← (2/2) →「沙絵」
どくん、と心臓が跳ねた。己の不甲斐なさにぶれていた焦点も、息苦しくつかえていた喉も、締め付けられていた胸も。体の中心にすっと一本の線が通ったように、手前勝手に抱えていた呪縛めいた苦悶の全てから、一気に解放された感覚がする。
唐突に訪れた妙な清々しさに呆けつつ、じっと向けられた瞳に目を合わせてみる。
「……何だか、久しぶりに自分の名を呼ばれた気がします」
「アホか、みーんな沙絵沙絵呼んどるやないかい」
「いやあの、そういうことではなくて」
「オマエな、俺が何べん『沙絵ならいないヨ』言われた思てんねん」
半分ほど降ろされた瞼、なじるような視線。再び剣呑さを帯び始めた雰囲気にたじろぎながら「すみません」と小さく零すと、やってられんわと言いたげに溜め息を吐いた平子隊長が片膝に頬杖をつく。
恐る恐る顔色を覗いつつ、確かに失礼極まりない逃げ方だが涅隊長に無謀なお願いをしたのは片手程度の回数のような、と瑣末なことへ頭が向く。
「しゃーけど、ま、そん中で色々と確認できたんも事実や。よっぽど権力行使で呼びつけたろかとも思うたけど」
「確認……?」
「えらいもんでな、何やわからんくなってもうててん」
何が言いたいのかさっぱりわからない。思わず首を傾げれば、図らずもまた例の斜線と目線が平行になる。その前髪は、現世の流行か何かだろうか?
などと思っていたら、ちょいちょいと手招きをされた。至近距離で直視できるか少し躊躇われたが、はよ、と急かされおずおず草履を進める。枯れ木までもう二、三歩という辺りで彼の懐からすっと緑色が取り出され、私は目を見張ることになった。
「残ってたんですか? 私物」
「アホ、残ってたんやない。持っててんや」
思いもよらない驚きで、ただただ立ち尽くす。次いで彼は、「ここに入れといてん」と自らの脇あきをぽんぽんと叩いてみせる。つまり、その古いつげ櫛は
――この百年も平子隊長の元に?
「オマエが何年も勿体つけてくれたおかげで、しばらく残滓があったで、それ」
「え!」
「まーお守りみたぁなモンや。オマエが近くにおると何や張りが出るいうか、シャンとなれるもんでな」
「でも、守れては……」
「生きとるで? 俺」
混乱である。
まず、櫛に自分の霊圧が残ってたなんて。何だか気持ち悪いものを渡してしまったかもしれないと青ざめた。そこへ、お守りにしていたとの衝撃。しかし実際に彼等を救ったのは浦原隊長で、だけど彼自身の口から「自分は生きている」と聞けたことに胸がいっぱいで、いっぱいで、何かもう。
「ちゅーても現世行った時には既にただの櫛なってたけど……ってコラ、まだ泣くんは早いわ。続きがあんねんて」
慌てて口を引き結び、ぐっと目を見開く。返事の代わりに霞みかけた目の前の人に浅く頷けば、かすかな忍び笑いの後「おし、ええ子や」などと言って苦笑いを誘ってきた。調子を取られて崩されて。掌の上で転がされるとは、こういうことなのかもしれない。
「現世暮らしに慣れんのもそら大変やったけど、慣れたら慣れたで今度は無駄に時間がありすぎてな。何やこれまで俺が正解や思うてたことは、俺んとっての正解に過ぎひんかったんかもな、やら思えてきたやんか」
平子隊長曰く、最初はやっと私がサマになってきたという時に消えてしまったことに加え、幼馴染みの私を藍染惣右介がどう扱うかが気がかりだったらしい。
けれど徐々に、そもそも私はどうしたかったのか、単に自分の足並みに私を縛りつけておきたかっただけかもしれない、そう思い始めたという。
ものすごく耳の痛い話だった。
無論、彼の思い過ごし。だが何がそう思わせたかといえば、私にそれらしい志が欠落していた事実に他ならない。私にとって死神になるという選択は『手段』だった。
子供ながらに大よその目指す方向があった彼に対し、私には自分で生きる道と、自分を活かして生きる道の二択。
戦利品を競い合う相手がいなくなってはつまらない。ひとりでご飯を食べるのは淋しい。なら今度は霊術院とやらをどっちが早く卒業するかで勝負しよう。そこで私は、彼に大きく水をあけられた。
そして、手段は義務になった。理想というものがなかった所為か、死神の理念や持つべき志はするする吸収できた。試験の解も迷わない。仲間も出来た。それなりに楽しい、それなりに。でも、自分の思いややりがいとは一向に上手く重ならない。
「オマエにピタてはまりよる場所を、俺が作ったりたいなんか思いながら、ほんまはオマエに見られてる思うと俺が頑張れるだけやってん。……アホやんな」
はっ、と自嘲気味に笑う平子隊長。いったい全体、何を言ってるんだこの人は。そんな淋しげな微笑みなんて似合わない。いつもみたいに不敵に笑って「よそ見したらアカンで」とひとこと言えばいい。
「死んだ思われて、オマエの思うまま、好きにやれとんのやったらそっちのがええかもな、とも思うたんやで?」
「……違います」
「しゃーけど戻ったら五席なっとるし、京楽サンなんかからも沙絵はえらい頑張っとったいうんを聞いて、ああ正解やってんなーてホッとしたわ」
「違います!」
何だろう、ものすごく脳が煮えている。私は生きている事実を知っていた。だが彼はそれを知らなかったのだ。そのうえ自分は彼を避けていた。哀しいがそう思われても何ら不思議ではない、不思議ではない経緯がそこにある。なのに何故、こうも憤る?
