手紙
芥川の元にその手紙が届くようになったのは、三日前からのことだ。
友人達の名前が書かれた手紙の中に、毎回匿名の手紙が混ざっていた。封筒も便箋も、この図書館で支給されているものなので、文豪の誰かから届いたものであることは、ほぼ間違いない。しかし、封筒には「芥川龍之介様」と書かれているだけで、送り主の名前は一切なかった。筆跡で誰か特定できないかと試みたが、その文字は今まで芥川が見てきた誰のものとも違った。ということは、前世で自分が関わることのなかった相手からなのかもしれない。
手紙には、まるで恋文かと思うほど、熱烈な思いが綴られていた。
「貴方のことを、誰より尊敬しています」
「好きです」
「貴方の作品は自分にとってかけがえのないものです」
単純に思いを語る手紙もあれば、芥川の著書について事細かに論評を記したものもある。手紙の長さも、日によってバラバラだった。
手紙は毎日届いた。文豪の中には、志賀をはじめ、筆まめな者も多い。芥川もまた、人に宛てて手紙をよく書いていた部類だ。だが、こう毎日毎日、同じ相手から手紙がくると、さすがに最初は驚いた。しかし次第に、芥川はその手紙を読むことを心待ちにするようになった。
戸惑ってしまうほど、赤裸々で真っ直ぐな好意。気恥ずかしくて擽ったくなるような、賛辞の数々。紙面を踊る文字は、一つ一つの線が丁寧に引かれていたり、逆に荒ぶったように乱雑だったりと、これを書いた時の送り主の感情が手に取るようにわかった。その全てから、芥川は自分への深い情を感じ取っていた。
「貴方のことを尊敬しています。貴方に師事することは叶わなかったけど、それでも貴方は、自分にとって師に等しい存在でした」
「貴方は知らないでしょうが、自分は前世、貴方の姿を一度だけこの目にしました。青森市で、急遽講演をされることになった日を、覚えておいででしょうか?あの時会場にいた自分は、まさか焦がれていた貴方を直接、この目に映すことができるなんて夢にも思いませんでした。貴方の姿、言葉、声を、今でも自分ははっきり覚えています」
「小説家でありながら、自分の中にある貴方への思いを、全て言葉に表せないことがひどく歯痒いです。貴方を思う気持ちも、尊敬する気持ちも、誰にも劣るとは思っていません」
「貴方と言葉を交わしたい。そう思うのに、臆病な自分はいつも逃げてばかり。許してください」
「少年だった時分から、間違いなく貴方に恋い焦がれてきました。貴方を思わなかった日は、一日もありません」
「貴方に触れたい」
「好きです。大好きです」
重たいほどの愛だ。人によっては、その好意に歓喜するより恐怖したかもしれない。しかし、芥川はそれを正面から受け止め、そして受け入れた。
誰かが、自分をこんなにも愛してくれている。その事実が、芥川の心に深く染み入り、束の間の心地良さを味わわせてくれた。
「ねぇ、君は誰?」
今日送られてきた手紙の表面を、そっと撫でる。問い掛けても、答えはなかった。
「それ、ちょっと愛が重くないか」
食堂。食事時以外にも人が絶えず、ある種憩いの場となっている場所で、芥川は旧知の中である二人と顔を合わせていた。
そこで、芥川は二週間前から届きだした、件の手紙を話をした。すると、そう苦い顔で返してきたのは、犀星だった。
「あ、やっぱり?」
「君の手紙も、たいがい愛が重いけどね」
横から、朔太郎がそんなことを付け加えてくる。自覚があった芥川は、苦笑した。
「芥川自身が嬉しく思ってるなら、まぁいいけどよ」
「うん。でも、やっぱり送り主が知りたくてね」
「え、あーそうだな」
犀星の目線が、不自然に宙を彷徨う。気まずそうな様子に、芥川は首を傾げた。
「もしかして、何か思い当たる節でもあるのかい?」
「え?いや……」
思わず尋ねると、犀星は朔太郎と顔を見合わせた。二人とも神妙な顔つきで、口を噤んでいる。云おうか云うまいか、悩んでいるようだった。
「……そんな手紙を君相手に送るのは、一人しかいないと思ってね」
