← (3/5) →暖簾をくぐって左右にニ卓ずつ。日中は表に縁台も出しているそこはごく普通の小さな茶屋だが、夜が深まる頃合になると再びひっそりと開けられる。
当初は手土産用に立ち寄ってもらう目的で始めたようだが、今では飲み疲れた後の口直しや、〆に甘味が欲しい時など、まさに帰る前にひと息つくには最適な場所。夜も煌々と電気が点いている世界にいた平子にとっても、宵っ張りの部下にこっそり教えてもらって以来、なかなか重宝する店のひとつとなった。
「切ってしまわれたんですね、髪」
「ん……? あ、あーそか。せやねん」
座敷に腰を落ち着け、言葉通り二人分の葛湯を注文。しばらく店内を覗ってる風だった水沢沙絵だが、店員が奥へ消えると不意にまじまじ平子を見つめてきた。
彼女の惜しむような口調に前か後ろかとごっちゃになった平子は一瞬「む?」と眉をひそめたが、すぐにああと思い至り自身の襟足に触れ笑う。
その仕草に何を見たのか、苦い顔で居心地悪そうに肩をすぼめる彼女。怪訝に思う平子の顔をうろうろと黒目が覗き、あの、と小さく声が掛かる。
「何や? どないしてん」
「その……今更ですが、あの日は本当にすみませんでした」
「ははっ、そのことか。気にしてへんで、俺はな」
……そっちが思てるようなことは、な。
本音は心に続け、敢えて強調するように言ってにやにやと笑ってみせる。更に気まずげに俯き、お恥ずかしいところをお見せして、きちんとお礼も言えず終いでなどとぼそぼそ続く。行燈の灯りの中、白い目元に落ちた影が羞恥を映し出すように小さく揺れている。
なおも縮こまる姿を前に、何もなかった顔しとったらええのにと平子は呆れた。そんな風にされては、自分も言わないといけない気がしてきてしまう。やれやれやと細いため息が漏れる。
「あーと……いやこっちもごめんな? 次の日、女が乗り込んでもうたやろ」
「え、ご存知だったんですか?」
「自分で白状しよってん。ほんますまんかった」
あの晩、悪酔いした彼女を介抱して奉公先まで送ったところ、運悪く当時の恋人の友人に目撃された。妙な尾ひれでもついたのか、指一本触れなかったというのに翌日耳にした恋人は激情のままに彼女の元へ。あろうことか顔を合わせるなり平手打ちをお見舞いしたというのだから結構笑えない。
だが彼女は、誤解させて大変申し訳なかったと平謝りした上で、ただの同期であり偶然会って親切にしてもらっただけだと根気よく説いたという。
感情的になりやすい部分はあったが、事の次第を正直に告白し「ごめんなさい」と言えるいい子だった。だが平子としては珍しく、問い詰める相手が違うときつく咎めてしまった。間違える気などなかったとは言い切れない、それは自分の方なのに。
“わざわざ背を正しておめでとうございますって……頭下げられてしまったんです”
“まぁ、気持ちはわかるけどな。しゃーけどそれかて『先生』やからこそやろ”
“それは……そうでしょうけど。平子隊長ならともかく、侍従になっただけですよ私”
“俺ならともかくて何やねん。だいたい俺、水沢サンの隊長ちゃうねんから隊長呼びなやアホ”
“本当に……越えてしまったんでしょうか、私……”
てっきり想う恩師が婚約してしまった事実に打ち拉がれているのかと思った。
違うと首を振り続ける姿に「今さら強がることもないやろ」と平子が笑うと、げっそりと青白い顔ながらに妙な気迫でもって腕を掴まれ、そうではないと真剣な目が訴えてきた。
ごめんなさいと慌てて手を放した彼女にじゃあ何だと尋ねるも、形の良い唇を引き結び押し黙るのみ。いったい何なんだと辟易しかけた平子の鼓膜へ静かに届けられたのは「先生が先生でなくなってしまった」という、実に理解不能な台詞だった。
“嬉しかったんちゃうか。しゃーから正しい姿勢を取らはった。喜ぶとこやろ、認められたんやで?”
