← (4/5) →「多分、あの方も不安なだけだと思うんです」
とうの昔から決まった許婚がいたらしい青年にいよいよ婚礼の話が具体的になってきたはいいが、肝心の本人が相手方のお嬢さんと一向に会おうとしない。
一応の面識こそあるものの幼い頃に数回程度。最近はだいぶ社交性も出てきたが生来の人見知り気質。何かと理由を付けては度々先方との約束を反故にしているとか。
平子の脳裏に例の高貴なチビがよぎる。同時に六番隊のボンボンはいつからあの佇まいになったのかと疑問が沸いた。大した接点はなかったが当時自分にはもっと溌剌とした高貴なガキに見えた。あれでもましになったらしいが、家に揉まれ育つと皆ああなるのだろうか。
まさか二番隊副官のあれもストレスによるものか? などと一瞬考えた平子だったが、いやそれはないなとすぐに首を振った。
「そんな折、ご婚礼が終わり次第、奥様付きになるようにとのお達しがありまして」
「何や、それでご乱心か」
「侍従を変えるなら婚約を破棄する、と……」
「え! まさかあいつ、公にそれ言いよったんか!?」
「はい……しかも何の相談もなく」
「うーわ、泥沼まっただ中やんけ!」
「……平子くん。私、どこで間違ってしまったんでしょう」
ずううんとうな垂れる彼女を前にして、不謹慎ながら平子はうっかり吹き出しそうになった。さながらその姿は息子が不良になったと頭を抱える母親だ。
だがそれに近い年月、身の回りの世話をしていたことを思えば別段おかしくも何ともない。無論、青年に芽生えた感情然り。何せ、見た目にさしたる変わりはない。そんな人がずーっと甲斐甲斐しく傍にいるのだ。そら好きにもなるわという話である。
「……ん? ちょい待ち! 今日てまさか里帰りやのうて
――」
「あ、いえ違います逆です。私から暇乞いを申し出たんです」
「ええ〜……水沢サン、そらアカンわ」
「え! そ、そうでしょうか」
「ちゃあんと向き合うてあげなかわいそやろ? そらな、あれは思い違いやったわー思う日が来るかもわからん。しゃーけど気持ちは気持ちで受け止めて、きっちり女として無理ですて言うたらな」
「女と、して……」
平子の言葉を反芻するように、彼女は難しい顔でうんうん頷いている。そこに思い至らないあたり、相変わらずその類はからきしか。つまり、それは。
瞼に浮かんだ無駄なく散髪された後頭部。実際自分だって気分なんか良くない。必要以上に謙られてる感もある。あっさり出来てしまうことに、もやっとだってする。
「やっぱり平子くんは凄いです。ご存知の通り、どうも私はそういうのは苦手で」
「……っ」
そこにあったものの存在を、初めて彼女の方から示唆された気がした。押し込めひた隠して。一体どこへ向かうのかと、疑問に思うほど頑なだったのに。
喜べばいいのか落胆すればいいのか平子にはわからなかった。ただ、何かが物凄い勢いで逆流する感覚がして無性にいらいらした。
難しく眉を寄せ、うな垂れて、ゆるませて、俯いて。月下で笑った顔。自分自身に傷ついた顔。真剣な目。追い越した沢山の季節。何年も、何年も何年もの時間を目まぐるしく遡る風景は、カウントがゼロになるようにあの澄んだ微笑みでぴたりと動きを止めた。
「……出るで」
「えっ」
「おばちゃーん、お勘定ここ置いとくなー!」
「え、ちょっと、あ、の……」
取り出した代金をぱたと天板に置いた平子。唖然とする顔を見てか見ずにか、その手は今度こそ躊躇なく彼女のそれを取った。困惑から驚きへとみるみる色を変えた黒い瞳。そないに驚くこともないやろ。何も不思議ないで、何もな。
そのまま店の表に出た平子は、少し強めに引いてきた手をぱっとそこで離す。背後では小さな深呼吸の気配。次いで掛けられた彼女の声には薄っすら緊張が滲んでいた。
「あの、何か失礼なことを言ってしまったのなら謝ります」
「簡単に謝らんといてほしいな。何でかわかってへんねやろ?」
「……すみません、確かにそうですね」
