エバーアフター
左上がりに走っている直線と目線を平行させるように、無意識に私は右に首を傾げていた。……不思議だな。放心のままに、どこか別の部分でぼんやり思う。目前の斜線もさることながら、私には今の自分の心境が不可解でならなかった。
――あれほど見たくなかったのに。
「何やねん、ジロジロ見よってからに。何や言うことないんかい」
「……お誕生日おめでとうございます」
「おーおおきになーって、ちゃうわボケ! いや違うこともないけど、もっとこう、他に言うことあるやろが! 大体どういうことやねんこれは」
「ま、まぁまぁ、平子サン。これには色々とその、訳がありましてぇ……」
よくない空気を感じて割って入って下さった方をよそに、私の瞳は吊り上ってぴくぴくと痙攣しているものに釘付けになる。その眉は、こんな風に彼の表情を象ってたんだっけ。頭の奥にしまい込んでいた記憶を手繰りよせつつ、私は半歩前の黒い外套姿の人に向け「隊長」と声をかけた。
「これ、今日の分です。色々すみません……ちゃんと、自分で話します」
「……そっスか」
振り返った『隊長』は少しばかり心配気な顔でこちらを覗っていたものの、思い直したようにうんうんと頷くと、にっこり優しく微笑んで下さった。
そうして差し出した私の手から一式を受け取り、「あ、そーそ、ひよ里サンからの伝言なんスけど〜」と彼の方へと首を向ける。
「『適当に切り上げてとっととプレゼント取りにき』とのことっス。他の皆サンもうちでお待ちしてますんで。それじゃ、アタシはこれで」
「お、おい、ちょお待たんかい喜助」
さらりと言い置いて、そそくさと穿界門の向こうへ消えてしまった浦原隊長。
西流魂街果てにある森の中。こうして私は、百年以上ぶりに『平子隊長』とサシで対面することとなった。
たく、何やねん。気持ち面倒くさそうにため息を吐いた平子隊長は、しかし再びギロリと鋭い眼差しで私を見据えてきた。そんなきつい態度すら本当の本当は、今ここにあるだけで例えようもなく貴いことなのだけど。
あるべき場所に、あるべき人が戻った。
もう二度とないことだと、この目に映せない姿と、そう思っていた。彼等を知る多くの人には勿論、私にとっても確かにそれはこれ以上ない奇跡のようなことだった。
けれど一方で、手放しで喜べない自分がいたのも事実。
「避けていて、申し訳ありませんでした」
「せやんなぁ〜? ど〜考えても避けてたやんな〜?」
「はい。思いっきり」
「思っきりとか要らんわアホ」
聞こえよがしな舌打ちと共に顔を背けた平子隊長と私の間を、さらさらと清涼な風が通り抜けて行く。今一度その白い羽織に目を向けてみるとやっぱりまだ少し、心の中がもつれるのを感じる。でも不思議と、これまで逃げ回っていたほどの拒絶心は湧いてこない。
瀞霊廷の外だからかなと周囲に目を移しかけたところ、爽やかな風間を縫って空虚な笑い声が届けられた。ともすれば聞き逃しかねなかった、はは、という小さなそれ。意図せず二度見する形から、今度は私が彼の視線を捕まえる番となる。
「許したってやー言うても、もう手遅れか?」
「……え?」
「悪かった思うてんねやで。オマエんこと偉そに引きずり出すだけ出しといて、このザマやしなぁ」
こってり怒られるとばかり思っていた私の頭は、何を言われてるのか理解するまで些か時間を要した。そうしている間に平子隊長は、傍らに横たわっていた枯れ木に腰掛け、どこか茫洋とした表情で頭上を仰ぎ出す。
集落からも距離のあるこの辺りは、幾重にも重なった枝葉に覆われ日中の今も静かで薄暗い。光らしい光といえば、追い求め続けた目の前の金色だけ。前後不覚の真っ暗な大海原に放り出されたようなあの日から、幾度も思い描き、時に消し去ろうと努めた私には何より特別な光。
けれどそんな浮き沈みも、私はひと足先に終えさせて貰っていた――ここで。
「許すも許さないも……昨年までの私は、『追放者』の調達員でした」
「なっ……まさか、オマエ……」
「知ってました。現世で生きている、ということだけですが」
今日この日まで私には五度、衝撃があった。一度目は彼がいなくなった日。二度目はこの森で『元隊長』に遭遇した日。三度目は真実が露見した日で、四度目は猿柿副隊長重体の知らせを受けた日。そして最後に、彼が隊長として復隊した日。
