日付変更線
階段を降りる途中、反対に上って来る男とドン! と肩がぶつかって。
咄嗟に「あ、すみません」と言えばチッとこれ見よがしな舌打ちが返ってきた。
そんな風にまたひとつ小さな棘を抱えた私は、それでも人でごった返すホームまで一気に駆け降り、何とか閉まる間際の電車に体を滑り込ませることに成功。
ふーと息を吐いて扉近くのコーナーに体を預け、いつもの癖で携帯を取り出しかけたものの、そんな必要も今さっき無くなったことにふと気付く。
“乗れたよ!”
片道1時間半、乗り換え2回。些か早い終電に慌てて階段を駆け降りる私のセーフ・アウトを心配する人はもういない。
知らずハァーと溜め息が零れた私の脳裏に、つい今しがたぶつかった男の舌打ちが木霊する。お腹の内側にぐるぐるとした不快な渦を覚え、空耳かもしれない、とむりくり自分に嘘をつく。
イヤな心地を紛らすべく、席は埋まってるもののさほど混んではない車内に意識を向けたはいいが――。
馬鹿でかい声で喋る酔ったスーツ集団。ドア付近にしゃがみ込んで通信ゲームをする数人の若者。目の前に立っている人がいるのに、堂々座席に荷物を置いている中年女性。
そんな、あまり客層がよろしくないことで有名なこの路線ではザラに見る光景すら、今の私をウンザリさせるには充分だった。あまつさえイヤでも聞こえてくるそのスーツ集団の会話に至っては、ひときわ私の神経を逆撫でしてくれる。
「あの新人の子、可愛いよな」
「つーかお前、彼女いんじゃん」
「いやぁ、最近仕事忙しいらしくてさ。家来いつっても来ねーし、何かもうダリー」
「「「でーたー!」」」
……何が出たかは知らんけど、いっそ彼女と可愛い新人ちゃん、その両方に手酷くあしらわれてしまいやがれ!
週末を思わせる篭ったアルコールの臭いが鼻につき、何だか息苦しい。
“お前を変えたいんだよ!”
“は!? 何そのエゴ!”
――こんなはずじゃなかった。
いい歳して喧嘩別れなんてものをしたくせに、後ろ髪を引かれるような後味の悪さも、それらしい感慨のひとつも湧いて来ない。少しの矜持が痛む以外、後にはただ途方もない徒労感ばかり。そんな、虚しい恋愛してるつもりはなかったんだけどな。
ちょっと奮発だった新品のスプリングコートを羽織って家を出た私は、何処へ行ったんだろう。車窓に映る染みひとつないパリッとしたライム色のそれすら、今は何だかヨレヨレに見えて仕方ない。
見える現実をも塗り替えて行く負の感情の威力って、怖いなぁ。
ぼんやり、まるで人ごとのように思っていたら、流れていた景色がピタと止まり、向かいのドアがプシューと開いた。
ん……?
たむろしていた若者と入れ替わりで、疲れた顔をした男性、友達風の女性二人組、そして最後にハンチングを被ったおかっぱ男性と緩いウェーブヘアの男性が乗り込んで来ると、一瞬にして車内中の意識がそちらへ向いたのが分かった。
共に金髪という派手な容姿は勿論、何かアーティストを思わせる雰囲気のふたりは、けれどそんな空気を全く意に介することなく楽しげに話している。
例に漏れず何となしにチラと振り返れば一瞬おかっぱの彼と、目が合った。が、そのままツツと下がった視線に値踏みされるようなものを感じ、窓へ向き直った私の口からは再び溜め息が漏れた。
――やっぱりヨレヨレにしか見えない私が、そこにいた。
しばらく聞こえていた関西弁とソフトな話し声がとある駅で止んで程なく、それは起きた。
彼等と同じ駅から乗車してきて向かいの角に凭れていた疲れ顔の男性が、不意に「うっ」と呻き声をあげ、手で口を覆った。
――あ。
と、思った時には悲痛なえづき音が響き、窓越しにその男性が前屈みになったのが見て取れた。ストッキングを買った店の袋、ティッシュ、飲みかけのミネラルウォーター。自分の鞄の中身に思考が及んだ時、既に私は男性の元へ駆け寄っていた。
「大丈夫ですか!?」
「うぉい、大丈夫か!?」
……ん?
ハモッた声。背中にあてがった自分と、もうひとつの手。え? と思って手の先を視線で追うと、そこには思いっきり目を見開いたおかっぱの彼の顔があった。何か、意外だなぁ。
暫し放心するも、続く第2波の予兆が如く男性の背中がびくりとし。
「わー! 待って待って! すぐだから耐えて!」
慌てて鞄の中をまさぐった私は、わたわたとストッキングの入った袋を取り出し急いで中身を抜く。はい! と男性の空いている方の手に持たせれば間一髪、第2波はしっかりと袋の中に収まってくれた。
「難儀やったなぁ、ずっと我慢しとったんやろ」
眉を寄せて男性の背をさする、おかっぱの彼。その心底労わりに満ちた声に何だか私まで安堵した。それに次いで漸く周囲に意識が及ぶも、案の定その反応たるや微妙極まりないもので。
男性と一緒に乗ってきた女性ふたり組は、あからさまに「うわぁ……」という顔をしていたし、あれほど煩かったスーツ集団は、哀れんだ視線をチラチラ向けながらも見て見ぬふり。『馬鹿でお人好しの偽善者』とでも言いた気に、露骨に欝陶しそうな視線を私やおかっぱの彼に向ける人もいた。
……まー何にせよ、もう2人いるんだし? って思うよね。
気を取り直してティッシュとミネラルウォーターを取り出した私は、おかっぱの彼に飲みかけのペットボトルを差し出した。
「すみません、これお願いしてもいいですか?」
「あー俺こっちやるから、ジブン水渡して背中さすったってや」
「え、でも……」
「ええから。そない綺麗なコートに染みなんか作ったらアカンやろ」
言いながら私の手からポケットティッシュを取った彼は、すぐさま屈んで数枚を取り出し零れた嘔吐物の処理を始める。
そうしている間にも電車は次の駅に着き、意外にも座席ふたつ分を占拠していた中年女性が「これも使って」と降り際に数個のポケットティッシュを渡してくれた。逆に新たに乗車してきた人たちは、少しの距離を空け苦い顔で横を過ぎて行く。
手渡した水を飲んで少し落ち着いたのか、男性は泣きそうな声で「本当にすみません……」としきりに繰り返している。すると粗方を処理したおかっぱの彼が、しゃがんで下を向いたまま、まるで車内中の人に向けるかのような大声で言った。
「生理現象やん、しゃーないやろー!」
あまりに唐突なそれに私が驚いていると、スッとその顔が上を向いて。
彼は両の掌を上へ向けて見せ、バツの悪そうな笑みを浮かべて男性にこう告げた。
「しゃーけど俺はこん通り手ぶらやってん、このお姉チャンにはキッチリお礼言うたってな?」
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