太宰×芥川 | ナノ

あの子が欲しい




 寝所を出ると、廊下はしんとした静けさに包まれていた。窓の向こうには漆黒の闇が広がり、夜が訪れたことを知らせていた。
 予定では夕方には目覚めているはずだったが、どうやら寝すぎてしまったようだ。これでは、夕飯もみな取り終えてしまっていることだろう。夜の食堂で一人で食事をするのは何とも物寂しいが、仕方ない。
 起こしてくれればいいのに。太宰は自分をこの地に呼び寄せた司書の顔を思い出し、口元を歪めた。
 食堂にまだ誰か残っていないだろうか。できるなら、織田作之助などの、親しい相手がいい。酒が好きな連中がよく遅くまで入り浸っていることがあるが、彼等とはできれば顔を合わせたくない。間違いなく絡まれる。自分を“青鯖”と呼ぶ詩人の顔を思い浮かべ、太宰は思わず溜め息をついた。
 出入り口の外から気配を窺って、食事を取るかどうか決めよう。そう考えて、太宰はひとまず食堂へと向かうことにした。

 政府が管理するこの図書館は、とにかく広い。一言に広いと云っても、ただ広大な敷地に書庫ばかりがあるわけではない。古今東西の書物を管理する本館、転生した文豪達が住まう住居、そこに付随する食堂や風呂などの生活に必要な施設、そしてそれらを取り囲むようにして、緑豊かな庭が広がっている。最初ここに来た時は、何度も道に迷ったものだ。しかし、一月も経てば、真っ直ぐに目的の場所に着くことができるようになった。
 食堂に辿り着いたのは、寝所を出て五分と経たないうちのことだ。その開けた出入り口からは、明かりが漏れていた。中に誰かいるのかもしれないと身構えるが、よくよく耳をそばだたせてみると、話し声は一切聞こえなかった。人の気配もあるのかないのか。
 ともかく、当初危惧していた酒飲み達がいないとわかっただけで、太宰には充分だった。
 ほっと息をつきながら、中へと一歩踏み込み、そして太宰は固まった。
「あ、おはよう」
 にこりと、柔らかく微笑む瞳と目が合う。その、水面に映った青空のように澄んだ双眸に見られた瞬間、まるで魔法にかかったように太宰は動けなくなった。
「おはようだと、変かな?もう夜だし」
 驚きで一瞬停止していた心臓が、バクバクとうるさいほどに鳴り出す。
 その人は、先程の太宰が視認することのできなかった位置にあるテーブルに、一人座っていた。両手を組み、その上に顎をのせて、無邪気に笑いながらこちらを見ている。
「あくた、がわ……先生……」
 太宰が口にできたのは、それだけだった。蚊の鳴くような声で、ぼそりと彼の名前だけを呟く。その声が聞こえたのか、芥川は口元の笑みを深くした。
「そんな所いないで、こっちにおいでよ。ご飯、まだなんだろう?」
 芥川が手招きする。しかし、太宰はそれに応えることができなかった。
 