とはいえ、やはり一度目ほど凄絶なものはなかった。何より信じられない。死は遠いものなどと思い違えていたつもりは毛頭ないけれど、最も身近な存在の喪失、それも虚として処分されるなど、どうあっても私の中では現実になりようがなかった。
同時に、腑に落ちないことだらけでもあった。彼らを被験体にした隊長とその逃亡を幇助したという元隊長。何を知ってると問われたら、何も知らないのかもしれない。
それでも双方の下にいた私には『旧知の仲の二人』だからこそ解せなかった。
「何や、黒猫にでも出くわしたか」
「はい」
「……アホらし。こっちは『ホンモンか!?』いうおもろい顔さげて、いの一番に確かめに来よるやろ思うててんのに」
全てを見通したように、はーん、という顔つきになったかと思えば、わざとらしく口角が下げられたその口からはいじけた子供のような声音が飛び出す。そんな素振りに、ああ本物だ、と私が実感していると知ったら、彼はどんな顔をするだろうか。
「ご期待に沿えず、申し訳ありません」
「は、大層な返しっぷりやなぁ。達者んなったんは霊圧操作だけやないいうことか」
呆れた口調とは裏腹に、首の後ろをさする平子隊長は何やら愉しげな表情で斜めに私を見てくる。けれどこんな淡白な応答も、いかにして備わったかを思うと正直まったく笑えない。席次こそふたつ上がったが、技局員としての私は今でも暴言説教の刑に処される対象としてリンくんと仲良く肩を並べている。
ただ平子隊長がいなくなった当初の私は、そうした耐性が無い以前に、自分で振り返っても顔を覆いたくなるほどひどい有様だった。持ち前の切り替えの悪さで涅隊長を苛つかせ、検体にされかけたことも一度や二度ではない。
もっと、たくさん感謝を伝えればよかった。もっときちんと、死神である自分を見つめる努力をすればよかった。それでもっと、急いで追いかければよかった。
もう彼はいない。死神としての芯もない。二つの現実が重たさを増すほど、もっともっとってそればっかりで少しも前に進めない。
全てが剥がれ落ちるように、馴染んだ気になった死覇装が一気に浮いたものに見えた。何が調整者だ。私の世界など、彼という地軸を失うことで容易く崩壊してしまう。居た堪れなかった。
“何じゃ。今にも死にそうな顔しとるのう、沙絵”
だが、奇しくもこのダメさ加減が元で転機が訪れた。数十年を経て、いよいよ隊長に「目障りだヨ」と言う気すら失くさせた私は、遠方や難所へ赴いての材料調達を仰せつかることが多くなっていた。内ひとつが彼の言う黒猫と対面した、深いこの森。
「しゃーけど、何や言うても元祖隊長サンは偉大やな。さっきの口ぶりやと事の真相は聞かされてへんかったいうことやろ? 十三隊にいてるオマエの心持ちを優先してくれはったんやろなぁ」
『事の真相』
じりっとした胸の痛みで、顔が歪むのがわかる。そんな私を見て「ぶっさい顔すんなや」と笑う平子隊長。肩で切り揃えられた髪、露にされた左眉。首に下がる不思議な装飾。馴染みのないものたちに縁取られながらこんな風に笑い飛ばしてしまうその姿は、すっかり変わったようでもあるし、少しも変わってないようでもある。
“オマエを引き上げてええ場所か分かれへん”
――だから、嫌なのだ。
長く同じ時を進みながら、何も知らず安心の中にいるのも、のうのうと傷ついた顔を晒せるのも、いつもいつも私であって彼ではない。決して強いばかりの人ではないのに。
「詳細は話せないが訳あって現世にいる」と聞いたその時も、生存の事実に歓喜、涙しながら、一方で私はその屈辱的な辛酸を与えた当人の背を彼の後継として見ていたのだ。何の疑問も持たず、つい一年前まで。ずっと。
そしてまた彼はきっと、私なんかには計り知れない葛藤の末、自分なりのけじめをつけようとしている。決着がついてもそこで終わりではないのだと、身をもって示すかのように。自身を踏みにじった大悪が纏った羽織に、再びその腕を通して。
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