1.

 海のにおいがする。
 思ったことが、口からそのまま零れ出てしまった。コップに水を注ぎ続ければ、何時かは溢れ、零れてしまう。その仕組と似ているようで、でも少し違った。例えるなら、自動販売機に百円玉を入れ、炭酸飲料のすぐ真下のボタンを押したと同時に落下してきた、派手なラベルの施されたアルミ缶。開封した途端、泡立った液体が噴出してしまった、あの苦々しい瞬間。あれと同じだった。水を注ぐようにゆっくりとなんて、待ってやくれなかった。気付いた時にはもう、手をべたべたに濡らしながら泡が引いていくのを見守ることしか出来ない。
 炭酸飲料の、やがては蟻が群がるような泡みたいに零れ出た声は、ラジオのボリュームが小さかったこともあって、三成の唇を割って出た瞬間にはもう、隣りの男の耳に入ってしまったようだった。
 借り物の車内だと言うにも関わらず、だらしなくハンドルに上体を預け、フロントガラスを睨むように煙草を吹かしていた男は、相変わらずそうしたまま、それでもやっぱりちゃんと聞いてしまったせいか、横目で三成をちらりと見た。蒸すような暑さに向られていた男の醸す疎ましさは、三成へと矛先が変わったようだ。掠れた低い声が、空気に限り無い近い音を出した。何言ってんだよ。
 渋滞に掴まってしまった車内、只でさえ暑い夏の午後だというのに安いレンタカーのクーラーはちっとも利きやしない。状況が悪すぎた。男の鬱陶しいと言わんばかりの視線に、三成もさっきのあれは気のせいだったのだろうかと怯んでしまう。
 しかし、さっきのあれは確かに海のそれだった。朝一で家を出た三成の瞼はずっと重たく、追い討ちをかけるようにスピーカーから流れたのは趣味が良いのか悪いのか、ゆったりとした異国のバラードだった。覆い被さるようにして睡魔が三成の瞼を閉じる。その時だった。男の声がして、俺も寝てえよと不満を言っている。知るか、と三成が寝ようと決め込んだその時。鼻を掠めたのは懐しいような、泣きたくなるような海のにおいだった。ハッと目を開けて、思わず唇から言葉が零れた。
 プルタブを引き、溢れ出した泡は中々止まらない。次から次へと零れ出し、腕を伝って肘まで流れ行く。三成は不意に確信を持った。鼻を掠めたそれは気のせいでも、暑さで頭がおかしくなったのでもない。三成は海のにおいを吸い込んだ。
 長曽我部。やっぱりお前からだ、海のにおいがする。
 そう、言うために。


2.

 波の音もしないと言うのに、海のにおいがするというのも変な感覚だった。冷たい空気が静かに流れ込み、三成の屋敷には冬が訪れていた。通した男は腰を落とすやいなや、厚手の羽織を抱き込むようにしてはにかむように笑った。寒いってのはどうも苦手でねえ。
 擦れた衣からまた海のにおいがした。書状一つ寄越すこともなく、突然ふらりと現われた男は、どうやら船旅の途中だったらしい。日も既に落ちたというのに、こうして屋敷の奥へあげたのは顔に滲んでいた疲労のせいだ。船の上では、流石の男も深い眠りにはつけないようだった。急に悪いねえ、と男が笑う。
 こんなことは一時の気紛れだ。男はまた、今度は帰路へつくため明日には船を出すのだろう。欠伸を噛み殺したのか、男の目尻には涙が浮かんでいる。宿屋になった覚えは無いが、二度はないぞ、と言おうとして開けた唇は、三成の意思とは全く別の言葉を告げた。
 海のにおいがするな。久し振りだが――


3.

「悪くはないだろう?」

 海のにおいがする。三成が発した二度目のそれに、突然、男が口の端を持ち上げた。ふう、と何かを決めたように息を吐くと、指に挟んでいた煙草を灰皿に押し付け、三成の方を向いた。視線がかちりとぶつかって、三成は一層においが濃くなったと思う。
 海に行こうか。
 男が言う。三成は戸惑った。この渋滞の先にあるのは、互いの実家のはずだった。帰省シーズンを迎えたこの国では、二人も例に漏れずそうせざることを得ない。金がない、二人でレンタカーでも借りて折半すりゃあ安いもんだろうと提案したのは男の方だった。寄り道は苦手だ、と生真面目に三成は返すも、先に戯言を行ったのはお前だろう?と男はハンドルをきってしまう。
 来た道を戻るように車は走る。三成も始めは反論したものの、男がとうとう上機嫌にMDを流し始めた頃にはその口を閉じた。溢れ出てしまった泡を、今更誰が止められると言うのだろう。
 先程から続く男の鼻歌に、三成は問う。海のにおいがするなんて戯言、笑うには足りないにも程がある。馬鹿にしているようにも見えない。三成の問い掛けに、男ははにかむように笑って答えた。お前と話したいことが沢山あるからな。楽しみなんだ。
 なら今、と三成が言おうとして、しかしそれは再び襲ってきた睡魔に阻まれる。着いたら起こせ、と三成は言葉の通りに目を閉じた。もう男も止めたりしない。起きたら、今年は帰れなくなったと母親に電話しようと決めて三成は海の夢へと落ちて行く。季節外れなぐらい寒かったけれど、海水は炭酸の抜けた後のコーラのように甘かった。

「お前が全部、思い出したらな」

 舟を漕ぐように揺れる三成の頭を、男はそっと撫でた。


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