溺れるエンゼルフィッシュ


「そろそろ帰るか。」

その言葉に緑間ははっとして顔を上げた。
窓の外を見ればもう真っ暗で、時計は六時半を指し示している。最終下校時刻を過ぎていた。

「…はい。」

一拍遅れて返事をすれば、向かいの席に座り伸びをしていた宮地が首を傾げる。

「んだよ。分かんねぇとこでもあったのか?」

つい先日部室で数学の解けなかった問題を尋ねると、意外にもすらすら宮地が教えてくれたのだ。
なので時折このように二人で図書室で勉強会ならぬものを開くようになった。

「いえ、大丈夫です」

そう答えてから、少しからかうかのように緑間は逆に聞いてみる。

「宮地さんのほうは、分からないところはありませんでしたか?」

「てめ、ばっかにすんな」

軽く額を小突かれた。
宮地はどうやら数学は得意でも国語が苦手らしい。
だからそこは緑間が教えたりする。二学年という差は、日々人事を尽くす緑間との間では些末なことでしかないから問題はない。

「一年に教えられるほど馬鹿じゃねえっつの。」

「そうでしたね。宮地さんは成績上位者にいつも名を連ねているそうですし…」

「誰に聞いたん?」

「高尾です。」

「まったあいつかよ。何でも知ってんな〜。まじちょっとこえーわ」

「俺も思いました」

などと軽口を叩きながら、素早く身支度をする。
緑間が脱いでいた学ランを着込んでいると宮地があっと声を上げる。

「どうしたんですか…?」

「図書委員もう帰っちまってんじゃねえか!」

カウンターを見れば、確かにもぬけの殻である。
ということは。

「鍵を閉めなくてはなりませんね…。」

「うっわ面倒くさ。てかまだ生徒居んのに帰るとか怠慢じゃね?なあ緑間」

「同感です」

頷いて仕方がないからと緑間は鍵を取りに向かう。
カウンターの中に入ると、案外簡単に鍵は見付かった。机の上に無造作に放置されていたからだ。
それを手に取った瞬間、何の前触れもなく図書室の電気が消えた。
もれなく全部である。
別段鳥目では無いが、いきなりでは何も見えない。

「っ、宮地さん、」

またあの人は、とため息が吐きたくもなる。毎度毎度消すのが早いのだ。
前もそうだったと思い出しながら、覚束無い足取りで出口を目指す。
だが途中、椅子か何かに盛大に足をぶつけた。

「痛っ」

思わず口にすると、意外な近さから声がした。

「大丈夫か?」

「っ!?みやじさ、」

「まぁたびびってんのお前。普通に俺しか居なくね?ここに。」

「だからって、いきなりは吃驚するのだよ…!」

いつかと同じように、腕を掴まれた。

「どこぶつけた?」

「えっ?」

「今痛いっつってたろ。怪我してねえか。」

そんな、優しさ。
胸に何かが燻るようだ。
自覚したくは無いが。

「っ、平気、です…」

「そか、良かった」

「…そもそも宮地さんが早くに消さないでくれたら、ぶつけませんでした。」

などとぶつくさ言えば、わりぃわりぃとまるで悪いとは思っていないであろう謝罪が返ってきた。
全くやれやれである。

「よし、返してくるからちょっと待ってろ」

図書室を出て施錠すると、宮地はそう言った。

「駐輪場ですか?」

「ああ。鍵返したら、すぐ行くから。どうせ歩きだろ?また乗ってけ」

最近はこれが習慣になりつつある。慣れとは怖い。

「…俺も、行きます」

「何にだよ?」

「鍵を返すの。職員室ですよね?一緒に」

「いや、いーよ。別にこれに先輩後輩関係ねえし」

鍵を指に引っ掛けくるくる回しながら返されたが、緑間は頑なに首を振る。

「行きます。」

「んでそんなに行きたがんだよ。…あ、」

何かに閃いたみたいな表情をした彼は、にたりと大分人が悪く笑った。

「もしかしてお前さ、」

「っ」

「怖いんだろ?駐輪場までの道、暗ェから」

ぴたりと言い当てられて、口ごもる。正に図星だ。
暗いのはあまり得意ではないのだ。最近日の入りが早いから、正直怖い。
だから一人で行くのはあまり気が進まなかった。

「べつに、そうゆう訳では、ないですけど…」

と裏腹なことを口にしてしまう。ならなんでだと詰め寄られたら弱かった。

「…ぅ、あの、」

「ははっ、なんだよ可愛いとこあるじゃねーか」

しどろもどろになった緑間を責め立てる訳でもなく、宮地はからから笑った。
最近知ったが、物騒な言葉を吐かない宮地は案外優しい。いや、とても。
よく笑うし、怖くなんてまったくないのだ。

「か、可愛くなんか、ないのだよ…。」

「そうゆうとこだよ。高尾がそういやよく言ってんな、ツンデレって」

「?」

「ま、いいか。んじゃ職員室行くぞ〜」

何故だか機嫌良さそうに宮地は歩き出した。周章てて緑間もそれを追う。
無事に鍵を返し終えて、駐輪場までやって来た。
流石に11月半ばを過ぎれば寒さが身に染みる。

「緑間お前薄着じゃね?」

「そうですかね」

緑間は防寒具の類いを一切つけていなかった。
寒さに強いわけでは無いが、まだ良いかなどと無精をしていたら意外に気温が下がってきていただけだ。
対して宮地はマフラーに手袋と防寒対策はばっちりといったところである。