 太宰にとって芥川は、ある意味この図書館にいる文豪達の中で、最も特別な存在だった。前世の己がまだ少年だった頃に出会い、一生をかけて追い求めた作家だ。今でも、初めて彼の小説を読んだ時の感動と興奮は忘れていない。その鋭くも繊細な感性、擦り切れた魂、弱さ、優しさ、世間への懐疑心。彼から感じるあらゆる要素に、強烈なシンパシーを感じた。何度も繰り返し作品を読み、私淑し、その存在を思わなかった日は一度もない。
 会いたかった。言葉を交わしたかった。でも、それは叶わなかった。
 まさか、死んだ後になって、その願いが実現するとは、夢にも思わなかった。
 だからなのか。太宰は芥川を前にすると、緊張で頭が真っ白になり、そのくせ胸中では感情や言葉が溢れ出して収集がつかなくなってしまう。何を云えばいいのか判断できず、そして結局、まともに会話すらできないのだ。
 出会った当初は顔すら見れなかった。その点、この状況は少しは進歩したと考えてもいいのかもしれない。
「太宰君?」
 名前を呼ばれて、びくりと肩が跳ね上がった。促すような響きに引っ張られ、太宰は恐る恐る足を前に出した。
「あの、先生は……なぜここに?」
 一歩ずつ近寄りながら、尋ねる。芥川はこちらを見上げたまま、右に首を傾けた。はらりと落ちた髪に、視線が奪われる。
「僕も、これから夕飯なんだ」
「そう、なんですか」
「うん。ずーっと本を読んでたら、いつの間にか時間が過ぎてしまってね。いつもは寛とかたっちゃ……堀君が呼びに来てくれるんだけど、今日二人ともいないから」
「…………」
 苦笑する芥川から、咄嗟に目をそらす。
 確かに食事時になると、芥川はその二人、特に菊池寛に連れられて姿を現すことが多かった。その姿を見る度、唇を噛み締めてしまう自分がいた。
 自分は緊張してまともに話もできないくせに、芥川の傍にいて親しくしている相手には嫉妬せずにはいられない。我ながら面倒だと思うが、これは前世からの変えようのない性分だ。
 今もまた、親しげに芥川が自分以外の名前を口にするだけで、苦い顔をしてしまった自覚がある。
「太宰君?どうかした?」
 そんな太宰に、芥川は不思議そうに瞬きを繰り返しながら尋ねてきた。憧れの人の前で醜い表情をしてしまったことに気付き、咄嗟に顔の筋肉を引き締める。「いえ……」とそれだけ零して、首を横に振った。
「夕飯、お、お持ちしますね」
 この状況では、芥川と二人きりで食事をすることは避けられない。覚悟を決めて、太宰は自らそう申し出た。
 芥川の返事を待たずに踵を返し、いつも食事の作り置きが保存されている冷蔵庫へと向かう。普段なら、政府から派遣された特定の職員が食事を用意してくれるのだが、規定の時間が過ぎてしまえば自身でやるしかない。
 冷蔵庫は、食堂と隣接している厨房の中にある。今晩の食事は何なのだろうと、いつもなら抱く期待すら持たず、それらしき皿を手に取る。
「一人じゃ大変だろ?」
「うわぁ!」
 背後から突然声がして、太宰は素っ頓狂な叫びを上げた。驚きで全身が跳ねて、手にした皿を落としそうになった。
「あ、ごめんね」
 背後にいたのは、当然と云うべきか、芥川だった。
「い、いえ、俺の方こそすみませんっ」
「僕も自分の運ぶよ。えっと、お盆は……」
 云いながら、芥川は食器のある棚を見に行ってしまった。彼が傍から離れたことで、少し息がつけた。しかし、未だ、太宰の心臓は落ち着かない。こんなことで、これから一緒に食事などできるのだろうか。

 芥川の真向かいの椅子に、静かに腰を下ろす。目を合わせることができず、視線を伏せていると、テーブルの上に置かれた細い指先が動くのが見えた。木の表面を、まるで撫でるように滑る白と黒の指はひどく色っぽい。見詰めていると、まるで自分の皮膚を撫でられているかのような錯覚に陥った。慌てて、目をそらす。
「じゃ、いただきます」
 そう口にする芥川の声が、やけに大きく頭の中で響いた。
 いつもの食事時なら、この部屋には少なくとも十人以上の笑い声や話し声、時には諍う声が飛び交っている。たとえ人数が少なくても、食堂という性質ゆえか、この場所には少なからず人の話し声があり、いつでも賑やかな空間になっていた。それなのに、今はどうだ。食器同士が時折当たる音と、壁際の置き時計の音だけが鼓膜を震わせている。息遣いすら聞こえてきそうな静寂だ。まるで、滅多に人の立ち入らない、静謐にいるような錯覚を覚えた。
 それが自身の緊張のせいなのか。眼前にいる人が生み出したものなのかは、判別できなかった。
 食事の最中、芥川は一切口を開かなかった。普段の彼は、決して無口な男ではない。よく友人達と談笑したり、真剣な顔で話し込んでいる姿を見掛けていた。それは、食事の際にもあまり変わらなかったはずだ。
 どうして、何も云わないのだろう。
 次第に、そんなことが気になりだした。ほとんど無意識のうちに箸を動かしながら、太宰は久方ぶりに芥川を見た。見たと云っても、ちらりと目線だけを上に向けた程度だ。視界の端に、芥川の顔が映る。彼はうっすらと口元に笑みを浮かべたまま、箸を口に運んでいた。赤い、唇。
 その伏せられた瞳は、今は長い睫毛に隠されている。不意に、睫毛の先が震え、芥川が顔を上げた。目が合う。すると、芥川はその双眸をすっと細め、笑った。音もなく、ふわりと表情が和らぐ。優しい微笑だ。それなのに、太宰は全身に冷水をかけられたかのような感覚を覚えた。
 太宰は、昔から人の感情の機微に敏感な方だと自負していた。些細なことで、人の思考や心の動きを察することができ、それが外れたことはほとんどない。
 だから、すぐにわかった。芥川のこの笑みが、決して愛想笑いの類ではなく、また友好の証でもないことを。
 これは、麻薬だ。
 弧を描いた口元、甘くなった瞳、僅かに傾いた首、優雅に滑る指先。彼の仕草一つ一つから、蜜のように甘い香りが漂っていた。それは、太宰の五感から体内に入り込み、容易く心まで侵食していってしまった。身震いするような冷たさを覚えていたはずの体が、いつしか奥底からじわじわと熱を煽り、心を焼いた。
 傍から見れば、ただ、食事をしているだけだ。それなのに、間違いない。

