← (3/6) →ピーンポーン。
翌日の午後、代わりに見つけた使える論文入門書を手に私は浅野家を訪ねた。だが応答なし。
まー何といってもまだ絶賛夏休み中か。そう思ってドアポストに落とそうとしたところ、中からバタバタと騒々しい足音が聞こえてきた。あれ、いるんだ。思った直後にゴンッという鈍い音。同時に、あがっ! とかいう痛々しい声。
「かーっ! いってぇ〜……っ、沙希、ちゃん?」
……えーと。
その、右足を掴んでの片足立ち、は、まーぶつけたとして。ぽたぽた雫が垂れてる髪、いかにもばばっと着ましたって感じのハーパンにタンクトップ姿も、まー分かる。
ノブごと握られてるのは
――ハンコ?
よし、理解した。
「……いかにも?」
「ぶっ、いかにもって! もー沙希ちゃん渋すぎだしー! つーか、え、何なのそのカッコ。どっか行くの? え、ていうか、ひょっとしてそのまま帰っちゃうとかないよな!?」
落ち着けよ少年。てか笑いのスイッチ低いなー。
内心であれこれツッコミながら、矢継ぎ早の質問攻撃を頭で整理。ふー、とひとつ息を吐いた私は、持っていた入門書を差し出しながら口を開いた。
「まず、これはみづ穂ちゃんに。で、本日 私はご飯に行く約束があります。流石にモコの散歩とはわけが違うのでそれなりの服を選び化粧もしました。そして明日の夜あたり帰ろうかなと思ってます。以上」
「ちょ、何その事務的な感じ! てか以上って、えー!? 俺まだ宿題終わってねーんだけど!」
「うん頑張れ」
「ちょちょちょちょ、ちょーっと待ってくれよーぅ!」
「わっ!?」
「えっ……」
ビシと親指を立て、じゃ、と行こうしたものの、悲痛な声と一緒にぐっと左腕を掴まれ、呆気なくバランスを崩された私はそのまま背後にいた啓吾くんを下敷きに
――しなかった。
ゆるい風が吹き抜け、部屋の奥からリンリン、と涼やかな音がする。考えること数秒。半回転でもしたのか左半身から完全に寄りかかり、右肩にはガシッと掴まれてる感触。
――でもって頭上から、ぼたぼた雨が降ってくる。
「…………啓吾くん。あの、冷たい」
「え? ……うわっ! ごご、ごめん沙希ちゃん! そ、そんなに強く引っ張ったつもりなかったんだけどっ」
状況を理解したらしい啓吾くんが、慌ててパッと私を離してズザザッと後ずさる。途端に彼という支えを失った半開きのドアに私はガコッと挟まれた。
軽く顔を顰めた私を見て「わー!」と再び叫んだ啓吾くんは、めちゃくちゃ目を泳がせながら手を合わせ「ホントごめん!」を連発。だから落ち着けって、と思ったところで彼が、あ、と何か思いついたような顔をした。
「タ、タオル! 俺タオル取ってくるわ! とりあえずそこ、中入って待ってて!」
「えっ!? いーよ、首のそれちょちょっと貸してくれればー」
「いっ、いーわけないだろぉ!?」
……はぁ、ほんっと参るなぁ。
バタバタと引っ込んで行く彼の後姿を見つめながら、私の口からは溜め息しか出なかった。正直、頑張って動揺を隠した自分を褒めたい。体は男で心は少年とか、何なんだあの危険な生き物。
これで戻って来て尚タジタジされたらどうしようかと思ったが、思いのほか何か神妙な顔で現れた啓吾くん。怪訝に思う私に、これ、とタオルが差し出される。ありがとう、と受け取ったそれは仄かに温かく、濡れた顔に近づけるとふんわり太陽の匂いがした。
――干したての清潔な、真っ白いタオル。
「……ごめん、やっぱいいや」
「えっ? 何でだよー」
「ファンデついちゃいそうだし」
言いながら、肩にかけた鞄の中のティッシュをまさぐる。そうだよ、始めからこうすれば良かったんじゃん。思わぬアクシデントとはいえ、まるで頭が回ってなかった自分に呆れる。
ややあって正面から、ぷっ、と吹き出したような声。続いて突き返したままの右手からタオルが取られ、とんとん、と頬に柔らかい感触。ぎょっとした。
「ちょ、ちょっと、ついちゃうって!」
「いーってそんなの。つーか俺の所為じゃんよ」
うーわー……! いやダメだろ、そんな無邪気な顔でこんなんするとか!