「心当たりがあるの?」
朔太郎の言葉に、身を乗り出す。二人が手紙の主を知っているかも知れないとは、意外だった。
「あるっちゃあるが、あまり俺らの口から云うのもな……」
悪いと、犀星は頭を掻きながら謝った。匿名の手紙の送り主を、本人の知らないところで教えてしまうことに、抵抗を感じたのだろう。仕方ないと、芥川は諦めた。
「いいよ、気にしなくて。ただ、一つお願いしてもいいかな?」
「ん?何だ?」
「手紙をくれる相手に、僕も手紙を出したいんだ。君たちに心当たりがあるなら、渡しておいてくれないかな」
それは、芥川が昨日、不意に思い立ったことだ。この手紙をくれる人に、自分からも言葉を送りたいと。だから、犀星達が送り主を知っているというのなら、それは好都合だった。
芥川の依頼に、二人は驚いたようだ。暫し目を丸くしたまま固まっていた。
「いいよ」
先に口を開いたのは、朔太郎だった。
「ありがとう、朔」
「部屋に突っ込んでおけばいいよね?」
直接渡すのは憚られるのか、朔太郎はそう訊いてきた。
「うん、構わないよ。届きさえすれば、僕はいいんだ」
「わかった」
それから二人と別れ、芥川は自室へと戻った。今日は仕事の予定はないので、この後の時間を使って手紙を書くことができる。夜には書き上げて、朔太郎に託してしまいたかった。
■
太宰治は混乱していた。部屋の扉の前に立ち尽くし、脳みそをフル回転させ、その上で混乱していた。
その日、太宰は潜書を命じられ、穢れた文学書の浄化のために本の中で奔走していた。仕事を無事終え、少し遅い夕食を済ませた太宰が自室に戻ると、扉には一通の手紙がテープで貼り付けられていた。
「何だ?悪戯か?」
封筒の表面には、何も書かれていない。警戒しつつ手に取って、太宰は封筒をくるりと裏返した。
その右隅に書かれていた名前は、“芥川龍之介”
「…………」
心臓が口から飛び出しそうなほど、驚いた。そして、状況を理解できず、ひどく困惑した。
「な、何で」
それは間違いなく、芥川からの手紙だった。誰かが芥川の名を騙って手紙を送りつけてきた、という可能性はない。なぜならこの字は、間違いなく芥川本人のものだったから。太宰が、飽きることなく何度も見詰めてきた彼の文字を見間違えるはずがなかった。
なら、なぜ芥川は太宰に手紙を送ってきたのか。考えても検討がつかない。
不意に、これは自分宛てではないのではないかと思った。太宰に宛てられた手紙なら、太宰の名前がどこかに記されているはずだったが、それがない。 芥川が何を考えて手紙をここに置いたのかはわからないが、とにかく中を読んでみることにした。
太宰は部屋に入り、灯りをつけると、机の椅子に腰掛けた。そして、恭しい手付きで封筒を開け、中から三つ折りになった便箋を取り出す。
この紙を開くと、芥川からの文が目に飛び込んでくる。想像するだけで、緊張のあまり胸が苦しくなった。
「…………」
深呼吸を繰り返し、そしてゆっくりと、便箋を開いた。
『拝啓。貴方からの手紙が僕の元へ届くようになり、すでに十四日が経ちました。毎日届く貴方からの手紙は、僕の生活の中にすっかり溶け込み、いつしか手紙を読むことが待ち遠しくなりました。貴方が僕に向けてくる言葉の数々を、僕は擽ったくも嬉しく思います。最初は、貴方が僕の作品を褒める度に、居たたまれなさを覚えました。その裏に、何か仄暗いものがあるのではないかと、勘繰ってしまったからです。でも、貴方の言葉には嘘がないのだと、すぐにわかりました。純粋な思いに、僕は確かに好感を持ちました。好きだと云われた時、僕は無性に貴方に会いたくなりました。それは少なからず、貴方のことを好きになってしまったからです。僕を好きでいてくれるなら、どうか今夜、僕に逢いに来て下さい』
手紙は、そこで終わっていた。
「…………」
呼吸の仕方を、少しの間忘れた。魂が抜け落ちて行くような脱力を覚え、太宰は椅子に沈みこむように座ったまま、空を見つめていた。
