのあたりの遠慮はないんだろうけれども、家人より先に家に入るのは如何なものかな。
おかえり、と顔を出したお母さんがぱちくりと目を瞬かせ、僕と勝己を交互に見て「どういうこと?」と呟くのはこの後すぐ。
……これから一体どうなるものかな。不透明な先行きに、僕は思わずため息を吐いた。

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