太宰×芥川 | ナノ

貴方を愛すること


「初めまして。芥川龍之介です」

 目の前で微笑む美貌から、太宰は視線を外すことができなかった。
 新雪のような白い肌と、紅をひいたように際立つ赤い唇。彫りが深い顔立ちはどこか浮世離れしていて、その涼しげな眼差しは神秘性さえ感じさせるほどに澄んでいた。
 彼が動くたびに揺れる藍色の髪の一本一本さえ、計算され尽くした彫刻のように美しかった。
「……どうかしたのかい?」
 呆然と立ち尽くす太宰に、彼・芥川は不思議そうに首を傾げた。落ち着いた、しかしどこか艶めいた声音が耳に届き、太宰は我に返った。
「す、すみませんっ。は、は初めまして。太宰……治といいますっ」
 口の中がやけに乾く。何度も噛みそうになりながら名乗り終えると、太宰は勢いよく頭を下げた。心臓の音が頭蓋に響いてうるさい。
「ああ、君が太宰君か」
 芥川の口から出た己の名前に、息を呑む。そして、彼が前から自分のことを知っているように云うものだから、太宰は慌てて顔を上げた。
「お、俺のこと……ご存知、なんですか?」
「うん。ちょっとだけだけどね。“本の中”にいる間、何度か君の名前を聞いたよ」
 ちょっとだけ、それがどの程度のことなのか気になったが、胸中を占める気恥ずかしさのせいで尋ねることはできなかった。そうしている間に、逆に芥川が訊いてきた。
「君は、僕のこと知ってるの?」
「え?!あ、は、はい!勿論!」
 知っている、なんてものではない。上擦った声で答えながら、太宰は何度も心の中で頷いた。
 前世において、太宰は心から芥川を尊敬していた。敬愛、私淑、傾倒、心酔。どの言葉を重ねても足りないほど、作家としての芥川に焦がれ、その魂にすら惚れ込んだ。
 芥川は、太宰にとって魂の共感者だった。孤独も痛みも弱さも、彼となら分かち合える気がした。自分なら、芥川の全てを受け止めて、理解してやれる。そんな確信すら、太宰の中にはあった。
 だが芥川は、太宰が自分にそこまで深く踏み込んでいるとは、想像すらしていないようだった。
 うっすらと笑うと、芥川は云った。
「そっか。これから、よろしくね」

 
 芥川龍之介が転生した。
 そのことを知らせると、司書は息を切らしながら潜書室へと駆け込んできた。その日助手を務めていた夏目漱石も共に。
「龍之介君!!」
 自身最後の愛弟子だった男の姿を見、夏目はいつになく高揚した声を上げた。
「せん、せ……」
 そんな師に対し、芥川は暫し目を見開き固まっていた。唇が、長い睫毛が震え、次第にその瞳が潤むのが太宰にはわかった。
 夏目の手が芥川の頭をそっと撫でた時、芥川の顔がくしゃりと歪んだ。
 ここにいたらいけない。咄嗟にそう理解して、太宰は芥川に背を向けた。司書から労いの言葉をかけられ、そして一人先に部屋を出た。
「太宰君」
 潜書室を出ると、廊下では織田作之助が太宰を待っていた。
「潜書、お疲れ様〜。な、腹減らへん?カレー食わへん?」
 人好きのする陽気な笑顔に釣られ、太宰も顔を緩めた。
「ああ。食う」
「よっしゃ決まり!」
 織田と並んで歩きながら、食堂へ向かう。
 ちらりと背後を振り返り、潜書室を伺う。織田が顔を覗き込んできた。
「何かあったんか?」
「へ?」
 突然の問い掛けに、足を止めていた。
「部屋出てきた時、変な顔しとったで、自分。今も潜書室気になっとるみたいやし」
「……あー」
 どうやら、織田はまだ潜書によって誰が転生したか、知らないらしい。太宰は頬を手で数回押して、それから織田に答えた。
「……来たんだ」
「来た?誰が?」
「芥川先生……」
 ぽつりと零した名前に、織田は目を丸くした。
「ほんまに?」
「ああ」
「そりゃ、良かったやんけ。話せたんか?」
「ちょっとだけ……」
「きしし。山岸君や安吾君が聞いたら、羨ましがりそうやな」
 同じ無頼派として親交のあった懐かしい名前に、太宰は苦笑した。彼等もまた、太宰同様、芥川を心から尊敬していた。それでも、前世では誰も芥川に会うことはできなかった。
「これから、ようさん話せるとええな」
 織田のその一言に、太宰は頷いた。
 