今、自分は目の前の麗人に、誘惑されている。

「……っ!!」
 そう思ったら、もう耐え切れなかった。
 なぜ、どうして、芥川が自分相手に“色”を見せるのかはわからない。それでも、一度“そうだと”認識してしまったら最後、もう冷静ではいられなかった。たとえ誤解であったとしても、太宰にもはや関係のないことだ。
 太宰は机に手をつき立ち上がると、芥川の顔を見ることなく、早口で告げた。
「すみませんっ。俺、まだ気分があまり良くないみたいです。先、失礼します」
 云い切るや否や、まだ半分以上が残っている夕飯を盆に載せて、逃げるように厨房へと向かった。流し台に乱暴に盆ごと置き、そして芥川の方へ目をやることなく、食堂を走り去った。
「太宰君」
 そう、背後から芥川が呼ぶ声がしたが、応えている余裕は、太宰にはなかった。




「逃げられちゃった……」
 太宰の立ち去った食堂。一人残された芥川は、頬杖をつきながら、溜め息をついた。
 顔を赤くしながら逃げ去った太宰の姿を思い出し、瞼を半分下ろす。
 前世では、多くの女性と関係を持ち、浮き名を流していたと聞いている。それなのに、少し自分が熱を持って見つめれば、まるで初恋を覚えたばかりの少年のように慌てる。
「可愛いな……」
 ほうっと、吐息と共に甘い声が出る。

