← (2/5) →視察から一週間もすれば平子の中の水沢沙絵という存在は日常に霧散していた。といって何ら不自然なことでもなく、本来それが平子の常態。
実際、数百年という時間を振り返っても八割方は忘れている。それは足場が尸魂界でも現世でも変わらない。だが完全に消えはしないし、消そうという意識もないことを自覚していた平子は、別段それをどうとも思っていなかった。
「ああ、ちょうど良かった。お疲れ様です、平子隊長」
ただひとつ嫌なのは、思い出す時は必ずこの男とセット。偶然には違いないだろうが、今一度裏打ちされるように何かしら絡みがあったりする。
おかげで初恋という言葉で平子に想起されるのは、自身のもの以上に彼女とこの男。現世で名も知らぬ子に吐露したそれは、正しくは『白と赤と先生』なのだった。
「はは、何やよう会うなーセンセ。俺に用か?」
「ええ、こちらをお届けに上がるところでした」
本日副官には別用があり、ひとり黙々と判を捺く退屈な半日を終えた平子。
何かガツンとした物でもと飯屋付近をうろついていた昼下がり、またも恩師に一礼された。諸々集約されてるにせよ、畑が違えばそうそう会うものでもないというのに。
何だかなと微妙な心地で受け取ったそれは、先日平子が見繕った有望株たちの詳細。こんな偶然でもなければ部下を介して自分の元へ届くはずだったもの。しかも、何であんたが。
「そういやセンセ、俺と同期やった水沢サンて覚えとるか?」
「ああ、懐かしいですねー水沢くん。ですがまたどうして? あまり親しくされていた印象はないですが」
「いや、ふっと思い出してな。どうしとるんかなー思て」
「そうですねえ……随分前、ご子息の正式な侍従になったとは人伝に聞きましたが。お元気にされてるといいですね」
……人伝、ねぇ。
何やセンセ、あんた意外と嘘つきサンやねんな。にこやかに言いのける恩師に「せやな」と返しつつ、ひっそり内心でほくそえむ平子。
ほんの気紛れでセットの片割れについて振ってみたら思い掛けないものを引き出せた。理由はわからない。或いはそれも、この堅実を絵に書いたような男が下した適切で尤もな判断なのかもしれない。だとしてもそれは、自分の知る事実とは食い違う。
だから平子は好き勝手に想像する。もしかしたらこのオッサンにも、誰にも暴かれずに押し込めた葛藤やら感情があったのかもしれない。
そうだったらいい。それならあの夜、ろくに飲めもしない酒をさみしく煽っていた彼女は勿論、その手を引いてやれなかった自分の心残りも、ちょっとは薄まる。
その夜、律儀な友人から借りを返すとの誘いを受けた平子は苦楽を共にした二人と飲んでいた。復隊してからはそれぞれ隊の再構築やら何やらに追われ、こうして三人集まるのは久しぶりのこと。
だが実際顔をつき合わせてしまえば、衣服の形状が変わったところで流れる空気に変わりはない。
「あーちくしょう、ビール飲みてえなー!」
「ほんまやで。こう、きゅーっと冷えたやつをごっきゅごっきゅいきたいわぁ」
「はぁ……僕はワインも恋しいよ」
強いて言えば、図らずも覚えてしまった素敵なものたちの欠落をめいめい嘆いてみたり。完全に入手不可ではないものの、もはやちょっとコンビニという手軽さはない。だが、それとて共感してくれる相手がいてこそだ。
この会合、現世でこっそり月いちの恒例行事にしないか。そんな話で盛り上がってみれば馴染みの店主はしょんぼり顔。
「おっちゃんお替わりー!」と慌てて取り成すも、あれ欲しいこれ欲しい話は思った以上に尽きず、耳慣れない言葉が飛び交う彼等の卓はひたすら不可解そうな視線を集めていた。
「あーそういや俺カーテンも欲しいわ」
「よく言うぜ真子、お前しょっちゅう電気点けっぱで落ちてたじゃねえか」
「オマエわかってへんなー拳西。あるっちゅう事実が大事やねんて」
「でも、確かに今は休日でも明るくなれば起きちゃうよね」
ゆるい足取りで帰路についても、三人は変わらぬ調子で好きに会話を垂れ流していた。夜風を顔に当てるべく月を仰いだ平子は、月いち会合大賛成やと改めて思う。