 しかし、芥川がこの図書館に訪れて、一週間。その間、太宰はまともに彼と言葉を交わすことはできなかった。
 理由は大きく二つある。
 一つは、芥川の周りには常に人がいること。師である夏目漱石。彼の親友である菊池寛。弟子だった堀辰雄。共に田端に住んでいた萩原朔太郎と室生犀星。先輩である谷崎潤一郎、泉鏡花。友人の佐藤春夫や、北原白秋。芥川が尊敬して止まない志賀直哉。交友関係の広かった芥川の傍には誰かが必ずいて、とても太宰が割って入ることはできなかった。
 そして二つ目の理由は、太宰が極度に緊張してしまうことだった。
 時々、芥川は自ら太宰に声をかけてくれた。自分を呼び出したのが太宰だったからか、積極的に親しくしようとしてくれている気がした。しかし、それを嬉しく思いながら、芥川を前にすると、全身が固まって上手く言葉が出なかった。好意が過ぎるあまり、何を云っていいのかわからなくなるのだ。そのせいで、どうしてもガチガチの敬語で、当たり障りのないことしか口にできない。そして、その緊張に耐え切れなくなり、太宰は毎回芥川の前から逃げ出していた。

 そんな太宰でも、唯一逃げようのない場面があった。それが、潜書である。
 穢れた文学書の浄化のため、その日、太宰は芥川を含む四人で潜書にあたることになった。
「久々に、三人揃ったな!」
 そう、嬉しそうな声で云ったのは、室生犀星だ。その隣に立つ萩原朔太郎も、いつもの無表情の中に、ほんのりと暖かな色を浮かべて頷いていた。
「僕も嬉しいよ。二人にまた会えて」
 友人二人と向かい合いながら、芥川は微笑んだ。
 そんな三人を少し離れた場所で見ながら、太宰はなぜ自分がこの会派に入れられたのか、不満と共に溜め息をついた。
 なぜ、と思いつつ、理由は事前に司書から聞かされていた。まだ戦闘に慣れない芥川をサポートするため、経験値、並びに開花の進行度がずば抜けている太宰を抜擢したのだ。加えて、「君も彼と一緒にいたいだろ?」と親切心からの指示でもあった。
 確かに芥川の支えになることも、傍にいられることも嬉しい。しかし、こうして目の前で自分以外の誰かと仲良くしている様を見せつけられるのは、少々辛かった。
 とは云え、いざ自分に話しかけられても相変わらずろくな返事ができないので、どっちにしろ居心地は悪い。
 潜書という重要な仕事ゆえ、芥川から逃げ出すわけにもいかず、太宰は感情の板挟みにあいながら、再び溜め息をこぼした。

 まだ未熟な芥川のことを考え、その日潜書の対称となった文学書は、比較的侵蝕が軽い物だった。
「異世界への旅か……良い題材になりそうだね」
 本の中に入り込むと、芥川は辺りを見回しながら、そう感想を述べた。霧深い森林、その上空に飛び交う言の葉。漂う空気はどんよりと重く、呼吸の度に肺が締め付けられるような心地になる。確かにこの空間は、異世界と呼ぶに相応しい。だが、芥川の声音は、彼の元来の性格ゆえか、どこか暢気だった。
「芥川、気を抜くなよ」
「うん。わかってるよ」
 心配そうに云う犀星に、芥川は笑って返事をする。その秀麗な顔には、強張った様子はない。初の潜書であるにも関わらず、芥川はゆったりと構えていた。意気込みも、敵意も、恐れも感じられない。ただ淡々と、仕事に臨もうとしているように見受けられる。
 文豪によっては、自分たちの築き上げた世界を穢されることに怒る者もいれば、嘆く者もいる。そして、現在図書館に転生した者達はだいたい、そのどちらかに当て嵌まった。しかし、芥川はそのどちらでもないと、太宰には感じられた。
「太宰君、よろしくね」
「え、あ、はい」
 目が合って、芥川は太宰の隣まで来た。ほぼ同じ位置にある彼の瞳をずっと見ていられず、思わず目をそらしていた。
「何があれば、サポートします……」
「うん。ありがとう」
 辛うじてそれだけを告げれば、芥川は柔らかく微笑んだ。
「……そろそろ、来るよ」
 幾重にも連なる木々の影。その奥を見つめながら、朔太郎は小さく呟いた。彼の言葉通り、歪んだ景色の向こうから、敵会派が現れた。まるで羊のような獣の姿をした物、人型の物、墨汁の器を模した物。太宰達にはすっかり見慣れたものだが、初めて目にする芥川は少し驚いたらしい。息を呑む音がし、続いて「あれが……」と漏らす声がした。
「下がってろ!」
 犀星と朔太郎が前へと踊り出す。彼らは銃を構え、それを敵へ向けて放った。と、同時にあちら側からも矢が飛んでくる。
「いたっ」
「先生!」
「大丈夫だよっ」
 敵の矢を受けた芥川へと駆け寄る。芥川は大したことないと、右腕を庇いながら云った。
「てめぇらっ!」
 芥川を傷付けられた。そのことに憤怒し、太宰はすぐさま敵へと斬りかかった。
「頼んだぞ」
 太宰と入れ変わる形で、前線にいた二人が後退する。銃は破壊力が高い分、その弾を装填するのに時間がかかる。その間に、最初の撃ち合いで漏れた敵に対処するのが太宰達、刃を持つ者の役割だった。
「弱っちいくせに、誰に手ぇ上げてんだ!」
 手にした大鎌で、敵を薙ぎ払う。一撃で、相手は霧の中へと溶けるように消えていった。
「マジで弱い……」
「太宰君、すごいね」
「え!?」
 不意に背後から聞こえてきた感嘆の台詞に、太宰は素っ頓狂な声を上げてしまった。振り返ると、そこには芥川がいた。
「僕も負けてられないな」
 まるで子供のようにやる気を出す芥川に、太宰は心臓が高鳴るのを禁じえなかった。

