← (4/6) →8月も間もなく終わるというのに、約束で出向いた街は相変わらず特有の熱気が立ち込めており、私は無意識に何度も深呼吸をしていた。テラス席を選んだところでこうも無風では、快適さの欠片も無い。
「
――なるほどな、それで実家に帰ってたのか」
「はい。正直、自分でもちょっとびっくりでした」
何故リアクションがなかったか。その問いに対しざっくり私が説明している間、じっと耳を傾けていた向かいの先輩が、ふー、と息を零す。
“好きなんだ。大事にしたいって思ってる”
……たった二週間前なのに、何だか物凄く前みたい。
対する私は、何となく時間の感覚が狂っている自分に気付きながら、休暇って侮れないなと胸の内で密かに苦笑していた。衝動的だった分、ギアを入れ直すのもひと苦労かもしれない。
「前に言われたじゃないですか、仕事もっと選べって。確かにちょっと、のめり込み過ぎちゃってたかもしれません」
「お前、息継ぎ下手だもんなぁ……」
自動日めくりカレンダーのようにパタパタと過ぎ行く毎日を、『仕事の報酬は仕事』を肝に銘じながらひたすら前へ前へと突っ走る。契約を取ってこなして以外に、会計、税金、保険、あらゆることが全て自分にのしかかる。それを背負って自分の足で立っている、という生の感覚が好きだった。
「それで毎回ブレーキぶっ壊してたら世話ないだろ? 心配する方の身にもなれって話だ」
「すみません、ほんと……」
でも結局、何事も大事なのはバランス。分かってはいた。ただ正直、誰かが止まれとか走れとか言うわけもない中で、止まることに対する不安の方が勝っていた。
――結果、緊急停止が働いてしまったわけだが。
「それで、今回を教訓に
――」
「なぁ、沙希」
「はい」
「一緒にやってかないか?」
え……。
ざわざわざわっと胸がどよめくのを感じた。いつにない真剣な表情。何だろう、物凄くイヤな予感がする。ぐっと息を呑み、続く彼の言葉を待つ。
「そろそろ俺も起業を考えてる。だから、一緒にやらないか? 正直、心配なんだよ。見えないところで今回みたいなことがあると」
何だろう。ちゃんと、本気だってことは分かる。でもやっぱり何かが凄くモヤモヤする。この胸につかえている違和感の正体は何なんだろう。
「あの時はまだ早いって反対もしたが、お前その若さでほんと頑張ったと思うよ。実際、今のお前には俺には無い人脈やノウハウの基盤がある。それを活かして一緒に立ち上げ直そう。お前となら俺
――」
“人生のパートナーとしてもうまくやっていけると思うんだ”
まさに、ガン! と頭を殴られたような衝撃だった。
同時に先輩から告白された時の、得体の知れない何かに縛られるような気配に物凄く身構えた感覚が蘇る。私はそれを、自分の『突っ走る日常』に恋愛や彼氏というカテゴリーが加わることへの圧迫感と捉えていたが、どうやら錯覚だったようだ。
――でも、直感そのものには間違いはなかったらしい。
「……それって、仕事ごと私を囲いたいってことですよね」
「違う、そうじゃない! 俺はお前のことをっ
――」
「ごめんなさい、私には仕事に上乗せした感情としか思えません」
万券を置いて、席を立った。
セックスはおろか、付き合ってすらない相手からの利己的な所有欲の押し売り。そこに、本気で感情まで混同してるだけに始末が悪い。
けれど利害意識の点では同じなのかもしれない。事実私にとって先輩は腹を割って仕事の話が出来る相手であると同時に、同じフィールドに立つ大事な人脈だった。
彼は彼で、女としての私と人材としての私、その両方を手元に置きたい。だから安易に手を出すなんていうリスクは冒さず、正攻法に則って段階を踏んだのだろう。所詮は同じ穴の狢。
なのに、悔しくて堪らない。
ぎし、と軋んだ自尊心。ほんと頑張った? 誰がギブアップって言ったよ。私の基盤を活かす? 勝手に乗っかる気満々かよ。うんざりだ。
――彼にも、そんな求め方をされる、程度の知れた自分にも。
鉛のように重たくなった体を引きずって駅を目指す途中、追い討ちをかけるようにザーッと雨が降ってきた。安いドラマみたいなシチュエーションにうっそり苦笑する。
