← (5/6) →「あっちで話そうぜ、ここ屋根ないし」
啓吾くんの提案に賛成し、私たちはマンションの敷地内にある公園に移動した。夜風に乗って届く、チチチチ、という虫の声に秋の足音を感じる。
屋根付きベンチに並んで腰掛けた後、それで? という彼の声に促され、私は今日の一件に纏わる諸々を順を追って出来るだけ簡潔に話した。
仕事がひと区切りついて、ふっと急に何もしたくなくなって帰ってきたこと。今日の相手は元いた会社の先輩で、少し前に告白されたこと。一緒に会社をやらないかと言われたこと。
啓吾くんは、軽く膝を開いた間で缶ジュースを両手で持ち、時折ぺこぺこ指で押したりしながら相槌を打っていた。
――けれど。
「え、ちょ、それってプロポーズされたってこと!?」
驚愕の表情でバッと横の私を見た啓吾くん。ふと、外灯に照らされた白いTシャツに目が留まり制服姿の彼を思い出す。私は今、真っ白いタオルをファンデーションで汚すように、いわゆる『大人の汚い話』を暴露してるんだろうか。
「んー……正しくは、『結婚を前提に公私共にお付き合いしましょ』って話だけどね」
「えっ、そ、それで沙希ちゃんはどうしたの?」
「言いたいこと言って、勝手に帰ってきちゃった」
よく分かんねー、というように啓吾くんの眉がぎゅっと寄る。私は無意識にちょっとずつ、話の軌道を逸らそうとしてる自分に薄っすら気付いていた。
ふられたわけじゃない。ヤられそうになったわけでもない。
公私共に一緒にやってこうと言われた。帰ってきちゃった。
事実のみ伝えて、それを裏付けるだけの理由を何も言ってない。そう思ったら不意に、昔の自分の部屋にいた時のあの感覚が蘇ってきた。
――ほんとは、ほんとはね。
「……バイトしながらのスタイルに変えて、もう少しゆっくりやってみるって、そう言うつもりだったの。制作の仕事自体は、やっぱり好きだし」
「えっ? う、うん」
「でも経理はやっぱ苦手だし、ほんとは、毎日こまめにコミュニケーション取るのもめんどくさい」
「……うん」
「仕事取る為にグイグイしゃしゃるのも好きじゃない。ほんとはトラブルとかも、凄く怖い」
「うん」
何を言い出したと思われただろうか。きっと啓吾くんは、わけも分からず困った顔をしている。そんな気がして隣の彼を見れない。でもどうしよう、止まらない。困らせたいわけじゃないのに
――「だけどそれでもやりたかったから覚悟を決めたし、今までだってやってきた。自分の為にだよ。なのに……立ち上げ直そうって、何? 私がやってきたこと、勝手にもう終わったことにされてる」
「……」
「ごめん、わけ分かんないよね。みっともないや私」
「沙希ちゃん」
社会に参戦して数年。足元を見られるようなことがあっても、今更いちいち傷ついたり腹を立てたりもしない。その程度の免疫はついた。
“お前その若さでほんと頑張ったと思うよ”
でも、これから独立する人にあんな風に言われ平静でいられるほど、私はまだしっかり立ててはないのだと思い知った。早く、早くこういう雑音から解放されたい。だけど、果たしてそんな日は来るんだろうか。
「みっともなくて、ごめん」
左手で自分の体を抱くようにして俯き、口に出したことで再び認識せざるを得なくなった自尊心の痛みと格闘する。すると横で、コン、と缶を置いたような音がした。
「けい、ごくん……?」
すっと右手から缶を抜かれた気配がして顔を上げると、目の前にしゃがみ込んだ啓吾くんがこちらを見上げている。
雨を含んだ土から薫り立つ匂いが、4人で花火をした夏の記憶を鮮やかに連れてくる。ピストル型や何かのキャラクターなど、絵型の持ち手花火を巡ってよく喧嘩になったっけ。
「こうやって手ぇ繋いでもらってさ、ずーっと沙希ちゃんのこと見上げてたよなー俺」
言いながら彼が、私の指の部分だけをそっと握る。小さくて、掌ぜんぶを握ることが出来なかったその手が、今は小さい子の手を取ってるみたいだ。