 最深部の親玉の元へは、存外早く辿り着くことができた。
 景色がじわじわと滲むように変色する。目を凝らしていると、青白く光る獣が三頭、飛び出してきた。今までよりも澱んだ空気が、辺り一帯を支配した。
「気、抜くなよ!」
 犀星の激が飛び、そして銃声が続いた。
「ちっ!外した!」
 犀星の弾が外れ、朔太郎が一匹に深手を負わせる。ここから先、奴等とまともに交戦できるのは、太宰と芥川だけだ。
 芥川に余計な負担はかけまいと、太宰は真っ先に敵へと向かって走り出した。後ろから、芥川がついてくる気配がする。
 自分が確実に仕留める。周囲の木が邪魔にならない位置で立ち止まり、振り下ろされた刃を受け止め、反撃へと出る。一匹目は、弱っていたこともあり、一撃で片がついた。しかし、二匹目で手こずった。その間、残りの一匹が芥川へと襲いかかるのが視界の端に映り、太宰は舌打ちした。
 ここに至るまで、芥川はほとんど無傷に近い状態だった。しかし、その動きがひどくぎこちなかったことが、太宰を不安にさせた。彼はまだ、武器の扱いに戸惑っているのだ。
 すぐさま侵蝕が深刻なものになるとは思えないが、ただの一度でも、芥川が攻撃を受けることが、太宰は許せなかった。
 早く、目の前の敵を倒して、芥川の元に駆け付ける。それだけが太宰を突き動かし、いつにない荒々しさで、鎌を振るった。
「芥川!!!」
 突然のことだった。犀星の叫びが、敵を倒した直後の太宰の意識を切り裂いた。咄嗟に振り返ると、芥川は膝をついて自身の右腕を抱えていた。その手からは、彼の武器である刃が地面に零れ落ちていた。
「…………!!!」
 芥川と刃を交えていた敵が、彼めがけて飛び掛かった。考えるより早く、体が動く。芥川の前に飛び出し、振り返りざまに敵に攻撃を仕掛けようとした。しかし、想像よりも素早く、敵は太宰の懐に飛び込んでいた。リーチの長い鎌では、到底対応できない距離。太宰の体は、敵の刃に貫かれた。
「太宰君!!!」
 遠くから、芥川の声がする。だが、それをかき消すように、違う声が代わる代わるに自分を呼んだ。
“修治”
“修治様……”
“津島……”
「やめろ……呼ぶな……呼ぶな」
 目の前が、ぼんやりと墨に覆われたように黒くなっていく。その黒は、徐々に太宰の精神を蝕み、意識を食い尽くしていった。
「ダメだ……もう、俺は……俺は……」
 頭の中に、カチカチと何かが回る音が響いている。それは歯車のようであり、映写機のようでもあった。
 生家で強いられた、過酷な家族内での競争。将来を約束された優秀な兄達。期待されなかった弟の自分。就職の失敗。左翼運動。自殺未遂。
 走馬灯のように、思い出したくない過去が次々と目の前を流れていく。
 場面が切り替わる。それは、左翼運動に巻き込まれ、家を捨てて逃げ出そうとしているシーンだった。家財も何もかもを売り払い、畳と数冊の本だけがある部屋の真ん中で、己がうずくまっていた。その腕に、一冊の本を抱きながら。
 ああ、そうだ。自分はずっと、“彼”を求めて、彼を心に抱いていた。どんな時でも離すまいと、強く強く握り締めていた。
「芥川先生……」
 太宰の意識は、暗い闇に呑み込まれた。



