深淵 仲が良いかと尋ねられれば、自分はよく分からないと答えるだろう。 出逢ってからまだ数ヵ月、同じクラスに同じ部活。 生活の大半を共にする彼を、未だに把握出来ないところは多分にある。 「あっちぃなぁ…」 高尾はこめかみを伝う汗をシャツの裾で乱暴に拭いながら、呟いた。 夏場の体育館は蒸し風呂のように暑い。 ただ立っているだけでも相当なのだから、動いていたら尚更である。 先程大坪から休憩を言い渡され、晴れて午前中の練習は終わりを告げたことになる。まあすぐに午後練習に入ってしまうのだが。 取り敢えず顔でも洗いに行くかと外へ出ようとした時、まだコートに人が居るのに気が付いた。 長身で細身の後ろ姿。 あれは緑間だ。 「真ちゃん、」 もう休憩だぜー、と声をかけようとして、だが咄嗟に口をつぐむ。 彼に近付く人物が二人ほど、居たからだ。 (二年の先輩…か?名前なんだったかなぁ…) 記憶は実に曖昧で、それも仕方ないと言えよう。 部員数はかなり多く、大所帯であるのだ。 レギュラーはほんの一握り。一軍でも無ければ、顔くらいしか知らない先輩などざらに居た。 高尾と緑間は一年生で唯一のレギュラーであるから、目立つことは目立つ。 緑間など、特に。 キセキの世代が持つインパクトは、当事者たちが考えるより遥かに大きい。 (なに、話してんだろ…) 先輩二人は何事かを緑間に告げていた。 表情を見れば、内容が良いことではないのはすぐに分かる。悪意が滲み出るような顔つきなのだ。 (醜い顔してんなあ…) 誰かの悪口を言っている時など、あんな歪んだ表情をしているのだろうか。 ならば一生言いたくないとすら思える。 緑間はほとんど黙って話を聞いているようだった。 時折、形の良い薄い唇が動いている。 気が付けば、立ち止まり一心に彼らを見詰めていたのだろう。真横に人が立ったのに、気が付かなかった。 「お前さんはホントにあいつに拘るねぇ」 「っ、宮地さん…!」 「なんだよ、んなびっくりすんな。ふつーに話し掛けただけだろが」 宮地はひらひらと手を振った。確かに自分が気付かなかったのは不覚である。 「…ちょっと、気になっちゃって。」 「気になるも何も、あんなん緑間がむかつくから何か言ってるだけじゃん」 「だけ、って、」 そんな。 高尾の表情が可笑しかったのか、宮地は笑った。 「んな怒んなよ。俺は別に緑間を貶してない」 「今貶されてますよ」 「そりゃ俺が関与することじゃねえな。そもそもあいつが言われて傷付くような野郎かよ」 首を竦めた宮地の言うことは、尤もだった。 緑間は大概自分中心で世界を回しているから、誰に何を思われようが、気にしたりはしないのだ。 だが同時に驚くほど繊細な部分も持ち合わせていて、感情の機微には意外にさとかったりもする。 「それはそうかもしんないすけど…。でも、あんな風に言うの見んのは、なんか、嫌です…」 「しゃあねぇだろ。天才とは妬まれるものなんだよ。それでも伸びていく奴も居れば、潰されて駄目になって堕ちてく奴も居る」 いやに淡々とした響きを持つ答えであった。 そうして思う。 彼は天才なんかじゃない。練習を怠らず、積み重ねた結果が今なのだ。 なにもせずとも出来る、そんな天才ではない。 人事を尽くしている。 彼は、毎日毎日。 それが分かるのは多分高尾くらいしか居らず、なんだか堪らなく悔しかった。 「それに、嫌だってのはお前の感情だろ。んなのはただのエゴじゃねえか」 言われずとも、充分にそれは理解していた。 だが嫌なものは嫌だ。 歯噛みすると、宮地がぱん、と肩を叩いてきた。 「浮かねー顔してんな。お前が考えたってどうにもなりゃしねんだよ。緑間がどうこうしたいって動かねえ限りはよ。」 