「もこもこですね、宮地さん。あったかそうです」

「ん、あったけーぞ」

「クラスの女子が似たような格好してました」

「比べんな轢くぞ。」

自転車の鍵を外しながらそんなことを話した。
流石にマフラーくらいしてくれば良かった。寒い。

「ほら、」

「はい」

乗れと促されたのかと思い跨がろうとすれば、ちげえよと言われた。

「…なんです?」

「貸しちゃる。」

「っ、あ、え」

「お礼はセブンの肉まんでいーからな」

差し出されたのは、先ほどまで宮地が巻いていたチェックのマフラーだった。戸惑いながら受けとれば、さっさと巻けと咎められる。

「でも、宮地さんが…」

「俺は手袋あるし?冷え性だから一番指先冷えんのがやなんだよ。マフラーはおまけだからいんだ、貸す」

「う…。」

早口に告げられ、どうしようかと迷った。
いらないと突っぱねるのは簡単だ。だがせっかくの好意を無駄にしたくない。
ならば。

「ありがとう、ございます。宮地さん…」

「っ、おう」

「あったかいのだよ。」

首に巻けば、まだほんのりとぬくもりが残っていた。鼻先を埋める。

「宮地さんの、匂いがします…。」

「あ、たりめーだろ俺のなんだから。嫌なら返せ」

「いやです、もう貸してもらいましたから。それに」

甘くて宮地さんの匂い、好きなんです。
呟けば、ぐりんと背を向けた宮地があっそとそっけなく口にした。
爽やかだけれど甘いような宮地の香り。はじめて言ったが、緑間はそれが結構気に入っていたのだ。

「…巻いたんなら、ちゃっちゃと乗れよ」

「はい、失礼します」

声をかけてから、後ろへ跨がった。荷台は冷えきっていて思わずびくりと身体が跳ねる。

「ひゃ、」

「っ!?なんだよ!?」

「すみませ、冷たくて驚いただけです…」

変な声が出たのが恥ずかしくてもごもご言い訳をする。宮地がぼそりと、

「えろい声いきなり出すなばかやろー…」

と呟いたが緑間にそれが聞こえることはなかった。

「…じゃ、行くぞ。」

「はい」

きゅ、と彼の腰にしっかりしがみつく。自転車はゆっくり進み出した。

「そういやよ、昼休み高尾がうちのクラス来てよ」

「そうなんですか」

「俺にも数学教えてくださいって泣き付かれた」

そういえば高尾は数学の課題が分からないと嘆いていたのを思い出す。
だが生憎委員会があったため、緑間は教えることが出来なかったのだ。
だから宮地のところへと行ったのだろう。

「教え、たんですか…?」

後輩に尋ねられたならば、彼は断らないだろう。
現に緑間にすら丁寧に教えてくれたのだから。
でも、なんだか。
二人で教えあうそれに、特別な何かを感じていたのは事実であって。

「教えてねえよ面倒い」

「えっ」

「俺ァ自分の時間割いてまで勉強教えるほどお人好しじゃねーっつの。」

はあっと宮地が吐いた息が白い。もうそんな季節になってしまったのだ。
緑間は彼の腰を掴む手を、少しだけ強くした。

「で、でも、俺には…」

「あ?んなの決まってんだろ、依怙贔屓だよばか。お前は、トクベツ。」

告げた宮地の背中はいつも通りだった。ぶれなくて真っ直ぐで、自分より少しだけ広くて逞しい。
だが蜂蜜色した髪の隙間から覗く耳だけが、微かに色付いていた。

「…高尾は馬鹿そうだから骨折れそうだしなあ」

「そうです、ね…。」

茶化して笑ってくれて、ほんとうに良かったと思う。そうしなかったから緑間は、赤くなった頬をもて余して戸惑ったままだった。
暫く沈黙が続く。
車輪が回る音とペダルを漕ぐ音、静かで冷たい空気に二人だけの息遣い。
不意にそれらを破ったのは、宮地だった。

「…言わねえの」

一瞬、自分に尋ねられているとは分からなかった。
理解しようとしたが諦め、そっと聞き返す。

「何を、ですか」

「月。」

視線を自然と上へと向ける。澄んだ夜空には星が煌めいていた。
月は出ていた。
だがそれは細い細い、三日月であったのだけれど。

「今日は、言わないです」

「そう、かよ…」

「でも、」

緑間は躊躇い、それでも小さな声で口にする。

「しんでもいい…」

「え…?」

「俺、死んでもいいです」

幸せ過ぎて…。
伝わるだろうか、伝わらなくたって良い。
この溢れる想いを、どうか嘘にはしないで欲しい。

「ばぁか」

くすり、宮地が笑った気配がした。柔らかく優しく。

「エース様が、簡単に死んでもいいだなんて言うんじゃねえよ。」

「…はい」

「それに、」

宮地は自転車を走らせる速度を少し上げて。
風を切りながら。

「お前の幸せがこれなら、俺の幸せもこれだ。どっちかが欠けちまっても、意味ねえだろ。」

「っ、はい…!」

もう堪らなくなって、緑間は冷えた額を彼の背中に押し付けた。あったかい。
あまい良い匂い。

「二葉亭四迷より、熱烈な言葉なのだよ…」

「あ?」

「なんでも無いです…」

今度は恥ずかしさが一気に込み上げてきた。

「なに照れてんだよ。こっちも照れんだろ!」

「…先輩、国語実は得意なんじゃないですか」

疑いの目を向けると、宮地はまたひとつ笑って。

「お前のために、人事を尽くしただけだっての。」


end


title 不眠症のラベンダー

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