 目覚めた時、太宰は見慣れた寝台の上にいた。
 視界も、意識もクリアになっている。浄化が施されたのだと、すぐに理解した。
「目、覚めたか」
 傍らから声がして、太宰は息を呑んだ。そこにいたのは、菊池寛だった。
「何で、あんたが」
「……そいつが、どうしてもお前の傍を離れようとしなくてな」
 苦笑しながら、寛は指である方向を指した。そちらへと顔を向ける。驚愕で、言葉をなくした。
「芥川先生……」
 椅子に座り、太宰の横たわる寝台に上半身を預けて眠っていたのは、芥川だった。その肌も服も、汚れや傷がなく綺麗なものだった。無事だったのだと、安堵した。
「聞いたぜ。龍を庇ってくれたんだろ。悪かったな。感謝してる」
「……あんたに、そんなこと云われたくない」
「相変わらずだな、お前」
 まるで本当の兄弟のように芥川を語る寛に、太宰は反射的に反感を覚えた。芥川の親友で、兄のように慕われているこの男が、太宰はずっと妬ましくて羨ましくて堪らなかった。
「少ししたら、龍も起こして食堂来い。腹減ってるだろ」
「…………」
 太宰は答えなかった。じっと芥川を見たまま、静止している。寛が肩を竦める気配がしたが、彼はそれ以上何も云ってこなかった。そして、立ち去る足音がした。
「すみません、先生……俺」
 守り切ることができなかった。支えますと宣言しておきながら、それも果たせなかった。
 眠り続ける芥川を起こすことができず、太宰は結局、織田が迎えに来るまで寝台から起き上がることはなかった。

 それから、一週間が経った。
「何してんだ、俺」
 静かな図書館の一角。周囲を本棚に囲まれた書庫の片隅で、太宰はうずくまって頭を抱えていた。
 あの日の潜書を経て、以前にも増して芥川は太宰に接するようになった。罪悪感からか、感謝の気持ちからか。どちらにしろ、太宰にはたまったものではなかった。
 芥川に、情けない姿を見せた。
 その後悔と自己嫌悪で、太宰はまともに芥川の顔を見ることすらできなくなっていた。今も、偶然擦れ違った芥川に話しかけられ、逃走してきたところだった。嘘の用事があるとまで云って、誰もいない場所に駆け込んだ。
「芥川先生……」
 去り際に見た、芥川の残念そうな顔を思い起こす。大好きで堪らない人にそんな顔をさせるなんて、自分はどれだけダメな奴なんだと罵りたくなる。
 本当は、話したいことが沢山ある。心のままに想いを伝えてしまいたかった。ずっと伝えたくても伝えられなかった言葉を、そのまま彼に届けたかった。
 尊敬していること、憧れていること。それだけではなく、人として彼を愛していること。
 それなのに、臆病な自分が邪魔をする。
「はぁ……」
 盛大な溜め息がこぼれる。その時、呆れた声が頭上から降ってきた。
「何してんだ、お前」
 太宰の動きがぴたりと止まる。聞こえてきたのは、太宰がこの世で最も聞きたくない男の声だった。嫌悪感を一切隠すことなく表情に出したまま、太宰は顔を上げた。
「うるさい黙れ失せろむしろ息すんな」
「お前本当にうざいなっ!」
 一息で云い切った太宰に対し、男・志賀直哉は顔を歪めてそう叫んだ。
 太宰と志賀の関係は、前世で小説家だった頃から最悪のものだった。太宰は志賀直哉という男が嫌いだった。生まれも育ちも作品も、志賀を構成する何もかもが気に食わなかった。それは劣等感や嫉妬ゆえであったかもしれないが、だからといって、太宰はこの男みたいになりたいとは思わなかった。
「人がせっかく気に掛けてやってるってのによ……」
「やってるだ?どんだけ偉そうなんですか。それに、そんなこと頼んでねえよ」
 思わず舌打ちする。散々太宰や、それから織田の作品をこけ下ろしてきたくせに、今更何を気に掛けるというのか。自分達の死後、この男が太宰達への態度を少なからず悔やんでいたとは聞いたが、そんなことは今の太宰には関係ないことだった。
 志賀とこれ以上口を利きたくない。太宰は立ち上がり、足早にその場を去ろうとした。しかし、それを拒むように、志賀が云った。
「お前、俺の何がそんなに気に食わないんだよ」
「全て」
「……龍のことだろ」
 志賀の口から出た名前に、太宰は心臓を鷲掴みにされた。頭のてっぺんから爪先まで、一瞬で激情がかけ巡る。
 龍。そう志賀が親しみを込めて呼ぶのは、芥川龍之介、その人だった。
「俺には、龍の苦しみがわからない。だったっけ?お前が如是我聞に書いてたの」
「……読んでなかったんじゃないのかよ」
「読んだよ。そこだけはな」
 如是我聞。それは太宰が己の命を絶つ直前まで執筆していた随筆の名前だ。記したのは、他ならぬ目の前の男への怒りと憎悪だった。その随筆の最後、太宰は積もりに積もった志賀への憎しみのままに、こう書いた。
『君には芥川の苦しみが全くわかっていない』と。