 最初は、単なる興味だった。
 前世においては自分よりも十七歳若く、自分の死後に活躍した小説家。そして、自分と同じように若くして自ら命を絶った青年。
 どんな小説を書くのだろう。どんな人柄なのだろう。そんな、人並み程度の好奇心で、時々彼のことを目で追っていた。
 そのうち、やけに目が合うことに気が付いた。ふと視線を感じて顔を上げると、そこには決まって太宰がいた。少し離れた場所から、自分のことをじっと見詰めていることがほとんどだった。しかし、芥川がそれに気付いたと知ると、太宰は決まり悪そうにそっぽを向くのだ。そして、何事もなかったかのようにその場を去る。
 それがどうしてなのか気になって、芥川は自ら太宰に声をかけた。ただの朝の挨拶だけだった日もあれば、図書館で本を読む太宰を捕まえて、文学について語ろうとしたこともある。
 だが、そのどれも、まともなやり取りをすることは叶わなかった。
 挨拶一つするだけでも、太宰は酷く狼狽した。何度も噛んでは咳払いし、ようやく返事を返してくれるのが常だった。芥川が積極的に話し掛けても、相槌すらまともに返ってこないこともあった。
 次第に、芥川はそんな太宰の態度が、“自分を嫌っているから”なのではないかと考えるようになった。
 自分は少なからず、太宰と仲良くなりたいと考えていた。そんな相手に嫌われるのは、ひどく寂しい。
 だから、芥川はそのことを人に相談することにした。自分が信頼できる相手で、尚且つ前世の太宰を知る人物に。
「僕、太宰君に嫌われているのでしょうか?」
 そう尋ねた時の、彼・志賀直哉の顔を、芥川は今でも鮮明に思い起こせる。あれは、ちょうどここ、食堂でのことだ。昼食を終え、食後のお茶をのんびりと飲んでいる時のことだった。
「…………それ、本気で云ってるのか」
 絶妙なタイミングで口に含んでいたお茶を噴き出し、志賀は驚きで顔を引き攣らせながら訊き返してきた。その隣にいた武者小路実篤が、限界まで目を見開いてこちらを見ていたことも、よく覚えている。
「はい」
 二人の反応が意外で、どうしてだろうと首を傾げつつ頷くと、志賀は頭を抱えてしまった。武者にいたっては、「……あり得ない」と呟き、首を左右に振る始末。
「ねぇよ。まず、ない」
 志賀はそう断言する。嘘をつかない人だということは、前世からよく知っている。しかし、芥川は信じきることができなかった。
「そうですか?でも、太宰君、僕のこと避けてるようで……」
「ああ、確かに、あの態度見たら、そう思っても仕方ないのかな……」
「……面倒くせーな、あいつ」
 志賀と武者は顔を見合わせ、二人揃って深く息を吐き出した。 
「いいか。あいつはな、恐らく誰よりお前のことを尊敬している。お前のことが好き過ぎるあまり、お前に尊敬されてた俺が気に食わなくて、喧嘩売るような奴だぞ」
「尊敬している……?太宰君が僕を?」
「ああ。菊池にも訊いてみろ。そう云うはずだ」
「じゃぁ、何で、僕のこと避けるのでしょう」
「緊張してるんじゃないか?尊敬していた相手と、“転生“という形で会うことになるとは、思ってもいなかっただろうし」
 呆れたように武者は笑う。
 そんなものだろうか。芥川は首を傾げつつ、今までの太宰の態度を振り返ってみた。
 彼は往々にして、表情を強張らせ、全身が針金になったように動きをぎこちなくさせ、しどろもどろに話していた。
 それが好意ゆえの緊張からくるものなら、何と初なことだろう。
「……ちょっと、可愛いかも」
 思わずそう零した瞬間、再び志賀が茶を口から噴き出し、武者が咳き込んでいたが、芥川が気に留めることはなかった。

 太宰は、自分のことを好いている。
 そう、前世の彼を知る人物達から教えられていくうちに、芥川は以前にも増して、太宰のことを観察するようになった。
 仲間といる時の彼はお調子者で、よく喋り、よく笑う人物だった。その反面、嫌いな相手にはとことん態度が悪いらしく、志賀と睨み合いの喧嘩をしている時の太宰は、嫌悪感を一欠片も隠すことがなかった。そしてそれは、太宰が芥川と向き合っている時の様子とは、はるかに違った。
 嫌われているわけではないのだと、確信した。そして、芥川が太宰の本心を知ったのは、司書室に用事があり、その部屋の前に立った時のことだ。
「芥川先生まじでかっこ良すぎるだろっ!無理、まじ無理!好きすぎて無理!普通に話すとか心臓が何個あっても無理!」
「芥川先生の小説、本当に素晴らしいんだっ!俺のオススメは、“蜜柑”と……」
「話も上手いし、頭もいい!やっぱり文士って感じがするよなー芥川先生は!」
 司書室の中から聞こえた太宰の言葉に、さすがの芥川も暫し呆然とした。弾けるような声で紡がれたのは、紛れもない自分の名前。
 志賀が云っていたことは、本当だったのだ。
 太宰は間違いなく、自分のことを深く敬愛してくれている。
 “可愛い”と、再び思った。そして同時に、こう思ってしまったのだ。

 彼に愛されるのは、どんな気分なのだろう。

 どんな風に、自分のことを好きでいてくれているのか。何を持って、尊敬してくれているのか。
 知りたいと思った。できるなら、その情を態度で示して欲しかった。
 しかし、芥川から距離を縮めようとしても、太宰は相変わらず逃げ回るばかり。今夜も、これは好機と食堂で彼を待ち伏せしたのに、あっさりと逃げられてしまった。どうやら、こちらが手招くだけでは、彼は落ちてはくれないらしい。
「次は、逃さないからね」
 誰もいなくなった室内に、小さな囁きだけが溶けていく。
 芥川はうっとりと目を細め、そして妖艶に微笑んだ。







 


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