「そう、すね…」 「それに…。俺は一概に緑間とお前の肩ばかりは、持てねえからな」 苦笑気味に宮地は言う。 「緑間が凄いのは分かる。だがあの態度だぞ?もし先輩だったらと考えてみろ。しかも自分はレギュラーにすらなれない。どうにかしてやりたい、って思うのが人間なんじゃねえの。」 「…宮地さんは、どうにかしてやりたいなんて考えたことあんすか」 「んー…」 思案するように僅か天を仰いだ宮地は、ある、と明確にそう言った。 「殴ってやりたくなるのは、しょっちゅうだ」 確かによく口にしている。だが大抵それは実行されないし、軽口の一種として見なされているだろう。 ああいった、ねちねちした陰で何かをやるようなこととは違うような気がした。 「大差ねえんだよ」 心を読まれたかと思った。 「そこに、違いなんてあんまねえよ。紙一重だ。受け取りかたなんてあいつ次第だろうが」 さ、休憩休憩と宮地は体育館を出ていってしまう。 高尾をフォローしてくれたのか、それとも悩ませたかっただけなのか。 多分どちらでもない。 彼は自由なのだ。 自分の欲望に忠実であるだけに違いない。 ふと気が付けば、緑間は解放されてこちらに歩いてきているところだった。 「真ちゃん。」 また名前を呼ぶ。 今度はちゃんと、返事をしてくれた。 「なんなのだよ」 「先輩たちに、なんて言われてたの」 率直に尋ねた。 聞きたかったからだ。 回りくどく聞くよりも簡単で良いだろう。まどろっこしいのは緑間は嫌いだ。 さして躊躇うこともなく、緑間は答える。 「調子に乗るんじゃない、一年は一年らしくおとなしくしていろ、態度が悪い、口の利き方がなっていない、目障りだ、」 「…いや、もういい…」 平坦な箇条書きの言葉を遮る。やはり、考えたいた通りの妬みの数々。 それを自分が言われたら、存分に苛々するだろう。 だが緑間は平然としていて、何かを感じた風もなくいつものままだ。 それが分からない。 「自分で聞いておきながらもういいとはなんだ」 「ごめん。…真ちゃん、嫌じゃねーの?」 「なにがだ」 「…そーゆうの言われて」 「言われ慣れているのだよ。何も、感じない」 その言葉は酷く悲しい言葉であった。 何も感じることが出来ないのが悲しい。 多分彼は、高尾が悲しむ理由が分からないだろう。 たが慣れ欲しくないのだ。慣れてはいけないことでもあると思う。 そうしなくては、緑間はどんどん人間から遠ざかってしまう。そうしたらもうただの人気だ。 からくりのようにバスケをする、心のない。 「どうかしたのか」 不可解な顔付きをした緑間に声をかけられて、はっとした。なんもねーよと言ってから、息を吐く。 「休憩だろ。飯食って、涼んでよーぜ」 軽く緑間の背中を押すと、一瞬そこが強張った。 慣れていないのだ。 悪意ある言葉を吐かれるのは慣れていて、軽く触られるのは慣れていない。 寧ろ怯えるように。 ああ、それはとても悲しいことなのだと。 高尾はまた内心思うのだ。 緑間は一人で居る。 それは高尾が横に居ない場合であるが、彼はほんとうに孤独であった。 決して自分からなど誰かに話し掛けたりしない。 話し掛けられても対応は最小限に留める。 高尾は愛想も良く立ち回りが上手い自負もあるので、誰かに呼ばれたらそちらに行くこともある。 そうしてふと気になれば、緑間は一人なのだ。 教室では、席に着いたまま本を読んでいる。 体育で校庭やら体育館に居れば、一人ただ立ち竦んでいるだけだ。 だがそれを、彼は気にしないのだ。周りの評価など。どうでも良いんだろう。 「…高尾」 珍しく、弁当を一緒に食べていると緑間が名を呼んできた。些か驚く。 「ん、なに?」 「…見られているのだよ」 それは幾分潜まった、小さな声音だった。 