「そんなに気に食わないのかよ。俺があいつに尊敬されてるのが」
「ああ、気に食わない」
 拳に力がこもる。気を抜くと、感情のままに志賀に掴みかかりそうだった。
「芥川先生は、あんたなんかに憧れる必要ない。あんたを目指す必要なんかない。あの人の小説は、すでに完成されてるんだっ。あんたみたいに、芸術も理解できない成金趣味の小説なんか、書けなくていいっ。あの人は、あの人の作品はっ、俺にとって何より、何より特別なんだ!それを、なくしてほしくないっ!それなのに!」
 言葉が次から次に溢れてきた。悔しくてたまらなかった。なぜこの男なんだと、ぶちまけたくて仕方なかった。
「俺みたいな小説を書けなくてもいいってのは、同感だが……」
 業火のような怒りをぶつけられながら、それでも志賀は表情を崩さなかった。臆する様子もない。昔からこの男は、いつも太宰を一つ上から見下ろしていた。太宰がどんなに食ってかかろうと、「お前と下らない喧嘩する気はない」と相手にされない。そのことがさらに、太宰を激昂させた。
「何が云いてぇんだよ……」
「逃げんな」
 どくりと、鼓動が跳ねた。突き刺すような鋭い声で、志賀は云った。
「今俺に云ったこと、本人に伝えろ。伝えてやれ。俺に嫉妬してる暇あったら、逃げ回ってねぇで本人と向き合え」
「何で、あんたがそんなこと……」
 その時、ふと太宰は気付いた。思えば、おかしい。今まで志賀が、ここまで真っ向から太宰と言葉を交わそうとしてきたことは一度もなかった。話の内容といい、わざと太宰から罵声を浴びようとしているかのようだ。
「ま、こういう面倒くせー奴なんだよ」
 その時、不意に志賀が自分の背後を振り返った。太宰ではなく、第三者に話し掛けるその口振りに、いったい誰に云っているのだと疑問に思う。
 志賀の立つ場所、その奥へと目を向ける。しかし、そこには誰もいない。太宰が疑念に目を細めた瞬間、本棚の角から、一人の青年が姿を見せた。
「…………え」
 その人物を目にした時、太宰は時が止まったかのような感覚に陥った。周囲の景色が消え、青年の姿だけが視界を埋めていった。
 ゆっくりと彼は、こちらへと歩み寄ってきていた。その表情は、いつになく静かで、ひどく哀しげだ。
「どうして……」
「そういうわけだから、後はお前らで話せよ」
 志賀の呑気な声が聞こえる。だが、太宰はそれに対し、何の感慨も持つことはなかった。
 立ち去る志賀と擦れ違い、彼が、芥川が太宰の眼前まで来ていた。
「芥川先生……」
「やっと、見つけた」
 そう呟く芥川の顔は、やはり先ほど感じた通り、寂しげだった。
「太宰君」
 芥川の冷たい手が、太宰の右手を握った。どこにも行けないように拘束されたのだと、瞬時に理解した。
「太宰君。僕ね、ずっと君に嫌われてるんだと思ってた」
 太宰は瞠目した。それは青天の霹靂だった。
「そんなっ、俺は先生のこと……」
「うん。尊敬してくれているんだよね」
 言葉を続けられずにいると、芥川が代弁した。彼は先程の志賀とのやり取りを聞いていたのだと、太宰ははっきりと知った。
「でも、そんなことわからなかったよ。だって君、僕と話す時だけ表情強張ってたし、避けるし。僕のこと嫌いなのかなってずっと思ってた」
 芥川の左手が、ぎゅっと太宰の手を握る。いつしかそこから、彼の鼓動が伝わってきた。
「でも、僕を庇ってくれた。嬉しかったよ。だから、お礼がしたかったのに、君は前より僕を避けるようになった。情けない所見せたから、呆れられたのかと思って」
「っ、違う!情けないのは俺でっ!」
 思わず否定すると、芥川は微笑んだまま首を横に振った。
