平子隊長
くしゅん。ふるりと寒気がした拍子にくしゃみひとつ。手元の半紙を見れば、それは見事なみみず文字が完成していた。あーあと嘆息を零し、その1枚をぴ、と束から引き抜きくしゃっと丸める。
確かに今朝は、ここ数日の初夏の陽気が嘘みたいに空気がひんやりしていた。覚悟はしていたけれど、窓もなく薄暗いここは更に肌寒い。
傍に積まれている箱に紙と小筆を置いた私は、首や肩を回しつつ、来る時に見上げた低い曇り空を思い出す。次いで大よそ買い足さなきゃいけない物たちが頭に浮かび、せめて雨が降りませんようにと願った。
「お? 何やジブンが今の倉庫番か?」
「……っ!」
がらり。背後でした控え目な戸音。条件反射のように何げなく振り返った私の目に飛び込んで来たのは、未だ見慣れぬ奇抜な風情と白羽織の組み合わせ。
全くもって想定外なお方の登場に息を呑みつつ、慌ててがばっと頭を下げた。
「お、おはようござぃっます!」
……裏返った。
しかも、こんな静まり返った場所で誤魔化しようもないほどきっちりしっかり裏返ってしまった。もはやガチガチに緊張してますと言ったも同然。
あんまりすぎる自分に更なる動揺が駆け巡り、床に向けたままの目の焦点すら定まらない。そんな私へ、愉快そうな笑い声と共に特有の調子で声が掛けられる。
「ははっ、おはようサン。頼むからそないに構えんといてや。まー初のマンツーやし? わからんでもないけども」
ほれ顔上げとの仰せが下り、すみませんと囁くように言ってそろそろと上体を戻した。『まんつう』とはと片隅で思いつつ、依然として目は泳ぎまくっている。
けれどわからないでもないと歩み寄って下さる姿勢には少しばかりほっとした。
何を隠そう、私がこれまで隊長と名のつく人とまともに言葉を交わしたのはただの一度しかない。それも十数年前、ほんの一言二言。
だが一介の平隊士、且つ新参寄りな自分にとってそれはごく当然のこと。雲の上、といって真っ先に浮かぶのは山本総隊長をおいて他にいらっしゃらないが、それに準ずる隊長格の皆々様とて間違っても軽々しく口を聞けるお相手ではない。
もっと言えば、実際は物理的にも雲の上と呼べる面々もいらっしゃるそうだが、そんなとんでもない方々が存在すること自体、去年までの私は微塵も知らなかった。
「せや。墨欲しいねんけど、まだあっこの引き出しのままか?」
「あっ、すぐ出します!」
「あーええて。そんぐらい自分でやりますー」
“正直まだちょっと、やりにくいんだよなぁ”
ばっと動こうとしたところを制され、目的の棚へのっそり足を向ける平子隊長。そんな姿に、苦笑ながらに漏らしていた上司の顔が脳裏によぎる。
正直言ってその時の私には席官水準の悩みと位置付けた、云うなれば人事で。難しいものなんだな、なんてぼんやり思っていた。だけど恐らくそれはこういう困惑だ。それを今、私は身をもって体験している。
同時に、同じ出戻りの隊長を迎えた中でも三番隊はまた違うかもしれないなと思う。他隊についてそこまで詳しい訳ではないけれど、同期の友人の話からするに基本的に隊の気風というものは隊長によって変わるもののようだから。
つまり今私のいる五番隊はほぼ前任者の人選。勿論それなりに色々な方がいるけれど、全体としては気性穏やかで真面目な人が多い。都合が良かったんだろうな、と今は思う。
加えて、長く五番隊員を務めている人とそうでない人の間には決定的な温度差があり、その辺りの事情も少し影響していると思う。それは、この平子隊長が復隊された日に「よくぞご無事で」と涙ぐんでいた人たちと、ゆるゆるっとしたこの方の挨拶に動揺した人たちとの違いとも言える。無論、私は後者側。
「なぁ、何ややたら墨の在庫多ないか?」
少し離れた位置に控えていた私は、平子隊長の声で我に返り慌てて墨が保管されている棚まで駆け寄った。そしてすみませんとひと言断って、目当ての引き出しを更に少し手前に引き、縁にある目印の線を指さす。
