← (2/4) →雄大な夜空にさざめく星がまだ幾分か近く感じられた頃の、今と同じに桜の花弁舞う、或る風の強い夜更けのことでした。
ざわざわとした草の音。眠りの淵より引き上げられた私は、仰向けのまま、瑠璃紺の夜空をひらりひらりと踊るように横切る薄紅を、ただただぼんやりと眺めておりました。
と、不意に視界の隅に眩い光を捉え、上体のみ起こしてそちらを向けば、久方ぶりに目にする丸の障子戸。眩しさに細めた私の目が、白の羽織、続いて特徴的な銀色に光る髪を認識した折の、言葉にし難いまでの驚きと言ったらありませんでした。
「あら、先客さんや。キミ、何処ん隊の子?」
「…………」
「吃驚させてしもたん? ボクもお忍びやから気にせんでええよ」
「……綺麗……」
「ふ、おかしなこと言う子やねぇ、それは上見て言わなアカン台詞やん」
左様に仰ったその方は組んだ腕を両袖に潜め、にこにこしてすすと近寄りながら、風に揺れる、少々重そうなほどに花を纏いし桜を仰いでおられました。
しかしながらたった二文字を発したきり言葉を失ってしまった私の視線は、不躾極まりないまでにその方の一挙一動を追い掛けてしまっており。
「夢でも見とるみたいやなぁ」
ひらひらと上下する白い手にはっとした時には、その方は既に私の目前に屈み込んでおられたのでした。
「申し訳ありません市丸隊長!」
「お、何やボクんこと知っとるんや。ほんでキミん所属はどこなん?」
「じゅ、十二番隊にございます」
知らぬ筈が無いでございましょうと思いつつも、己のとんでもない無礼にすっかり青ざめた私は、額が野草を掠めるまでに頭を垂れたものです。
「へぇ、あの涅隊長んとこにこない可愛いらしい子もおるんやなぁ。名前は?」
「芹沢、芹沢沙希と申します」
「ほな沙希ちゃん、ほんまにボクなんかに見惚れとったん?」
「も、申し訳ありません、その……あまりに綺麗でらしたので……」
と、頭に感じたはぽん! という感触。思わず「ひっ」と声を上げた私の耳には、くつくつと喉元深く笑う声が聞こえて参りました。
「ふ、アカンなぁ、そないなこと言うたら。なぁ、沙希ちゃんは知っとる? 桜の木の下には屍体が埋まっとるいう話」
「っ!」
先ほどを凌ぐ驚き余って頭が真っ白になってしまった私は、がばりと顔を上げ、あろうことか落ちんばかりに見開いた目で市丸隊長を凝視。
「知らん? 古い、言うても八十年そこら前やったかな、現世の短編小説なんやけど」
「……ぞ、存じております」
「何や、知っとった割にはえらい吃驚した顔しよったなぁ」
「いえその……市丸隊長のような『えりーと死神』と謳われておられます方が、先に申されましたような、凡庸な人間心理に特化したお話を、ご存知でらっしゃる、とは思いもしません、で……」
極度の緊張と驚きに因る凄まじい動揺の中、しどろもどろながらにとつとつと紡げば、市丸隊長は口元に深い弧を描きながらこう仰ったのでした。
「せやから言うたやろ? 綺麗なんか言うたらアカン、て。ちゃあんとあるんよ? ボクん中にも屍体が」
「……左様には見えません」
「ほな、見したろか……?」
どきり。
鼻がつくかと思うほどに近付けられたお顔。薄っすらと上がった両瞼の下に覗きし、赤味の差した双眸。その見るも妖艶な赤目に捉えられた刹那、言葉通り市丸隊長に潜む屍体の片鱗を垣間見た思いがして、私の背筋はぞぞと粟立ちました。
しかしながらそれは恐怖に因るものに非ず、何か背徳感にも似た悦に酔うような感覚の中、「ああ、小説の通りだ」とぼんやり思ったのです。
――桜がああも美しいのは、その下に屍体が埋まっているが故に違いない。
人は、あまりに神秘的な美と対峙した際、恍惚とするその一方で、さほどに己の心を奪うものとして時に恐怖や不安に駆り立てられる。
かように美しきものを、ただ美しいとは受け入れられず。ともすれば、美しい心象風景を見ているに過ぎないかの如く思えてくる。
詰まるところ、その美に相反する何かが在って初めて現実味が得られるというもの。例えばその土の下に屍体が埋まっている様相を思い描くなど、云わばこじつけた答えを導き出す。
然すれば心の平衡は保たれん。
凡庸な私からする市丸隊長という存在は、さながら桜のように美しく、秀でた才も、『神の鎗』などという名を持つ斬魄刀も、何処か神々しく朧ですらあって。
けれど、かくも艶かしい瞳といやらしい笑みを湛えた市丸隊長に射竦められ、漸く私はこの方の実存を確認出来たかに思えたのです。
「見えた、やもしれません……」
「ちゃんと全部見なアカンよ」
「……!」
くすり、という笑い声が聞こえたや否やしゅるりと帯紐が解かれ、木の根元に仰向けにされた私は、その赤目を以ってして真上より見下ろされる形に。
けれどその刹那、私の脳裏から片時も離れたことのない光景がまざまざと思い返されたのです。
「……いけません、市丸隊長」
「せやけど沙希ちゃん、えらい見たそな顔しとるよ?」
「そう、ではなくて……」
「ほな何?」
「私のような者と情を通じてはなりません。市丸隊長が穢れてしまいます」
「ふ、ほんまにおかしなこと言う子やねぇ。そないに自分を卑下したらアカンよ。キミは
――」
“こないに桜のよう似合う別嬪さんやないの”
左様に仰って私に口付けて下さった折、この上ない感激に胸が打ち震え。
終始私を気遣いながらの行為の只中、一体何度、涙するのを堪えたことでしょう。
東の空が淡い蒼を覗かせるまで寄り添って下さった市丸隊長は、変わらずとても、お優しい方でありました。