「君は、情けなくないよ」
「……っ」
「太宰君、僕は、もっと君と話したい。そして、教えて欲しいんだ」
 何をと、声に出さずに尋ねる。それがちゃんと届いたのか、芥川は乞うように目を細めた。
「どうして、君はそこまで僕の作品を、僕を愛してくれるの?」
 その問い掛けに、太宰は魂から震え上がった。どうして、なぜ。それは過去、何度も人から問われてきたことだった。だが、本人から尋ねられた衝撃は凄まじく、太宰は慄いた。
 そして、初めて知った。これは、自分の生き様、魂の在り方そのものに対しての問いだと。それほどまでに、太宰にとっては特別だった。芥川龍之介という存在が。
「……貴方が、何物でもないからです」
 声が震えそうになった。芥川の問いに答えることは、自分の中に散らばり、そして奥深くで形成されている塊を取り出して陽に当てるような行為だった。
 醜さも美しさも、白日の下に晒される。
「貴方は芥川龍之介で、俺にとって憧れの人で、尊敬する作家で。でも、それだけではない。それだけじゃ語り尽くせなくて、どんなに言葉を重ねても貴方を表すことなんてできない。貴方が芥川龍之介だから、だから俺は、貴方が、貴方の作品が愛しいんです。俺の痛みを、孤独を、弱さを、貴方が救ってくれた。俺は貴方に近付きたかった。貴方になりたかったのかもしれない。それほど、貴方は俺にとって影の理解者でした。貴方が、恋しい。愛しくて、たまらなかった。ずっと、手の届かない人だと思ってました。だから、こうして目の前にいてくれることさえ、未だに信じられなくて……」
 そこで、太宰は言葉を切った。段々と熱がこもり、支離滅裂になっていく気がした。
「すみません、俺、小説家なのに、上手く言葉にできなくて」
「……うん」
 頷く声は、今まで聞いたことがないほど優しかった。太宰がそれ以上何も云えずにいると、今度は訥々と、芥川が語りだした。
「僕ね、志賀さんにも谷崎にも怒られるんだ。“自分を大切にしろ”って。でも、僕はどうしたってそんなことできない。僕の作品は、“失敗作”だ」
「っ!そんなっ!」
「でもそれが、君という作家の礎になったのなら、少しは、違う見方ができるのかもしれないね……」
 芥川は笑っていた。しかしその瞳は、やはり寂寥感に満ちている。それが、自分に向けられていることを悟った時、太宰は天啓を受けたように目を覚ました。
 芥川は、求めている。かつて太宰が彼によって孤独を埋められたように、今度は芥川の孤独を埋めることを、他ならぬ太宰に。
「教えて。太宰君。言葉を尽くして、時間を重ねて。君が愛した僕を、僕に教えて」
「芥川先生……」
「僕を、愛して」
 愛されたがりの、寂しがり屋。芥川のことをそう呼んだのは、誰だったか。芥川は己を失敗作と云いながら、愛されることを望んでいる。太宰に愛されたいと望むのは、彼が太宰を愛しているからではない。太宰が、誰より芥川を愛しているからだ。
 それで、充分だった。
「はい……」
 ただ一度首肯し、太宰は壊れ物を扱うように、芥川の体をそっと抱き寄せた。かつて、彼の全集をそうしたように、強く、それでも柔らかく、太宰はその体を抱き締めた。
 芥川の腕が、太宰の背に回る。
 離したくないと、強く思った。伝わってくる体温が、香りが、芥川を構成する全てが愛しくてたまらなくなった。
「愛してます」
 ようやく、声になってくれた言葉。
 それを聞いた芥川は、確かに微笑んだようだった。







 



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