「あの、墨は常にここまであるようにって――」
「ほお、誰にや」
「っ!」
言い終わる前に冷え冷えとした、低く鋭い声が私を突き刺した。瞬時に言われた意味を理解してはっと息を呑むも、その凄まじい迫力に戦慄するあまり何の言葉も出ない。す、と斜めに見上げるようにこちらに向けられた無感情な薄い瞳。
どうしよう。私ってば何て、何て失礼な事を――
「ふ、ビビりすぎやて。別にジブンを責めてるわけやないで」
「……も、申し訳ありません!」
「しゃあから、責めてへん言うてるやないかい。こないにあってもぼちぼちカビ生えてまうでー言うてるだけやて」
ぎゅっと瞑目し頭を下げたまま、嘘だ、と思う。いや、嘘じゃないのかもしれないが、少なくとも私の意識がまるで及んでいなかったのは紛れもない事実。
ただ何となくで習慣付けてしまっていた己の不甲斐なさと恥ずかしさで、心臓あたりがきりきりする。必要ない。もう、こんな量は。そんなことに数ヶ月経っても気付かなかったなんて。
「ほれ、ええから頭上げ。それよかちょい帳面見してみ」
頭をぽんぽんされた感触。びくっとしてあたふたと先の箱に向かった私は、そこに置きっ放しだったそれを取り両手で差し出す。そんな私の様子がおかしかったのか、賞状でも貰うみたいやなと笑って受け取った平子隊長は、けれどすぐさま感嘆の声をあげた。
「はー! むっちゃ綺麗やん。あれか、ジブンもあいつの講義出てたクチか」
「はい……その、以前までまっすぐ書けなかったもので」
「ハハ、ほんまや。後ろの方はえらい右に寄っとるな。あれやろ、姿勢やろ」
「は、はい、それが原因でした」
ぺらぺらと遡っていきながら平子隊長はごく楽しそうに笑っている。だが片や私は、この話はありなんだろうかと内心どきどきだ。
今やその書道の講義はない。故にそう多くの墨も必要ない。全ては同じ人物に通ずる話であり、それはこの方にとって禁忌に値することではないんだろうか。けれどそんな不安を抱く私をよそに、平子隊長は飄々と聞いてくるのだった。
「ええ隊長やったか? あの一件まで」
「……五番隊にとっては、恐らく」
「何や含んだ言い方やなぁ。ジブンにとってはどうやってん」
――私に、とって。
答えに困る質問だった。入隊してまだ十数年。異動経験もなく、所属は五番隊ただひとつ。何かの才に秀でている訳でもなく、主な仕事は倉庫の備品管理や買出しの他、先輩同伴の夜間の見回り、中庭の掃除など雑用全般。
“実は私は書道教室を受け持っていてね。この量は切らさないようにしてくれるかな”
すれ違いざまに挨拶をすれば、返しては頂いた。温和な雰囲気でいて威厳もあり、副隊長を筆頭に皆に敬愛されていた。けれど恐らくあの人は、名前は勿論、倉庫番として言付けた相手と、超満員の教室の最後尾にいた相手、まっすぐ書けるようになった帳面も当然、最後まで合致していなかっただろう。
「……あの、正直に申し上げてもよろしいでしょうか」
「おーええで、言うてみい」
「自分のいる五番隊の隊長だとはもちろん思ってました。でも、自分の隊長と認識できたことはないです。すみません屁理屈かもしれませんが、私の中でそこは少し、乖離しているというか……」
「なーるほどなぁ」
何やら思案顔の平子隊長は、顎をさすりながら再び帳面に目を落とす。やっぱりこんなこと言うべきじゃなかったかな。すぐそこに見える白い羽織を目に留め、そんな思いがほんの少し頭をもたげる。私が口にしたことは、現状そのまま目の前の方にも当てはまってしまうかもしれない。
「まーそれもわからんでもないわ。何やジブン、現世のOLサンっぽいな」
おーえるさん……?
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