内に湧き上がったものに困惑し額に手をやった私。対する彼は腕を組み、ひどく涼しげな表情で探るように見上げてくる。あまりの温度差にまさかと思い「今のも、本音じゃないとか?」と尋ねたら語尾が少し震えてしまった。すると目を合わせたままの彼が、いや? と言って立ち上がる。見下ろす側から、見上げる側へ逆転。
「本音やで。全部は言うてへんけどな。しゃーけどその前に、何が違うんか聞かしてくれへんか」
「全然違う。何も、何も変われてなんかない。正解なんて、真子がいないならどこにもっ」
「……久々に名前を呼ばれた気ぃしますわ」
「っ!」
反射的に右手を上げ、口元を覆っていた。
自分で自分が信じられない。あの春の日に口走って以降、次こそは追いついた時。どれだけタメ口になろうと、それだけは絶対口にすまいと決めていたのに。
もうだめだ。何て簡単なんだろう。こんなだから、彼にばかり重荷を背負わせる。
「すまんな、仕向けさして貰たわ。今日俺誕生日やし」
「……」
「ちゅーか何でまた泣きそうやねん。まだ早い言うたやろ?」
「……変われないんです、どうしても」
「ほーか? 変わったやろ。五席まで昇進、霊圧操作も上手なった。藍染らに気ぃ付かれんと調達屋も兼業。うちとこの隊士に告られても、市丸の入れ知恵使て上手いことかわしよる技まで覚えよった。立派なもんや」
本日二回目、今度は目をつむって額に手をやった。
というか、さすがに驚き疲れた。よもや『色々と確認できたこと』の中に、そんな情報まで混在していたとは。
市丸さんの名の登場もあって、忙しかった心中の何もかもが急激にしぼんでいく。全ては避けていた私への仕返しなのかもしれないとほんのり思いつつ、もはや好きにしてくれ状態。
「しっかし知らんかったわあ、オマエ三番隊に彼氏いてんねやてなあ〜?」
「ボクとこの隊士の彼女に手ぇ出す阿呆は許さへん、いう感じで上から睨みきかしといたるから、と……」
「ボクとこの・隊士の・彼女てややこしわアホ! オマエそれ、かんっぜんに市丸の暇潰しにつき合わされただけやないかい」
“あの人を忘れられん言うよりはええんちゃう?”
私自身、今となってはよくわからない。今さら平子隊長絡みで噂になったりするのは私の為にならない、と好意的にとって良いものかどうか。
ただ今思えば、失意の底からなかなか這い上がれずにいる私を愉しんでる節もあったような気がする。何も知らんで、と心の内では冷笑していたかもしれない。
「まー俺かて女には困ってへんしー」
「そう、ですか」
「嘘に決まっとるやろがボケ」
「嘘でも本当でもいいです……生きてさえいてくれれば、それで」
「……そんなん言いなや、沙絵」
ばさりと羽織の翻る音。抱きすくめられた腕の中は温かく、穏やかな心音がする。
すみませんもう泣いていいですか。口早にささやくと、ええ加減に俺をちゃんと帰らしてくれと吐息混じりにせがまれた
――誕生日やねんぞ? と。
「……おかえり」
「シンジ」
「おかえり真子」
「ただいま沙絵」
ええ子にしてたな、大好きや。
目に映る髪、にかりと光る歯、百年ぶん頼むでと渡された櫛。白と金と若草色。
ここに光を取り戻し、くすくす笑い合ったその時、私の世界は再び回り出した。
−END−
2013.5.11