ありふれた 緑間は日常生活で利き手を使うことを厭う。 それは規則的に幾重にも巻かれた指へのテーピングが物語っていた。 爪の手入れも女のように欠かしたりはしない。 そんなルーティンのようなそれらに拘る偏屈な彼とのコミュニケーションは、身近な者ほど必然的に大変になるものなのだ、が。 「高尾。」 淡々とした低い涼やかな声が、名前を呼んだ。 クラスメイトと話していたのに、反射的に振り返ってしまう自分は相当毒されているのではないか。 「どったの、真ちゃん?」 聞き返せば、いつものように無表情な彼が居て。 シャープな顎を不遜にしゃくり、嘯いて見せる。 「お前が代わりに切れ」 「へ?」 「見て分からないか?」 目線の先には、まな板と包丁が鎮座している。 一瞬で事態を把握した高尾は、ははぁと頷いた。 「そゆことねー。で、何を切りゃ良いんかな?」 「そこにある人参とじゃがいもなのだよ」 「りょーかい」 只今うちのクラスは家庭科の調理実習中。 緑間とは同じ班だったが、役割が違ったため離れていた。のだがどうやら彼が野菜を切らなければならなくなったらしい。 代われ、と言われたら断る理由もない。 それが当たり前だろうし、高尾も緑間も当然のことだと思っている。 「てか真ちゃんさぁ、今時の男は料理の一つや二つ出来ないと駄目だぜー?」 「そんなものは知らん。もし指を切ったりしたら、どうするのだよ」 「まぁそうだよねぇ。真ちゃんの指に傷が付いたら、まじで一大事だわ」 しみじみと呟く。 緑間は当然なのだよ、と小さく言った。 すると今まで黙って高尾と緑間のやり取りを聞いていた、先ほどまで話していた友人が耳打ちしてきた。 「おい、なあ高尾」 「んー、なんだい?」 聞きながらも、リズミカルに人参を切る。 大きさも厚さも均一。 なかなか上手いものだろう。手先が器用で得した。 「お前、良いのかよ?」 「え、なにが?」 「あんな風に命令されて、ほいほい従ってさ」 「命令ー?」 意味が分からなくて、一瞬眉を寄せた。 友人は顔を歪めたまま、ちらりと緑間を見る。 「あいつ、高尾のこと下僕かなんかと勘違いしてんじゃねえの?緑間のこと、お前が全部やってんじゃん」 「あー、それ俺も思ったわ!つかあり得なくね?てめぇでやれってんだ」 もう一人の友人が、ひょいと顔をつきだしてくる。 二人してむかつくよなぁ、などと宣うものだから、高尾は思わず手を止めた。 「二人とも、何に対して怒ってんだよ?」 「はあ?お前むかつかないのかよ?」 「誰に」 じゃがいもは皮を剥いてから、切る。 「だから、緑間に」 「真ちゃんにぃ?」 はは、あり得ない。 笑って短く否定。 そうしたら、二人とも怪訝な顔をした。 「なんか弱味でも握られて脅されてんのか?」 「おい、高尾お前毒されてんじゃねえの?」 酷い言われよう。 だが毒されている、とはいい得て妙だ。 「そっかもなぁ」 「なあ、それなら俺らが言ってやろうか?なんか言い出しにくそうだし…」 「そうだよ!」 身を乗り出してくるから、丁重に断った。 「そうゆうの、大丈夫。間に合ってるから」 未だ不満げな二人を残し、くるり、緑間を見る。 「ほい、出来たよ真ちゃん。どうかな?」 「ふん」 「結構上手くない?」 「手際は良かったのだよ」 「お、誉められた〜!」 眼鏡を押し上げながら言われたから、喜ぶ。 珍しい誉められたな。 「誉められたぁ?」 「どこがだよ…」 唖然とする友人。 いや、全体的にだけど? 「てか真ちゃんよぉ、エプロンくらいしたらどうなの。先生見てるけど」 「構わないのだよ。定期考査で点は稼げる。」 「さっすが真ちゃん。むかつく発言ありがとー」 「殴られたいか」 「いやじょーだん」 戯れ言に付き合ってくれるから、暇らしい。 まあなにもしなければ、調理実習など手持ちぶさた以外の何物でもない。 「…おい、緑間ァ」 痺れを切らしたのは、最初に会話していた彼だ。 ちらり、と緑間の視線はそちらを見たが、興味無さげに伏せられてしまう。 「お前さぁ、なんでも高尾にやらせてんなよ」 「何様のつもりだ?野菜くらい切れんだろーが」 だから余計なことしなくてもいーのに。 内心顔をしかめたが、表には出さない。 「ちょー、まじになんなくてもいーじゃん」 「いや、俺らの気がすまない。見ててむかつく」 「どーかん」 言われた本人は聞いているのかいないのか。 