正しさの中で
“白いワンピースに麦藁帽子、場所は海や高原、ひまわり畑でも可みたいな?”
“ふはっ、ベッタベタやなぁ。しゃーけど俺の場合は……白に赤、かもわからんわ”
障子紙を透かすように射し込んでくる陽光。やわらかなそれにすらまだ慣れない平子は、薄っすら横目で見つつカーテン欲しなるなと内心で苦笑した。
降り注ぐ明を遮るよう額を腕で覆い、直前までの夢の輪郭を淡い意識で辿る。
「……何チャン、やったんやろ」
現世でひと晩、戯れに楽しんだだけ。何年ぐらい前だったかも定かでない。顔もおぼろげ。ただ、やけに綺麗な形の唇をしていた。
そこにみずみずしすぎるほどに塗りたくられたリップグロスが勿体ない。どうにか剥がしてやりたい。密かな衝動からもつれ込んだ夜、手ぬるい快楽を共有した彼女に振られたのは、初恋のイメージなどというその場にひどく不釣り合いなどうでもいい話だった。
“白に赤って何?”
“あー、袴やねん”
“へえ! 弓道部の女の子とか?”
恐らく名前など聞いてすらない。だが今となっては聞いておけば良かったかと平子は思う。馬鹿正直な自分の返し。そんなものに素直に瞳を輝かせ好奇心を露にした彼女は、実は結構いい子だったのかもしれない。
ええ子やったら、尚更アカンか。
瞼を持ち上げれば視界に広がる木目の天井。整然としたそれに小さく笑い、のそのそと起き上がって帯を引く。
ぱさり。寝間着を布団に落とした平子は、脇に用意された白に青でも、まして白に赤でもない真っ黒なそれを手に取った。途端に遠くの廊下先に現れた優しげな霊圧。
「はぁ……しゃーけど生真面目すぎもアカンねんて」
今日はどないして休憩さしたろか。そんな事を頭に巡らせながら、今日も平子は群集の上に立つ為の白に躊躇いなく腕を通す。
きっと、これが正しいのだと。再び掴んだ五の字は、その猫背に以前とは違った心地良い重みを与えていた。
先見の明がある、と言ったら聞こえはいいだろう。若い時分の付き合いには物足りなくとも伴侶には間違いない。
不器用で一本気で、融通が利かなくて。冴えない老け顔だが、常に一心に目の前の相手と向き合う。文句ない職に就き、信念を持ってやり通す。無論、不貞などというものとは生涯無縁。
「お久しぶりでございます、平子隊長」
「おー久しぶりやなぁ、元気しとったか?」
脇目も振らずそこへ焦点を当てたとして、確かな未来でもあればまだ――
目の前で深々と頭を垂れた男を見下ろすと、夢の続きにも似た残像が平子の中で水紋のようにゆらめく。曖昧なまま眠らせていた面影を感じつついつもの軽い調子で尋ねれば、晴れやかな笑顔が幸福な今を口にする。
「ええ、おかげ様で。実は養子を迎えまして、今は家族三人仲良くやっております」
「お、まじか。ほんまセンセは有言実行のお人やなぁ」
疑問の為に持ち上がったと見える男の眉には、気付かないふりをした。
思いがけず代理を買わされた学び舎の視察。斜め後ろにちょんと控えている副官――雛森桃にはまだ早くはなかったか。
そこへの気掛かりもさることながら、当然のような顔で自分を出迎えた恩師に平子の胸は滔々と波立つ。拳西のアホンダラ。副官に修行をつけるとの理由でこの役を押し付けた友人に向け、苦々しい悪態を心に溢れさす。
“目を瞑るな! やる時は勿論、やられる時でもしっかりと目を開けて全てを見届けろ!”
向かう先に待つ大宇奈原のような、いかつい風体の暑苦しいオッサンではない。だが平子を含む大半の生徒には些細な怠慢にも厳しい、くそ真面目が袴着て歩いてるような面倒な教員でしかなかった。現世にいた女教師とは、それこそ真逆。
重たい言葉も、熱心な教育姿勢もただただ煩わしかった。誰も何も教えてはくれない場所に立つ自分の姿など、ひと欠片も思い描くことなく。
実はいい先生だった。そう思える為に必要だったのは他ならぬ自らの成長だった。
“水沢ってさ、いっつもお前のこと見てるよな”
“え、水沢? でも俺、一度も話したことないぞ?”
