← (1/15) →身支度を済ませ玄関を出ると、上空を速いスピードで流れる雲が明確な大気のうねりを見せていた。湿気を含んだ空気に一層薫り立つ、むせ返るような草木の匂い。
示し合わせたかのように振動した携帯を開けば、案の定、雨が降りそうだからと予定変更のメール。代わりに予約してくれたらしい店の名に、ごく自然に先週そこで食べたメニューが浮かぶ。
エレベーターホールへ向かいながら了解の返信を打ち、画面下の時刻を確認。続けて履歴を開いてとうに見飽きた表示先へ発信。当てた耳に無機質な呼び出し音が響く。
――あのビアガーデンのソーセージ、久々に食べたかったな。
途中、零れた呟きは、ごうごうと鳴る風と共に霧散した。
「はい、鏡花水月です」
「……おはようございます、店長。沙希です」
いつも通りあの堅物なボーイが出るものと思い込んでいた為、ほんの少し反応が遅れてしまった。
「おはよう、沙希くん。昨日言っていた同伴かな」
「はい」
「では京楽さんのボトルは準備しておくよ。他に今日の来客予定は?」
こんなごく当たり前の確認すら、この人に言われるとどうも他意を含んだものに聞こえる。
「すみません、まだ分かりません……」
「いや構わないよ。君は充分よくやってくれている。ああそれから、」
その『充分』という強調語によって先の疑念が確信に変わり、やっぱりねと思いながら次の言葉を待った。
「実はスタークのお母さんが倒れられたそうでね。暫く田舎に帰って付き添うことになったんだ」
「え、大丈夫なんですか?」
「ああ、命に別状は無いそうだから心配は要らないよ。それで一時的に彼の代わりとして僕の後輩にボーイをやって貰うことになってね。慣れるまで色々あるかもしれないけれど、よろしく頼むよ」
底の見えない藍染店長と堅物な東仙さん、私たちにとってふたりとの緩衝材的な存在だったスタークが暫く抜ける。些か面倒なことになりそうな気がしなくもないが、ともあれ自分は自分の仕事をするまで。
そう思い直してエントランスを抜けるも、今度は珍しくなかなかタクシーが捕まらない。
――何かとスムーズに行かない日らしい、と軽く胸に留め置いた。
飲み屋には幽霊が出やすいらしい。理由は、人間の様々な欲望が一堂に会す場所だからだそうだ。
性欲 金銭欲 支配欲 嗜虐欲 出世欲 自己顕示欲 被承認欲……
「なかなか興味深い話だねぇ。でも霊感なんて、僕には全くと言っていいほど無いからなぁ」
「ふふ、私には見えますよ? 京楽さんの後ろから私を睨み付けている大勢の女性が」
「やだなぁ、今でも僕は沙希ちゃん一筋だよ?」
ダンディを地で行く風貌でいて少しもスカしたところの無い京楽さんの、いつも通りデレデレと緩んだ顔を、少し意地の悪い流し目で捉える。と、そこでヘルプの女の子を連れた東仙さんから「沙希さん、お願いします」と声が掛かった。
「京楽さんが指名替えしないことは『この辺り』じゃ有名ですもんね? すみません、ちょっと行ってきます」
「そーいう意地悪言わないの」
名刺でグラスに蓋をしてニコリとすれば、京楽さんは苦笑いを零しながら、行ってらっしゃい、というようにひらひら手を振った。飲み方・遊び方を熟知した独身貴族の京楽さんとも、こうした『遊戯場の会話』を嗜み続けて随分になる。
「トイレ行ってからでもいい?」
「巻きで頼むぞ」
次のニ人連れには、丁度先に着いた桃ちゃんが酒を作ってくれているところで、早くも楽しげな笑い声が上がっている。この機にと思って一言東仙さんに断り、私は化粧直しと携帯チェックにトイレへ向かうことにした。
ラストまでいて貰うのは無理かなーなどと思案しつつ進んでいたら、キッチンからヒョイと覗いた体とぶつかりそうになって、おっと、と顔を上げる。
見慣れない銀髪に少し驚いたような白い顔、しっくり馴染んだ小奇麗な黒いスーツ。それが誰かはすぐに察しがついた。
「いやぁ、すんまへんなぁ」
「……あ、こっちこそごめん」
薄い唇から発された思わぬ語調と、目前でにんまりとしなった狐目に、ほんの少し気取られた。あの悠然と構えている藍染店長にこんなユルユルな後輩がいたとは、ちょっと意外。……まぁ、間違いなく元より同業者だろうけど。
さておきトイレだ、と軽く会釈して脇をすり抜けるも、背に届いた声に再び私はその足を止めることになった。
「あ! なぁ、沙希ちゃん」
「……」
同伴で朝礼にいなかったとはいえ、まだ名乗られてもない人から営業中にちゃん付け呼ばわりされるとは。
――やっぱりホストかボーイズか。
「……何ですか」
「さっきの話、ほんま? オバケ見えるて」
振り向いた私の単調な声色など気にも留めず、買い出しから戻って来た時に聞こえてしもたんやけど、と彼は続けた。
「ううん、全然」
「な〜んや、そぉかぁ……どないなモンが見えとるんか、ちょお聞いてみたかったんやけどなぁ……?」
あたかも残念そうに肩を竦めて見せる仕草とは裏腹に一向に動く気配はなく、薄く覗いた瞳には明らかな好奇が覗えた。
「実際どうなんやろ、見えたら怖いんかなぁ」
「さぁ……だとしても最初だけじゃないかな」
「やっぱしキミも、慣れてまうもんやと思う?」
その些か引っ掛かる言い方に眉をひそめつつ「慣れるっていうより……」と言い掛けると、案の定どこかワクワクした様子で先を促される。
「飽きる、たぶん」
淡々と言った視線の先で、満足そうに吊り上った薄い口元が妙に印象的だった。生ぬるい低気圧を引き連れて現れた、そのギンという彼とその背景に、私がほんの少しだけ興味を持った瞬間だった。