裏手通りの為か、夜半が為か。人通りのない薄暗い路地をさらりと吹き抜けた風が平子の髪を肩で揺らす。
視線を落とし十数秒、遊ぶようにゆらゆらと靡く先を眺めいてた平子はふう、とひと息ついてくるりと振り返った。声に感じたのと同じ、僅かに頬を強張らせた彼女へ回し見るように焦点を合わせる。
「すまん、怒ってるわけやないねん」
「そう、なんですか……?」
「ただな、ジブンご存知の通り言うたやろ」
「はい、言いました」
「ご存知やで? 水沢沙絵サンはあのセンセが好き。今も昔も、そのいっこだけやけどな」
平子の言葉に気持ち苦い顔をした彼女は、けれど珍しくすぐに正面から平子の顔を見上げてきた。初めて見る真っ直ぐで何も読み取れないそれ。どくりと心臓が脈打ち、知らず息を呑まされる。
「平子くんは、どうして私の気持ちに気付いたんですか」
「どうしてって、そらジブンが他は目に入らんっちゅーぐらい見てたからやろ」
「平子くん以外、誰にも気付かれませんでした。仲の良い友達ですら、私は同じ学級の男の子のことが好きだと思ってたぐらいです」
彼女の言葉に心当たりがあった平子は、安易な推測をしていた級友の顔を思い出そうとした。だが、名前ごとごっそり忘れてしまっていることに気付いて瞬時にどうでもよくなる。
再会する機会でもあれば深まる何かもあるかもしれない。しかし今の平子にとっては残っているものと、新たに背負ったものこそ大事。
そして思う。果たして目の前の彼女は、そのどちらかと言えるだろうか、と。
「平子くんさえ知らなければ……自分の中だけならいくらでも偽れたんです。勘違い、気のせい、ただの憧れだったとか。なのに、平子くんはいつも……」
ふいっと斜めに視線を逸らし、喉につかえた言葉を飲む込むように口を噤んだ彼女。その腕を、平子は反射的に掴んでいた。絶対にこの場を読み間違えてはいけない。そんな、強い確信にぐっと突き動かされるように。
引かれた腕を一瞥した彼女がおずおずと平子を覗い、視線がぶつかる。途端に彼女は何か切羽詰まったような歪んだ表情になり、ばっと顔ごと背けられた。もどかしさに逸る平子の腕にじわじわと力がこもる。
「何や、俺が何や。ちゃんと言い」
「……いつも、いつも何でって顔しながら、だけど着地点のない私の気持ち、絶対に否定しないから」
「何を否定することがあんねん。告りもせんならやめ言うのは簡単やで? しゃーけどジブンそういうのとちゃうやん。センセに誇れるジブンでおりたかったんやろ?」
「久しぶりに会ったのに前回ひどい状態で……だけど生涯の師と思えば先生は先生のままだって言ってもらって凄くほっとして。せめてこれからは肯定してくれる平子くんに恥じないようにって……だけど私、もうとっくに
――」
最後まで聞いてなんていられない。そう言わんばかりに伸びた平子の腕が彼女を閉じ込める。見た目よりずっと細い肩。頬に当たるやわらかな髪。かつてない濃密さで感じる彼女の香り。ずっとこうしたかったような、したくなかったような。
辿り付いたこの距離に、平子の内で相反する二つがせめぎ合う。けれどその定まらない中にも、漸くひとつ明確になったことがあった。
「なぁ、水沢サン。ジブンは俺についてご存知なことあるか?」
「はっ……えっ、と……」
「何や、呼吸忘れてたんか? まーびっくりやろなぁ。俺にも今やーっとわかったことかてあるし」
「今わかったこと、ですか?」
「たぶん俺な、あのセンセを好きなジブンが好きやってん。水沢サンの心、想いっちゅうかな。俺はそない綺麗な惚れた方したことないし。しゃーから単純に凄い思うたし、羨ましくもあった。想うジブンも、想われるセンセもな」
「そんな、大層なものでは……」
平子は口に出したものが、すとんすとんと自分の中に収まっていくのを感じていた。同時に、腕の中で戸惑いと一緒に漏らされる吐息の温かさを感じつつ「せや、大層やない」と心で同意する。何故なら純粋にそれだけ
――ではないから。