“……”
“生涯の師や思て仰いだればええやん。そしたらセンセはセンセのままや。それとも何か? 後悔しとんのか?”
“してないです。ただちょっと……”
さみしくて。
後悔はしてない。それもきっと、強がりではないのだろうと平子は思った。惚れた相手は正しい正しい先生。その先生と同じように正しくありたい彼女にはその感情自体が間違い。だから決して口にはしない。思いがけず知られてしまった平子の前でだってあからさまに肯定などしない。
たかが淡い初恋。お互いもう、いい大人じゃないか。それなのに好きな人が結婚してしまうと傷心に浸るのではなく、変わってしまった自分に傷つく彼女が平子にはひどく痛ましかった。同期の自分に対しても同様の姿勢を見せていることになど、少しも気付かない彼女が。
“先生、流魂街で養子を見つけるつもりらしいですよ”
“ほー何から何まで立派なお人やなぁ”
“平子隊長だって立派じゃないですか”
“……しゃあから、隊長ちゃう言うてるやないかい”
“ええと、じゃあ、平子くん”
“何や”
“伸びましたね、髪。すごく綺麗”
帰り道で見せた、初めて自分を視界に入れたようなうっとりとした笑み。本当はあの時、その手を取って懐に引き込みたかった。
確かな衝動を覚えながら、平子はそれを「間違ってる」と思った。いつ爆ぜるともわからない爆弾を背負った自分。取ったとして、彼女とどうなりたいのかも見えていない。だったら極力安全な場所で、先生を好きなままの彼女でいてくれる方がいい。
「飲まないんですか?」
「んっ? あ、ああ、来よったか。飲も飲も」
ふと気付けば正面の彼女が首を傾げていた。見ると、既にその手はほかほかと湯気の立つ湯飲みを包んでいる。意識半分だった平子が促すと、いただきますと軽く会釈して嬉しそうに口をつけた。
ひと口飲んで素直に顔をゆるませた姿に満足し、遅れて自らの口へも運ぶ。とろりとした温もりが体内に沁み渡り、平子の頭に今日も頑張ったなどという場違いな感想が浮かんだ途端、何故か悲痛そうに眉を下げた彼女に「しかし悲しいですね」と重々しく告げられた。
「ん? 悲しいて、何が?」
「え、何がって、例の事件が原因であの方と終わってしまったんですよね?」
「うわ。え、俺そんなん言うてたか?」
「はい、もう別の方とご結婚されてたと」
「あーと……はは、何やまだ酔うてんのかもな、俺」
知らぬ間に上手いこと言っていた自分に平子は苦笑した。自分の所為かと聞かれ違うと答えた場面は覚えている。本当は事件なんて関係ない。その前にとっくに終わっていたのだが、どうやらそのままそういう設定にしたらしい。
結婚したと聞いたのは本当だが、そもそもあの晩、踏みとどまった理由の中にその存在はなかったと気付くまで、そうはかからなかったというだけのことだ。
「ほんで、そっちはどうなん」
「どう、とは?」
「アホ、あの坊ちゃんの話に決まっとるやろが。惚れとんのか?」
「ああ、それは……」
正直、ずっと彼女に言えたらと思っていたことを易々と言いのけた青年に対し、少なからず平子は苛立ちを覚えた。オマエかて家名を背負う身ちゃうんか、と。
しかし彼女の中にその言葉で背を押される何かがあるなら、即ちあの恩師への想いは昇華できたことになる。だとしたら、よくは知らない彼女の唯一大事なものを見届けられたと思える気がした。
「ずっとお仕えしてきた大事な方ではありますが……私にそういう気持ちはないです」
ああ、アカンわ俺。思っきりほっとしてまった。