「みっともなくなんかねーって。言っただろ? 沙希ちゃんは大丈夫だって」
「そう、かな」
「バイトしながらまた頑張るんだろ? いいじゃん、それで。その人からどう見えてっかは知んねーけどさ、沙希ちゃんの中ではハッキリしてんだから」
「…………うん、ありがと」
帰ろっか。私が切り出すと、うん、と言いながら啓吾くんがコクンと頷いた。こちらが見下ろしてることもあり、何だか「うん」が「ワン」みたいに思えて、ぷっ、と吹き出してしまった。
啓吾くんは「なんだよー!」と漏らしながら、私はむくれたその顔を見て更に笑いながらスクッと同時に立ち上がる。……あれ、何か今、気持ち悪いくらい息が合った。
変な間を感じてチラと見上げると、どうやら啓吾くんも同じだったらしく、目が合った途端、にへーっ、と意味もなく笑い合ってしまった。
「さて! みづ穂ちゃんのジュース買わなきゃー」
「あ、あのさっ、沙希ちゃん」
啓吾くんよりひと足先に自販機に戻りかけ、背後から呼び止めるその声に「んー?」と振り返る。あ、雨やんだんだ。
――つ、と空を見上げた瞬間、思いがけないことを言われた。
「あの、さ……明日の祭、一緒に行かね?」
「あぁっ!」
「だーかーらー。もっと優しく、そーっとそーっとなぞるんだってば」
「や、そう言うけどよぉ〜だってクビレ細すぎじゃねー?」
小刻みに震える啓吾くんの手を見て、こりゃダメだ、と溜め息が漏れる。その覚束ない手付きといい、どうにもじれったくて仕方ない。
「……交代」
「え!? ちょ、待って! もう1回だけ!」
「だーめ」
有無など言わさんとばかりにじーっと凝視すれば、渋々立ち上がる啓吾くん。すかさず彼の前に出てスッと座ると、お願いします、と頼りない声で言われた。
「任せなさい。必ず元は取ってみせる」
宣言と同時にピンク色の板菓子を手に取り、まず周りの部分を手で折って行く。背後から「えー!?」とか聞こえたけど気にしない。コツってのは自分で掴むものだよ少年。
さて、こっからが本番。画鋲を手に、ひとつ息を吐いてぐっと集中。力を入れぬよう気を配りながら、ポットの図柄の線をカリカリ削って行く。
「なぁ〜進んでんの? それ」
「その根気と集中力の無さが敗因」
開始5分くらいは屈んで上から覗いていた啓吾くんだったが、話し掛けても私が素っ気ない為か早くも退屈そう。やれやれだ。
“や、英語の宿題も手伝って貰ったことだし……び、ビール奢るよ俺!”
啓吾くんに誘われたのは、毎年8月終わりの土日に開かれる地元神社のお祭。
しかし相手は多感なお年頃の男の子。地元の友達なんかに遭遇しようもんなら、年増の悪い女にたぶらかされてるみたいな絵になりやしないか、などと少々考えあぐねたものだったけど。
しかし実際は姉と弟みたいなもの。今の俺ならビールだって奢れちゃうんだぜ! 飲めないけど! というような、ちょっぴり背伸びしたい彼の気持ちも分からないでもなかった。
そして翌日、夕方からふたりで足を運んでみた神社は、この夏最後のお祭の最終日なこともあってか多くの人で賑わっていた。たこ焼きにオムそば、カキ氷と食べ進めるにつれ、手にはスーパーボールや景品のお菓子などが増え、そろそろ一周かという時に啓吾くんが目に留めた『懐かしの型抜き』の文字。
「つーか何時からだっけ、和太鼓」
「7時」
「え! あと15分しかねーじゃん!」
彼が焦った声を上げたのと同時にカコッと外れた感触。どーよとばかりに横目で見上げると、うわーすっげー! と驚きに目を丸くする啓吾くん。その声につられてきた屋台のおじちゃんからもネーチャン綺麗に抜いたねーと賛辞を頂いた。うん満足。
「あっ、ビール売ってる。もう1本買ってっていい?」
「つーかそんなに美味いもん? ビールって」
「美味い。しかも祭マジックで1.5倍増し!」
「へえ〜……うわ、すげー人。急がないと間に合わないぜ? 行こ!」
言うなりガッシと私の手を握った啓吾くんは、半歩前へ出て器用に人波を進み出した。