そして我を取り戻した時、太宰は手紙を手にしたまま、部屋を飛び出した。
向かったのは、芥川の部屋ではない。この図書館で唯一、友人と呼べる相手のもとだった。
「あれ?太宰君?どないしたん?」
ドアをノックすることなく開けると、部屋の主である織田作之助は、ベッドの上に仰向けに横になっていた。突然の太宰の来訪に、驚いたものの怒る様子はなく、織田は立ち上がった。
「オダサク、確認したいことがある」
「な、なんや、怖い顔して」
「俺がお前に預けた手紙、あれどうした?」
ぴたりと、歩み寄ってきていた織田の足が止まった。
「手紙?」
「手紙だよ。俺が、お前に捨ててくれって頼んだ、芥川先生への手紙!」
この図書館に転生し、そして芥川に出逢ってから。太宰はずっと手紙を書き続けていた。緊張と憧れのあまり、直接本人に伝えることのできずにいた思いを、全て紙にぶつけていた。手紙といいつつ、芥川に届けるつもりはなかった。それでも、手元に置いておくのは妙に虚しくて、太宰はそれを織田に処分してほしいと頼んだ。自分ではとても、捨てることはできなかったから。
だが、今日、芥川から手紙が届いたことで、太宰は一つの確信に至った。織田は、太宰の手紙を望んだ通りに捨ててはくれなかったのだ。
「ああ、あれか!ちゃんと捨てといたで!」
「嘘つけ!捨ててねぇだろ!」
「捨てましたー。ちゃんと。芥川せんせー宛の手紙の中に!」
悪びれることなく、それどころか、ウインクつきで織田はそう云い放った。それはつまり、織田が太宰の手紙を芥川に届けていたということだ。
「お前なっ!」
「君から手紙渡される度、一通ずつ、毎日、健気に忍ばせたんやで?褒めてや?」
「褒めるかっ!」
「で、なんや?手紙のこと、バレたんか?」
「……わからねぇよ」
「え?わからんて」
「とにかく!もう勝手なことすんなよ!!」
最後に吐き捨てて、太宰は織田の部屋を立ち去った。
肩で空気を裂きながら、廊下を進んでいく。その足取りに、迷いはなかった。心臓は進むほどに、痛いくらい脈打っているが、それでも太宰は立ち止まろうとしなかった。
その足が止まったのは、目的の部屋についた時だ。今まで、この部屋に来たことは一度もなかった。ただ、場所だけは把握していた。
ここは、芥川の部屋だ。
扉の前で立ったまま、太宰は手にしたままの手紙を見下ろした。
“どうか今夜、僕に逢いに来て下さい”
手紙には、そう記されていた。その言葉を、太宰は無視することができなかった。
芥川のことが好きだ。誰よりも思っている。
そんな自分の気持ちを、少しでも彼が受け入れてくれるなら、太宰はもう迷っているわけにはいかなかった。
微かに震える手で、ドアを二回、叩く。中から芥川の声がし、心臓が跳ね上がった。
そして、扉が静かに開く。
「太宰君?」
太宰の姿を見た芥川は、面食らったようだった。その顔を目にした瞬間、太宰の口からするりと、言葉が零れ落ちていた。
「好きです」
芥川の双眸が、これでもかと見開かれる。美しい、どこまでも透明な瞳に、自分の姿が映っていた。
「貴方のことが、誰より、好きです」
噛み締めるように、告白する。芥川は太宰を見据えたまま、何も云わなかった。見定めるように、確かめるように、ぶれることなく視線が太宰を射抜く。
「そっか、君だったんだね」
そして、優しく、芥川は微笑んだ。
その細い指が太宰の頬を滑り、首筋に落ち、そして後ろへと回った。抱きついてきた体を、躊躇いがちに抱き返す。
「芥川、先生」
名前を呼ぶと、芥川はふふっと喉を震わせて笑った。
「先生、なんて呼ばれるの好きじゃないんだけど……君相手ならいいかな」
「え?」
「おいで。今夜は、ここにいて」
体が離れると、芥川は太宰の手を引いた。決して強い力ではないのに、抗うことができない。
誘われるままに、部屋の中へと踏み込む。
背後で扉が、音もなく閉ざされた。
終
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