← (5/5) 誰かの唇に彼女を映した。誰かのものになるくらいなら先生を好きでいてくれ、そう願った過去があった。家族団欒を語るにこやかな顔、なりふり構わず未来を説く若者にも腹が煮えた。
気持ちはないと言われ心から安堵した。彼女との歴史を感じさせられて、でもやっぱり腹が煮えた。色事に疎く、ご存知などと簡単に言ってくれた彼女にもじれた。
水沢沙絵とどうなりたいかは未だわからない。好いてるのかと考えたことは、実は何度もあった。ただ実際忘れている時も多く、思い出せば漏れなくセット。ゆえに今ひとつピンと来なかったのも事実。だけど、それでもどうにかなりたい。
――そう思う俺が、確かにおんねん。
「なぁ、あの坊ちゃんが言うたこと覚えとるか」
腕をゆるめ隙間を作った平子は、ごく近い距離で彼女を覗き込んだ。しかし顔を見られるのが気恥ずかしいのか、俯いた彼女の顔は髪で影になってしまう。
耳上から梳き流すように掌を差し込めば短い悲鳴と共にすぼまった首。けれどそのままうなじに到着した平子の手は構わず上を向かせる。強引に向かい合わせになった顔と顔。その片方にある黒い瞳はあちらこちらへとせわしなく動き回っている。
「せ、選択の話、でしょうか」
「せや。それな、癪やけど俺も同じ考えやんか」
「正しいものにするも、間違いにする、も……」
緊張と羞恥と少しの怯え。必要以上に瞬かれ、小刻みに揺れ動く睫毛。
その様子をじっと上から眺めていた平子はすんでのところで高揚の波を抑え、色素の薄いその眼をすうっと細めた。実際に夢にまで見たそれはすぐそこ。だが皮肉にもきりきりと良心が痛む。ここに来て、彼女が抱いていた罪悪感と妙にシンクロする。
「そこに俺も参戦したい言うたら、アカンか?」
「えっ」
「僕であり君であり俺、ちゅうわけや」
「え、ええ!?」
「この状況でまぁだそこまで驚くか。嫌や言うなら今のうちやで」
「あの……嫌、ではない
――」
「ほな全部俺に寄越し」
ロックが解除された平子は首を傾け迷いなく口づけた。艶がなくともしっとりと冷たく、弾力のある感触。振り切れなかった背徳感を覆って溢れ出すもので胸が満たされる。
角度を変え、固まった彼女の手を握ると伝わる微かな震え。ゆっくり大切に指を絡めれば、少しだけ縋るようにそっと折り返された指先の感触。何とも言えないものが込み上げた平子は、前触れなくすっと顎を引いた。
「なぁ、俺ら随分前から知り合いやけど、随分前から何にも知らんやんか」
「そ、そう、ですね」
「言うたらぽっと出もええとこや。せやっても俺、水沢サンのこと横から掻っ攫う気満々やねんけど、ええか? 何なら次の働き口かて俺が面倒見たる」
「えっと、平子くん……」
「ん?」
めいいっぱい動揺した様子で、けれどしっかり自分の目を見てきた彼女。その唇が紡いだ言葉を聞いた平子は再び彼女をぎゅうぎゅう抱き締めた。
もう間違いを怖がる必要などない。苦味を知らずとはいかなかったが、それでも背骨に食い込むように圧し掛かっていた重石は取れたのだ。
「実は私、嬉しくて泣いてしまったんです。平子くんが生きていたと知ったその日」
――自分でもびっくりしてしまって。
これからはただ、照れ臭そうにはにかんだ彼女と、どれがより良くて何が楽しいか、そんな選択を繰り返しながら二人で正解を見つけていけばいいだけだ。
−END−
2014.5.21