微かに後方を目で示され、振り返れば教室の入り口に女子が数人固まって居た。 「俺、呼ばれてないけど」 「でもお前を見ている」 「あ、そう…。」 確かに、目が合えば意味ありげに逸らされた。 「どうしよう真ちゃん、俺コクられちゃうかもー」 茶化してみれば、緑間はそうか、と言った。 「んだよー。そんな興味無さげにすんなよな。真ちゃんてば冷たい」 「…興味があろうがなかろうが、俺には関係ないことなのだよ」 関係ない。 それはたった一言で他者を切り捨てる鋭利な刃物。 彼の真っ直ぐで率直な物言いには慣れてきていたつもりだが、流石に今のはぐっさりきた。 (なんだよ、俺の気も知らないで。俺が真ちゃんのことでどんだけ考えてるか、知んないでしょ。) と考えてから気付く。 これもエゴではないか。 緑間がどうして欲しいなどと宣った訳ではない。 酷い、自惚れだった。 「高尾くん!」 思い至った瞬間に名前をその女子に呼ばれ、なんていうタイミングなのだと辟易すらした。 これが緑間が呼んだものなら、自分はほいほいのこのこついていったろう。 「…ちょっと、いってくんね。すぐ戻るけど。」 「ああ」 既に食べ終わったらしい緑間は、直ぐ様文庫本を読み出してしまった。 無視出来るはずもなく、のろのろ立ち上がり、高尾は教室を出たのだった。 彼女たちに連れていかれたのはお約束な校舎裏。 そしてやはりというか、内容は告白であった。 「あの…!私、高尾くんのことが好きなの…!」 「えー、と…」 (やっぱねー。最近は少なくなってたんだけどねえ) 困惑する高尾を他所に、後ろに控えていた女子が後押しするように言う。 「この子、ずっと高尾くんが好きだったんだよ?…応えてあげてくれない…?」 ずっと好きなら応えてもらえる。 それは高尾が緑間に抱く思いに、限り無く似ているような気がした。 だがそんなものは間違いで、報われないこともある。 「…悪い。今は、そうゆうのあんま考えらんない」 穏便に済ますつもりで、当たり障りない答えを口にした。だが彼女たちはお気に召さなかったらしい。 「緑間くんの、せいなんでしょ…?」 唐突な言葉に、一瞬意味が分からず眉を寄せた。 「緑間?なんで?」 「だって、最近緑間くんにべったりじゃない!一人が可哀想だからって優しいと思うけど、でもそんなにしてあげる必要ないとおもうの。」 つまりは、高尾が断ったのは緑間のことばかりを気にかけているからだと。 そんなはずないのに。 ただ高尾が構いたいから、緑間に少しでも皆と同じように過ごして欲しいから、そうするのである。 「あいつは、関係ないよ」 「嘘よ!最近付き合い悪くなったじゃない」 入学した当初は彼女たちの誘いを受けていた時もあった。まあもう最近はほとんどしていない。 それは高尾の心境の変化からであるから、緑間は本当に関係ないのだ。 「高尾くんの優しさに甘えてるよねえ。」 「迷惑なのに気が付いてないのかなあ」 代わる代わる好き勝手言う二人に、高尾は明確な不快感を持って、今度は顔をしかめる。 「緑間は一切関係ない。」 「でも、」 「でもも糞もない。そうなんだ。付き合えないものは付き合えないよ」 ぶっきらぼうな言い方になったかもしれない。 「っ、そんな、」 「俺、徒党組んでしか行動出来ない奴等に、興味なんか微塵も沸かないから」 最後にそれだけ告げると、高尾は踵を返した。 泣いてしまうかもしれない。だが構わなかった。 彼女は緑間を悪く言ったのだから。 (こんな急いで戻っても、あいつは何も思わねえんだろうなあ) なんて考えたとて、栓ないことだろうけれど。 (…あとちょっと切れちまったとか、一ミリも知らねんだろーけど。) 終 |