何より気楽。これまで当たり前すぎたそのことのありがたみを、今になってしみじみ感じる。出戻りとて楽ではない。なまじ昔を知っているだけにやりにくいことだってあるのだ。
「
――お?」
ふと、磨き上げられた平子の感覚が覚えのある霊圧を捉えた。
場所はこの先の角を折れた辺り。知り合いかと尋ねる友人の声を置き去りに、無意識に足が早まる。聞こえてきた細い声。間違いない。
「……困ります」
今なら、どうやろか。ぼんやりとした期待に何かが応えたかのように、水沢沙絵との三度目の再会は呆気なく訪れた。内一回は遠目に見掛けただけなので、カウントに値するかは微妙だが。
昼間の件で僅かに気持ちが軽くなった平子としては陽気に声でも掛けたいところだったが、暗がりの中、壁を背にする彼女の霊圧は困惑に揺れひどく頼りない。
「
――様も分かっておいでのはずです……どうか、間違われないで下さい」
出された名前に驚いた平子は角から少しだけ顔を覗かせた。が、薄っすら目に入った長身はあまりに想像と違い、すぐに引っ込めた頭で再度記憶の海を探る。何やあいつ、あない壁ドン出来るほどおっきなったんか。
意を決して二度見するも、やはり彼女は自分を覆うように腕をつく青年を様付けで呼び、お願いですと繰り返している。
不意に遠い日の銀色を思い出した平子は、それもそうかと納得した。憂いめいたものがちくりと胸を焼く。しかし今はそんなものに浸ってる場合ではない。
後からのんびり来ていた友人の元へ戻り、少しばかり調子を合わせてくれと告げる。何事かと首を捻るも頷いた二人を認め、平子はすっとその口を開いた。
「せや。あとアレな、隊長印。あれもなぁーシャチハタにしたいわー」
「まーねえ、でも流石にあれはしょうがないんじゃない?」
「あれこそ真子の言う事実が大事ってやつだろ。銀行印然りだ」
「そらわかっとる、わかっとるけどもや。朱肉、紙、朱肉、紙て俺の手どんだけ反復横跳びせなアカンねん! 思うやんか」
ふざけた中に散りばめた立場を知らしめる言葉。自分の訛りに上乗せするように友人が出してくれた名。目当ての霊圧がぴくと反応した様子からしても、既に平子の存在は充分伝わっているはずだ。
三人はそのまま他愛のない会話を続け、左の暗がりに目を向けることなく直進。ひとつ先の角まで来ると「悪いけど今夜はここで」と平子が囁く。
心得てるとばかりに顔を見合わせた二人は、詳細はビールと一緒に聞かせてもらうと笑顔で言い残しその場を後にした。
「引き止めてすまなかった。今日のところは帰るから、君はこのまま実家へ行くといい」
「……わかりました」
「けれど沙絵、間違いか否かは選択した先をどうするかで決まると僕は思う。何を選ぶにせよ、それを正しいものにするも間違いにするも、僕であり君だ」
気配を消して戻った手前の角。腕を組み壁に寄り掛かっていた平子はチッと舌打ちを漏らしながらも、立派になったもんやと素直に感心した。
不安げな目をした高貴なチビ。それが平子の第一印象だった。半歩後ろに付いている彼女を幾度も振り返る様はほとんど姉弟のそれ。上品な着物と死覇装。それだけが二人の間柄を決定付けていた。
「センセの次は坊ちゃんと駆け落ちか?」
「わ!? まだいたんですか平子た……くん」
青年が立ち去った気配がして程なく、彼女がこちらへ姿を現した。
すかさずからかい混じりに声を掛ければ、びくりと跳ね上がった細い肩。だが出かかった敬称に平子の片眉は目ざとく上がる。
はっと閉じられた口。次いで控えめに開かれたそこから馴染みの音がぽつと足された。
「里帰りか? 時間あるなら一杯付き合わんか」
「あ、時間は大丈夫なんですけど、ごめんなさい私いまだに
――」
「あー酒やない葛湯や。呑んだ後もってこいの茶屋があんねん」
平子の盗み聞きを咎めるでもなく、ほっと顔を綻ばせお供しますと応えた彼女。
見た目に大きな変化はないが、顔つきに上品な大人の色が滲んでいる。今なら少し艶を乗せてもいい。そう思う唇は、相変わらず綺麗な形をしていた。