どこ吹く風だ。 「聞いてんのかよ!?」 「聞こえているのだよ。無駄に大きな声を出すな、頭に響く。」 心底面倒臭そうに、緑間はそう答えた。 かちんときたのか、彼らは無理矢理に包丁を突き出す。緑間は渋々というか必然的にそれを握った。 ごめん真ちゃん、と視線で謝れば、射殺されそうな勢いで睨まれた。 しょうがないじゃんか。 不可抗力だよ。 「…何を切るのだよ?」 緑間は一言。 それを聞いた二人は逆に驚いていた。 まさかほんとうに切るとは思っていなかったらしい。それは高尾も同じだ。 おいおいおい。 大丈夫なんかね? はらはら行方を見守る。 緑間が判断を下したのだから、それしか出来ない。 「…玉ねぎを」 「寄越せ。」 玉ねぎをぶんどった緑間は、そのままの勢いで包丁を翳し、振り抜いた。 表現がおかしいかもしれないが、彼の行動はまさにその言葉そのまま。 ダァンッ、と家庭科室に似合わない物音が響く。 「っ!?」 わお。 一瞬周りが静かになった。だが緑間は気にせず、玉ねぎを切り出す。 見ていてかなり危なっかしい。右手添えなきゃ! そんな概念な緑間には毛ほどもないのだろうが。 「あぶ、あぶな、」 ぶつん。 今度は高尾もぎょっとした。ちょっとタンマ。 「指切ったね、真ちゃん」 「そのようだな」 「深い?」 「浅い」 「血ィ出てんねぇ」 テーピングの隙間から、赤が漏れ出す。 赤と白のコントラスト。 「ねえ真ちゃん。今回のは俺が止めなかったのも、悪かったけどさあ」 「お前が全面的に、悪いのだよ。」 「…じゃあ九割五分は俺のせいね。でもさ、残りはやっすい挑発に乗った、緑間のせいじゃね?」 左手を取りながら、そう尋ねてみる。 「…認めるのは癪だが、そうかもしれないのだよ」 「じゃあさぁ、殴るね」 「ああ」 周りで話を聞いていた生徒たちが、ざわめくのが分かった。だろうに。 「じゃあ、ほっぺね。」 言うなり、平手で容赦なく叩いてやった。 彼は勢いで顔を傾ける。 「…手を、抜いたな」 「まあ今日はね。俺にかなり非もあったしさ」 「ふん」 本日二度目の鼻を鳴らして、緑間は目を閉じた。 はい、しゅーりょー。 次の過程にうつらなくてはならない。なに、次は炒めたりすんの? 平然として聞いたら、今度は顔を真っ青にした彼らが食い付いてくる。 「ちょ、高尾!お前、いま殴ったよな!?」 「人聞き悪いなー。殴ってねぇよ叩いたのさ」 「変わらねぇだろ!」 そうかな。 次はやはり具を炒めるらしい。油を取り出す。 ちなみに先ほどから作ろうとしているのはカレーだ。 「殴るお前もお前だけど、なんで緑間もそれが当たり前みたいにしてんの?」 「当たり前だろ。そういう約束なんだからさ」 「約束?」 「そう。真ちゃんが左手を無防備に怪我してきたらお仕置き。その逆もまた然りで俺が真ちゃんを守れなかったらお仕置き。」 だからまあ。 「これくらいかな」 ぎょっとしたように、彼らは身を引いた。 それもそのはず。 高尾は包丁で、小指の先を切りつけたからだ。 「なっ、にしてんだよ!?」 「だからお仕置き。てか代償?止めらんなかった俺がわりぃし。あとかっとして真ちゃん叩いた」 ぺろり、と滲む血を舐めながら説明する。 分かって貰おうとは思わないし、そんな簡単に分かって貰っては困る。 「たかお。」 背後から、さっきよりも随分あまったるい声。 「なぁに」 自分も指摘出来ないが。 「詫びだ」 ちゅ、と頬に柔らかな感触。緑間の唇が押し当てられたらしかった。 「わぁお。めっずらしい、真ちゃんのデレだね!」 「非は俺にもあったからな。お前も指を犠牲にしたようだし」 「バスケは出来るよ?」 「当たり前なのだよ。それで出来なくなったのなら、俺はお前を刺す」 「こっわぁい」 おどけながらも、緑間の腰をそっと撫でた。 「保健室行っといで。」 「指図されずともそのつもりだったのだよ」 「さいで」 あ、とひとつ忠告。 「やぁらしい顔して、保健室のせんせー誘惑したりしないでね?」 「するか馬鹿。愚か者め」 彼は一瞬だけ唇を緩めて、行ってしまった。 その背中を見送りながら、火を付ける。 上手くいきそうな予感。 「高尾、おまえ…」 「ん?」 「おかしいよ。狂ってる」 そう見える? それならば。 にぃ、と高尾は唇を横につり上げて。 「素敵な誉め言葉を、どうもありがとう」 end |