← (3/3) →先の大通りを一本入った裏路地。こじんまりとした茶屋でおはぎとお茶を注文して程なく、私と市丸さんは菓子切りを持ったまま目前の光景に見入ってしまうことになった。気付けば妙に粛々とした空気が完成している。
「あれ? 二人とも食べないのー?」
その理由とも言うべき方がきょとんした顔できな粉をまぶした口を開く。隣どうし顔を見合わせた私たちは揃って、ああ、というように手元の小皿に目を落とした。共に半分ほど減ったひとつ目のおはぎが乗っている。
対する向かいでは空いたお皿を前に美しい姿勢で湯呑みをすする方の横で、先の方が最後のひとつに取り掛かっている。
「あー美味しかった! おみやにして真子にも買ってってあげよっか」
「ええんやない」
四つのおはぎをぺろりとたいらげてしまった久南副隊長を気にも留めず、さらっと賛同する矢胴丸副隊長。何事も慣れなのだなと、またひとつ学んだ気持ちになりながら食べる速度を上げる。
「リサちんは今年はどうするの?」
「決まってるやろ。本や」
「えー、またぁ〜?」
「へえ、うちの隊長はん本とか読みはるんや」
少しばかり感心した様子の市丸さんだったが、「見る方の本やけどな」と矢胴丸副隊長が言えば「ああそっちか」と言わんばかりの得たりという顔で浅く頷く。いくつでも男の子は男の子ということなのだろうか。とりあえず理解が早すぎると思う。
更に聞けば、六車隊長は鉄亜鈴を贈るつもりらしい。本人が喜ぶかはさておき、今まで聞いてきた中で一番まともな気がしてくるから不思議である。
「女将さん、ごちそうさまー」
それでも、直々に酒を買い求めに出向く隊長さんたちや、何でもない顔で長春色の贈答用風呂敷を持って店を出る久南副隊長のお姿に、あの人へ注がれる祝福の光を見た思いがして嬉しくなる。
そして彼はきっと、そのひとつひとつを見過ごすことなく心に留めながら、でも口では「何やねんこれ」などど言うのだろう。
「遅いわボケ」
三人と別れ、やわらかな夕陽が差し込む道場へ戻ると、格子窓の影が落ちる日向で片膝を立てて座している平子隊長がいた。羽織の上を流れる橙を帯びた黄金色は、けれど文句なしに綺麗で見惚れてしまう。
「偉くなったもんやなぁ」
入り口でぼーっと突っ立っていた私を見咎めるような眼差し。いやいやいやとは思ったものの隊長を待たせてしまった事実には変わりない。申し訳ありませんと頭を下げた私の耳に、ふ、と小さな笑い声が届く。
「
――俺」
付け足されたそれに腰を折ったまま顔を持ち上げれば、にやりと三日月を浮かべた人とぱちと目が合う。そのままふふっと笑い合った後、すまんな、なんて言われて少しばかり面食らった。私に向けてそんな言葉を口にするのは、らしくない。
「俺が派遣したったチビは役に立ったか?」
「はい、とても」
「ほーか。そら良かった」
言いながらのっそり立ち上がる平子隊長を見て、慌てて自分の荷物まで行ってたすきがけに取り掛かる。そんな私を急かすでもなく、木刀を肩に「陽ぃのびたなぁ」とぼやくその立ち姿は、パッと見ゆるゆるだが一分の隙もない。
不意打ちでもええから当ててみと言われ、掠りもしないまま約ひと月。何もかもがまだまだだ。
「っ、おっと。相変わらず足だけは速いな、ほんま。しゃーけどほれ、次が遅いで」
「っ!」
無礼を承知でぐっと瞬歩で詰めるもカン! という音の後に片手で難なくいなされた。すぐさま向き直ったつもりがお尻に軽い衝撃が走る。感触からして木刀の腹。斬魄刀なら横にも割れてしまったとこだ。
結果的に押し負けるにせよ、一瞬でも鍔迫り合いに持ち込むのが当面の目標。けれど幾度となく仕掛けても、以降ひょいひょい躱されるばかり。
院生時代は彼の太刀筋を読めたこともあった。でも今は、まるで届かない。
「脇が甘なってきとるで。もっと絞り」
それでも手を伸ばす。
昔は並んで見ていたはずの風景が、どんな風に変わったのか。何が見えていて何を背負っているのか。そこに立った自分は何を思うのか。息が上がろうと腕が笑おうと、それを知る為に動く足ならある。
ぶん! と空を切る音を、私は何度立てただろう。肩で息をしながら構え直した拍子に「沙絵」と呼ばれ、木刀の先にいる平子隊長がえらく神妙な顔をしていることに気付く。