年下の、それも自分の弟より下の男の子に子供にするような真似をされてると思うと、気恥ずかしさ通り越して目眩すら覚えそうだ。
あまりのことにふっと視線を下に落とすと、コロンと転がっているハンコに気付く。さっき咄嗟に支えてくれた拍子に落としたんだろう。
「啓吾くん、ハンコ
――」
「あのさ、明日
――」
ピーンポーン
「っ!」
「っ!」
同時に口を開きかけたところ、不意に真後ろからインターホンが鳴り、互いにびくりとして目を見開いた。思わずちょっと笑って下のハンコを拾い、はいと手渡す。
「あー、うん……」
――ん?
それを、何か苦い表情で受け取った啓吾くん。脇によけた私の前で、ビーサンをつっかけた彼の手がドアノブを取る。何だか分からんが、まーいっか。
ぼんやり宅配業者とのやりとりを見届けていると、リンリン、と再び聞こえてきたその音色。廊下先のリビングの窓に目を向ければ、小さな南部鉄風鈴が揺れている。いいな、あれ。
どーもっす。啓吾くんが告げ、再びパタンとドアが閉まる。受け取った箱がシューズボックスの上に置かれたのを合図に、私は切り出した。
「んじゃ、私行くね」
「あっ、あのさ! 俺、沙希ちゃんは大丈夫じゃねーかなって思うぜ」
「はい……? 何が?」
「あーいや、俺みたいなガキに言われても何の説得力もねーかもだし、仕事のことだってよく分かんねーけど……あー、何つーか……」
未だ湿った髪をわしわし掻き、何か、懸命に言葉を探している様子の啓吾くんをじっと見上げる。私が明日帰るつもりだと言ったから、それで何か伝えようとしてくれてるのだろうか。
「元気なくて、ぶっちゃけちょっと焦ったけどさぁ。でも沙希ちゃん、『疲れてきちゃったかも』って言ったじゃん? 実際俺なんかの話も相変わらずちゃんと聞いてくれてたし」
「う〜ん、それで?」
「何つーか、俺ん中の沙希ちゃんって基本すげーハッキリしてて、我が道を行くカッコイイねーちゃん! って感じでさ。ほんとに限界だったらそこでもハッキリ『疲れちゃった』って言いそうだし。つーか俺に言う前に、おばさんやおじさんに潔く頭とか下げそうじゃんよ」
「……だから、うちの親に何も言わないでいてくれたの?」
「ま、まーな!
――俺、これでなかなか空気読めちゃう男だし?」
すちゃっと人差し指と親指を顎に当て、明後日の方向を見ながらイイ声を出してみせる啓吾くん。思わず苦笑が漏れる。
びっくりするほど何の根拠もなく、そこに伴う色々も、幻滅するだろう私の顔も、何も知らない。なのに不思議とすっと胸に届いてくる。
――君は凄いね、ほんと。
「……ふふ、なっまいきー」
「あ、やっぱり? だよなー俺もそう思う! ははっ」
あどけなさの残る、ちょっぴり照れたような笑顔。ふわ、とほんの少し軽くなった胸のあたりを感じながらつられて笑う。
「でも、ありがと。数学、力になれなくて申し訳ないけど、やっぱりみづ穂ちゃんに聞くのが早いと思うよ?」
「えーヤダよ〜。だってさーもうスパルタとかすっ飛ばして、人として生きる自信失くす勢いで追い込まれんだぜー?」
「じゃー半泣き覚悟で教えて貰うか、休み明けのテストで泣きを見るか2つに1つだね? ま、それも青春だ。がんばれー」
「ええ!? どっちもイヤー!」
ひらひらと手を振って浅野家を去る私の背に悲痛な叫び声が届く。そのリアクションの良さにくつくつ笑いながら、私はエレベーターを目指した。