プロローグ 「なあシンジ、そーきゅーって、何?」 じいっと空から視線を外すことなく、サトシは自分の後ろに控えるシンジに訊いた。まるで空に触れようとするように手を伸ばすそのある種異様な光景にものともせず、シンジはサトシの言う“そーきゅー”が蒼穹であることを悟る。 「わかっててそうやってるんじゃないのか」 「そうやってるって?」 「手を、伸ばしてるだろう」 「なんとなくそうしたかっただけだぜ?」 そして漸くサトシはシンジの方に振り向き、へら、と笑ってみせる。今日は快晴。風も気持ち良く、ちょうどいい日差しだ。村の中の空気もよくなるだろうとサトシはご機嫌で、自然と足取りが軽くなる。 「で、そーきゅーって」 「お前の伸ばした手の先にあるもののことだ」 「……空のことか?」 「ただしくは、青空のことを言う。澄んだ深い青の空のことを蒼穹、と」 「そっかあ、そうきゅう……きれいな響きだなあ」 きれいな空によく似合う、と眩しそうに目を細め、サトシは空を仰ぐようにして両腕を広げていた。どこまでも自然を感じるように。今ここにあるすべての幸せを抱くようにしてサトシは笑う。すべてを喜び、すべてを憂い、すべてを愛す。そうすることを生まれながらに決められていた少年だった。 「ピカピ!」 「ああ、ごめんってばピカチュウ、シンジも。ちゃんと行くって」 サトシの少しかたい黒髪がさらさらと風に揺られる。その黒は蒼穹がよく似合う。その黒髪に飾られたのは古代から聖花と言い伝えられるグラシデアの花を中心とした、美しい髪飾り。いつもとは違う華やかな服装は只一人、彼だけに着ることを許された装束だ。 「祈祷だろ?随分長い雨だったからなあ。きっと美味いのが育つと思うぜ!」 そう笑いながらピカチュウとシンジに駆け寄る少年、サトシ――彼は村唯一の神のいとし子、ポケモンの声を聞くことができる唯一の人間。 ***** それは、まるで風の声のようだと村の老婆が涙をこぼした。普段の無邪気なサトシの声からは想像もできないような凛とした、それでいて柔らかなそれは歌声。村に豊穣を、と祈る声は彼が目を細めた蒼穹のかなたへとゆっくりと溶けるようにして消えていく。村の人々はじっと村の広場の真ん中に作られた舞台の上を食い入るように眺め、その歌声とともに更なる豊穣を願った。 ここは血族の村。古代、人間とポケモンが契りを結び、子をなした時代の名残の村。彼らの身体は成熟すると何処かしらにその証拠が現れる。たとえばそれは爪であったり、牙であったり、羽根であったり――すべて個人によって異なるが、その現れた特徴の持つポケモンが自分の由来する先祖にいたという。ただ、長い年月をかけてそのように変化していったが故であろうか、その変化はたいていの血族が自身で発現させることができるのだ。まるで支障のない生活を送るために血族が得た力のようだと言う血族すらいる。そして、成熟の時期もまた、人によって違い、サトシは未だその兆候を現してはいないものの、彼の付き人であり、代々巫女を守護する一族に生まれたシンジは薄く透明なスピアーの翅を持っていた。 彼らの村は森の奥深く、辺境の地に存在した。村と言うには大きな規模の、町否、街と言って過言ではないような広大な地で自然とともに彼らは生きていた。それは人間との歴史を如実にあらわしたもの。村の長寿の者たちは口を揃えて言うのだ。外界の人間には、関わるな、と。 「やっぱり天気がいいと歌うのも気持ちいし、みんな嬉しそうにしてくれるからいいよな!ホント、昨日までの大雨で村が少しでも潤えばいいんだけど」 「直に夏が来る。緑はさらに深くなるだろう――大丈夫だ」 「そうだなあ…もう、夏だもんな」 儀式を終えたサトシの装束につけられた細やかな装束を傷つけないようにひとつずつ外していきながら、シンジも自分の言葉を反芻し、もう夏が来るのだ、と改めて思い知る。 サトシが普段の住居として、祭事の控えとして使っている巫女の社の中にさあ、っと爽やかな風が入ってくる。壁に直接穴をあけることで窓となっているそこから入る風はいつも気持ちいいが、やはり外の空気には劣る。早く外に行きたくて思わずサトシはそわそわと身体をゆらした。 「動くな」 「う…、ごめん」 「まったく、宝珠に傷がついたらどうするつもりだお前は」 「だからごめんって言ってんじゃんか!ばかシンジ!!」 「……そんなに出掛けたくないか。それなら――」 「あーあーあー!!ごめん、ほんとごめんなさいっ!それだけは勘弁して!」 「…なら大人しくしているんだな」 むう、と頬を膨らませたサトシだったが、今回ばかりはシンジが正しい。あーあ、と息をついて切り取られた空をじっと眺めていた。 「あの、さ。シンジ。それで――」 「なんだ」 「…少し、だけだからさ」 「なんだと言っているだろう」 「……出かけても、いい?」 「だめだ」 「…っ!!」 考える間もなく即答するシンジにサトシは思わず声を荒げそうになったが、さっき言ったばかりだろ、こんな短い間ですらお前は大人しくできないのか、と言われることが容易に想像でき、サトシはぐっと拳を作るだけに抑えた。 「嘘だ」 へ、と情けない声が思わず口から漏れてしまった。だめだ、と言ったのと同じ声音、同じ調子でそれを嘘だと無表情で言い放ったシンジを驚いて振り返って見たが、どうやら装飾を外すのは終わったらしい、かちゃ、と最後の宝珠を祭壇へ納めただけで想像していたような厭味は一つも飛んではこなかった。 「止めてもどうせ行くんだろう。装飾は全部外し終わったから、さっさと着替えろ」 「いいのか!?」 「行きたいと言ったのはお前だろう」 「……シンジ」 「なんだ?」 「ほんっとうにありがとな!!」 花の咲くような笑顔だった。精一杯の感謝を伝えようと身振り手振り大きく動かしたかと思えば、大急ぎで横に置いてあった服に手をかける。祭事に着用する装束とは違い、こちらは随分と擦り切れたような印象を受けるサトシの普段着であった。 だめだ、と言ったその言葉は嘘ではなかった。本心を言うならば神子という立場上、危険にさらされるような行動は慎むべきであると主張したい気持ちがシンジの中にあったのは本当のことであり、当然のことであろう。だが、ここまで爽やかな快晴は数日振りであったし、サトシは祈祷という仕事もきっちとこなしたのだ。外を駆け回るのが好きなサトシにそれでもだめだと言い続けることは彼の為にならず、村の為にもならない。サトシは村の中を駆け回ることで村に平穏をもたらす象徴的な存在でもあったのだ。神に愛されし子どもは村を誰よりも愛し、ポケモンを、自然を誰よりも愛していた。 「じゃあオレ、行ってくる!ちゃんとピカチュウと一緒だから大丈夫だぜ!」 「日没までには戻れよ、いいな」 「わかってるって!腹減っちゃうもん、ちゃんと帰ってくる!!」 行ってきまーす、と大きく手を振り、サトシとピカチュウは嬉しそうに駆けていく。蒼穹と日差しに、風に樹木に水に、誰よりも愛されている。だからこそ彼は神のいとし子。 ――器となる、さだめの巫女。 (そして近づく出会いのとき) ----------------- 試し読みとしてブログにて公開させてもらったものでした。 2009.12.17 収納
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