「遠いか、俺は」
「……遠いですね、凄く」
夢中で向かってる内に心を掬い取られたか。それでも思うまま伝えれば「そーか」と宙に浮くような覇気のない声で返される。わからない。何だってそんな物憂い顔をするんだろう。
確かに遠いは遠い。でも私は別に、淋しくも悲しくも虚しくもない。目印を辿るだけの私と違って、先を歩いてくれる彼の方がいつだってずっとずっと大変だったはずだから。
「でも、ちゃんと見えてますよ」
「……さよか」
ふ、と表情を和らげた平子隊長は、続いて窓へ顔を向け「すまん、ぼちぼち終いでええか」と眉尻を下げて言う。その横顔は、気付けば随分と薄闇を帯びていた。
徐々に整って行く呼吸。吹き込んできた涼風に汗ばんだ体がふるりとし、急激に重みを覚えた腕がだらりと下がる。
「ありがとうございました」
「おー。次はもうちょい早よ来るわ」
立礼する私に背を向け、平子隊長は木刀をしまいに袖の物置へと歩を進める。ゆったりとした足取りに合わせて揺れる金糸。その隙間に覗く五の字をしばし見つめてから、私はその場に端座した。
「何や、今日は終いの不意打ちはなしかぁ?」
「今日は、やめておきます」
「そこで渋っとるようじゃ実戦で
――何や、どないしてん」
気持ち呆れを滲ませた声を出して首だけで振り返った平子隊長は、私の様子を認めると眉をひそめこちらに向き直った。
お渡ししたいものがありまして。私の言葉に軽く目を見開くも、すぐに平然とした顔で戻って来て正面にどかりと腰を下ろす。次いで頂戴と言わんばかりにしれっと突き出された掌……隊長羽織を着てそれですか。
脱力と共に抜け落ちる緊張。袴の脇あき内に移しておいた紙包みを取り出し、ぽんとそこへ乗せる。こうして見ると随分と年季が入ってしまったものだ。
「お、つげ櫛か」
何の躊躇いもなくばさばさと広げられた包装。出てきたものを見て平子隊長の顔に喜色が滲む。遠い昔に貰った初給金。私がニ番隊に配属されていなければ、もっと早くに渡せたかもしれない。
「お誕生日、おめでとうございます」
「……なぁ」
込み上げる色々を胸に座礼をすれば、梳いてや、と静かに告げられた。
面を上げた私へ、若草色の櫛入れから抜かれた本体が差し出される。受け取った櫛を手に、私はそろそろと彼の背後に回った。
およそ稽古に付き合った後とは思えない、すーっと櫛の間を滑る髪。あまり梳く必要は感じないが、それでも端から丹念に通して行く。
「わっ!?」
右横の束を掬った時、前を向く彼が急に私の手首を捕らえぐっと前へ引いた。全くの不意をつかれた私は、なすがままぼすんと彼の背におぶさる形に。得意の悪ふざけかと呆れかけたところ、思ってもみないことを言われて私は固まってしまう。
「遠いまんまのがええかも分からんで」
「……っ!」
「正直な、オマエを引き上げてええ場所か分かれへん」
「……び、びっくりした……」
吃驚ついでにうっかりタメ口になってしまった。そんな気配を感じ取ってか、くつくつと笑いながら「俺に見放された思うたか?」などと聞いてくる。ああ思ったさ。思ったけど、何だか非常に腹立たしいです。
「じゃまくさい仕事にじゃまくさい部下。俺はもう、引き返せんとこまで来てもうたけどな」
「……でも、それだけじゃないですよね?」
「まぁなぁ」
面倒くさい面倒くさいと言いつつしっかり背負い込む性分は否めないけれど、見出すものもない場所にいる人ではない。
引き返せないのは隊長だからじゃない。そこに、彼自身が引き返せないと思うだけのものがあるからだ。そうでなければ私もここまで来ていない。
「オマエ、ちょおおっぱいおっきなったんちゃうか」
「……は?」
「いややなぁ、追っついた時にごっついオバハンなってたら」
「霊力に伸びしろがあるなら、その方がいいです」
「アカン早よ来い。熟女のオマエなんか見たない」
「遠いままの方がいいって言ったり、来いって言ったり……」
そんなもんや、男なんて。
笑いながら掴んでいた私の手を自分の腰へ回し、彼はまた「よそ見したらアカンで」と口にする。大丈夫だ。目をつむったって見失いようのないこの光は、今も昔もどこにいようとピッカピカなのだから。
−END−
2012.5.10