ノースリーブの肩を伝う雫が素肌を冷やし、徐々に胸の内で猛る憤りも鎮めていく。代わりに、途方もなくしらけた虚脱感が私を支配する。
「鳴木市までお願いします」
通りかかったタクシーに気だるい体を滑り込ませ、行き先を告げた途端にどっと疲れが溢れ出た。雨に滲んで後ろへ飛んで行くネオンを眺めながら、虚ろな頭に財布の中身を描く。自分のマンションの方がよっぽど近いが荷物もある。
何より私は、トリミングされてその名の通りもこもこになった愛犬を無性に抱きしめたかった。
「ありがとうございました」
運転手さんにお礼を返し、小雨のパラつく外へ降り立つ。バタンと閉まったそれが去ったところ、不意に背後からガコン! という音がした。つられて振り返れば、自販機の前にいる少年とパチと目が合う。
「あ……お帰り」
「ただいま」
一瞬驚いたような顔をされたことに首を傾げつつ、自分も何か飲もうとそこへ向かった。財布を取り出す私の横で、彼は眉を寄せたまま缶ジュース2本を手に突っ立っている。また、みづ穂ちゃんにパシられたらしい。
「なに、何かついてる?」
「……や、なんかさ。早くね? 帰ってくんの」
そうかな? と言いながら小銭を確かめる。ふと今しがた受け取ったカードの明細が目に留まり、これも経費にしてやる、と心に誓った。
「だって今日、昨日言ってた人とデートだったんじゃねーの?」
「どして」
「どしてって……な、なんとなくだよ」
彼の目に、自分がデートに行く女に映っていた事実と、先ほど露呈した現実とのギャップが脳内でせめぎ合う。思わず額に手をやった私に「沙希ちゃん?」と怪訝な声が掛けられる。
「交渉決裂」
「え? あ、なーんだ仕事だったのか」
「いや、その人と会ってた」
「はぁ? なんだよ、もー」
「……ごめん、ついかっこ悪くて」
ぼそり。漏らした私の耳に、えっ、と動揺を含んだ声が届く。額に手を当てたまま視線だけでチラとそちらを見れば、思った通りの困惑顔。
「言っとくけどふられた訳じゃないよ。ていうかふられた方がマシだった」
「なに? どーいうこと?」
「聞きたい? 惨めったらしい私の話」
「聞きたい」
えっ、と思わず顔を上げたら、見たこともない真顔で見下ろされていて更に驚いた。これがあの、いつもギャイギャイとハイテンションで喋くり倒す啓吾くん? ていうか君、空気を読める男なんじゃなかったっけ?
「デートに行った沙希ちゃんが、何でそんなぐったりして帰ってこなきゃなんなかったのか、聞きたい」
「あっ、強引にヤられそうになった、とかもないよ?」
「……キッパリ?」
「ふふ、うんキッパリ」
ほんとに? とでも言いたげにじっと眇められたその眼が可愛くて、思わずちょっと笑って返す。と、安堵したのか啓吾くんは、ふぅー、と大きく息を吐き、表情も少し柔らかくなった。
「心配してくれたんだ?」
「あ、当たり前だろぉ!? 沙希ちゃんだって女の子なんだし……あ、もしかして喧嘩しちまったとか?」
……沙希ちゃんだって女の子、かぁ。
啓吾くんの歳の頃、私には大学生が物凄く大人に見えていた。即ち今の私の歳はおばさん。だけど実際なってみると、自分は何て子供なんだろう、そう思い知らされることばかり。今日みたいなことにも、心を乱さず鼻で笑えるぐらいになりたいや。
「その、『沙希ちゃん』ってやつ」
「え?」
「私、社会人としてはまだまだでさ。だから仕事してても結構そう呼ばれる。最近は増えつつあるけど、私の歳でフリーでやってるなんて生意気だとか、何お前? とか言われたり。小娘だって足元見られることも日常茶飯事」
「あっ、ごめん! そっか失礼だよな。もう女の人だもんなー沙希ちゃ、あ! ごっ、ごめん……」
「ぷっ……や、そうじゃなくて。確かにちょっと照れ臭くはあるけど、背は越されても啓吾くんは啓吾くんなんだなって思うと肩の力ぬけるっていうか、何かホッとするんだよね。あ、ねぇそれ1本みづ穂ちゃんのだよね?」
「えっ? あぁ、うん」
「後で買うから、それ貰ってもいい?」
不思議そうな顔で缶ジュースを差し出してくる啓吾くん。聞きたいんじゃないの? と言えば、「聞いていいなら……」と遠慮がちな言い方に変わったことに、またちょっと笑ってしまった。