生まれない卵


「やあ」
 急な呼びかけと思わぬ人物の姿にアルマロスは少し目を見開き、今しがた呼吸するように口から零れていた名も知らぬ唄は止められた。
「どうしたの?」
 目の前にいるのは天界でも名高い赤い目の大天使。そんな彼と知り合い、ましてや言葉を交わすなんてことはアルマロスにはなかった。
 しかし驚きはすぐに親しみの込められた表情となり、アルマロスは彼を見つめる。
「いや、地上で面白いものを見つけてね。お前にやろう」
 目を細め、緩やかに口角の上がった表情の彼の手には楕円型の白い球が乗せられていた。
「これは?」
 アルマロスは顔を近付け、しげしげと彼の手の平に乗せられた球を見つめた。
「これは鶏卵と言ってね。鶏という動物の卵だ」
「地上の動物の…卵」
 アルマロスにとって初めて見る地上の物だった。滑らかな表面とその白さに惹かれ、そっと手にとり自らの掌にのせた。
 不思議そうに、興味深そうにそれを見つめるアルマロスに彼はにこりと微笑み、そのまま立ち去っていった。
 アルマロスは彼が立ち去った事に気付かず、ただその掌にある物をじっと見つめていた。



 部屋に帰るとアルマロスは彼から貰った卵を何十にも折り畳まれた布の上にそっと置いた。
 卵と言うからには、きっと鶏という生き物が生まれて来るのだろう。一体鶏とはどのような生き物だろう。あの彼が持って帰って来るほどならば、きっと美しい生き物に違いない。
 アルマロスはそう考えながら、卵を見つめ微笑みながら、そっと手で包み暖めた。



 時が経つ。
正確に言えば天界に時が経つという概念はない。アルマロスは嫌でもそれを自覚しなければならなかった。
 彼から貰った卵は、孵化するどころか、いつまで経ってもあの時のままであった。
 きっと天界にいるかぎり鶏という生き物も、孵化という瞬間も見ることが出来ない。
 卵はアルマロスの心の中で眠りつづけた。



「お前だって、無いものが欲しいだろう」
 伸ばされた手と6対の瞳が、ベールで隠した瞳を射抜く。
 白い卵と、褐色の肌の彼の姿がちらつく。
 それは小さな小さなしこりだった。しかし、気付いてしまえば気付かなかった頃には戻れない。
 アルマロスは手を伸ばす。まだ見ぬ鶏に憧れて。


*****
「昔天界で天使に時間旅行の土産物を渡したことがあってね」
 誰だったか忘れてしまったがね、とルシフェルは笑った。
 イーノックは近くの岩に腰を下ろし、静かに聞いていた。
「その時代では鶏卵というものが食用として売られていてね、ああ、鶏という家畜の卵だ」
 これくらいの大きさで、掌に包み込めるんだ、と、ルシフェルは手を動かしながら話しつづける。
「それがパックという透明の入れ物に入れられ、店に並んでいるんだ。」
 イーノックは少し眉をひそめた。
「ん?ああそうか、お前は生き物を屠って食することを嫌っていたね」
 目を細め、優しげに微笑んだ。
「気にしなくていい、その卵はとても面白いものでね。なんと何も生まれないんだ。人類は生まれない卵、そこでは無精卵と言っていたか、それを機械的に作り出す方法を開発し、それを食しているんだ」
 面白いだろう、とルシフェルはさらに笑う。
「それは…」
 イーノックは悲しげな表情で呟く。
「それは、冒涜にはならないのだろうか」
 ルシフェルはいかにも当たり前と言うように言葉を紡ぐ。
「さあ?私は干渉しないのでね。いつでも行動した者が結果を背負い込むものだ」
 お前は、神の意志により正義を下し、最善の未来を選ぶ。それが結果なのだろう?
 ルシフェルは笑みをたたえて、イーノックを見つめる。
 イーノックの瞳はそれに答えるように、いつもの強い意志を宿した。
 旅は続く。




――――――
私が書いた中で1番ルシフェルが大天使らしいと思う

タイトルはまんま無精卵の意味です

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