典型口調で囁き合う級友を目にする度、平子は密かに呆れ返っていた。アホか、オマエの目は節穴や。あの子が見とんのはオマエの斜め上の教壇立っとる男ただひとり。話したことないのかてそいつしか見えてへんからや、と。
なぜ分からないと不思議に思ったものだが、直接本人から聞いたわけでもないので口にはしなかった。
組み手や鬼道は十人並の座学向き。どちらかといえば地味で、女友達と話す姿しか見たことがない。平子自身、卒業の日までまともに目を合わせたことすらなかったように思う。
“ええんか、何も言わんままで”
“えっ!”
当時の平子に、水沢沙絵に対する異性としての興味はさしてなかった。ごく単純に「何であいつ?」という点が気に掛かったのだ。
彼女が見つめていた相手は今も昔もいけてないオッサン。同じ憧れを抱くでも、他にもっといるだろう。十人に聞いたら十人ともそう答えるに決まってる。そう言い切れるぐらい平子にはありえない選択だった。
“もう今日で、センセと教え子やなくなんで?”
最後まで入隊後の教訓めいた言葉を掛ける恩師に「先生は早く縁談相手を見つけないとね」などと揶揄して群がる生徒たち。ひとり遠巻きに眺めていた彼女。
隣に並んだ平子のことを、彼女は雷にでも打たれたように瞳孔を開きゆっくりと見上げた。どうしてそれを。信じられない、といった具合で。
“……平子くんって、やっぱり凄いんだね”
暴いた秘密は、俯き独り言のように漏らした彼女の真実。その姿に確信を得た平子は、自分の読みに狂いがなかったことによるささやかな達成感でにやにやと口元が緩んだ。だが彼女は少しの間を置いてぱっと顔上げると、やたら自然な笑顔を携え聞いてきた。
“ね、平子くんは所属する隊もう決まってるの?”
“んあ? まぁ、ほぼほぼな。ジブンは?”
“あ、ううん。私は護廷十三隊には入らないの”
ならどうするのかと思えば、あの四十六室にも口聞き出来るような結構な貴族の家に仕えることになっているという。
それまた立派なと言うところだが、反面その内情は次期当主が年端もゆかぬ幼子で、諸々ややこしいことになっていると専らの噂。平子にしてみても、ようそんなとこ行きよるなというのが率直な感想だった。
だが聞けば、どうも育ての親がそこに出入りする飾り職で恩義があるらしく、彼女がその家に上がる話は端から決まっていたことのようだ。
“色々大変なんやなぁ。ほんでセンセへの想いは封印、か?”
“……ふふっ”
気持ち肌寒い風にさらわれる髪を右耳に掛け、こそっと笑いを漏らしたあの子は口の両端を綺麗に持ち上げ自分に言った。平子くん、先生は先生だよ、と。
恋心を漂わせた澄んだ微笑み。あの時の彼女には多分、何の事とうそぶくほど簡単ではなく、そうだと肯定するには後ろめたすぎる気持ちだったのだろう。
のろのろと廊下を進む平子の左、窓の外のひときわ背の高い夏椿が目に入った。景色の中に溶け出す意識。品良く、でも艶のない唇が鮮明になる。
先生を先生のまま好きになった彼女は、今もまだ自身の持つ正しさに縛られてるのだろうか。少なくとも百数年前、込み入ったものを抱えすぎていた自分にそれを突き崩すことは出来なかった。
「隊長……?」
知らぬ間にぴたと足を止めていた平子を、怪訝そうな声が後ろから呼ぶ。
抱えると決めたものを制御できていたら、こんな風に感傷を抱くことも多分なかった。百年という仲間の時間。おずおずと自分を覗うこの子が、深く痛ましい傷を負うことだって。
「正しいって何なんやろなぁ、桃」
そよぐ風に、時機に咲く花と同色の羽織がほんの少し翻る。さわさわと足元をくすぐる裾に目を落とした平子は、わからん方が楽やのになと薄く笑った。
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