← (2/6) →くるり、くるり。頬杖をついてシャーペンを回してる主は、先ほどから、あー、だの、うー、だのと言葉にならない声を漏らし続けている。
一定のリズムで首を振る扇風機のゆるやかな風が、ベッドにうつ伏せて漫画雑誌をめくる私の瞼を重くする。流石にほったらかして寝るのはかわいそうかと思い直して、ぱたんと閉じたそれを脇に置く。上体を起こし、帰ってきて二度目の彼の部屋をぐるりと見渡してみる。
モノトーン系の配色。無造作に引っ掛けられた制服。漫画やCD、RPGソフトがつまれたラックの隅には種類の違うヘアワックス。音楽プレーヤーがささったスピーカー、DVDプレーヤー、ヘッドフォン。
れっきとした思春期の男の子の部屋
――無論、ベッドの下のエロ本、エロDVDだってお約束。
「ええっ!? ちょっと、また!?」
ガラッと机の一番下の引き出しを開け、その奥に丸めて封印されている残念なテストの束を引っ張り出す。うちの弟はポスターの裏だとか、もっと姑息な隠し方してたけどなぁ。
啓吾くんに近いベッドの端っこに座り、手にした束に目を落とす。一番上は「と、友達の名前と一緒なんだぜ?」とか言って笑って誤魔化してた15点。科目は世界史。思いっきり暗記系。一夜漬けして15点? 違う意味で凄いなそれ。
「もー、世界史はいいんだって! 宿題の数学と英語を何とかしてくれよー!」
「だから数学は無理だってばー」
「だって沙希ちゃん、仕事の金の管理とか全部ひとりでやってんだろー?」
「高校数学とは違うんだって。てか悪いけど、仕事と自分の金勘定以外の数字はほんと無理」
「うわー……ほんとキッパリっすよねーそゆとこ……」
本音を言えば仕事絡みの会計処理だって、もっとお金を払ってでも会計士さんや税理士さんに丸投げしたいくらいだ。だけどそんな金がどこにある? たった数ヶ月先の未来すら危うい私に。
やらなきゃいけないからやる。宿題も仕事も、同じようで、その重さはまるで違うのだよ少年……とか言いたいとこだけど、自分で知っていくことだよなぁ、それは。
自分が言われてきたことを振り返ってみても、ああ、あの時のあの人の言葉は本当だったって、結局は自分で体験するまで分からなかった。
いくら言われてもエンジンの掛からない女子高生だった私も、模試の結果が出る度に青ざめ、志望校に落ちた時に至ってはまるで人生が終わったかのような絶望感に襲われたものだ。
けれど滑り止めの短大に行くと決めるや否や、そんなこともあっさり忘れてまだ見ぬ大学生ライフに思いを馳せる。そんなもんだった。
“せめてあと2年、待ったらどうだ?”
“仕事、もう少し選んだ方がいいぞ?”
そうなのかな、とは思えても、結局は何も分かってなんかいない。その繰り返し。多分、今だってそう。違うのは『生計』という要素のはっきりとした現実味。
――だから私は、啓吾くんに何て言えばいいかなんて分からない。
「てかさ、遊び呆けてるようで実はやることキッチリ、みたいな方がかっこよくない?」
「ふうん。沙希ちゃんは、そーいう男が好きなんだ?」
「え、私?」
「つーかさ、今 彼氏いねーの? 沙希ちゃん」
ニヤついた顔で聞いてくる啓吾くんから視線を外し、まただ、と思う。好奇心でおもしろがってるだけなんだろうけど、彼のこういうありふれた、ごく普通の質問にいちいち私は混乱する。私、私か。私は
――「んー……彼氏、はいない」
「え、ちょ、彼氏『は』ってなに『は』って! ひょっとして遊んでる男がいっぱいいちゃう感じ!? うわー俺マジショックなんですけど!」
「あー、じゃなくてたまにご飯食べ行ったりしてる人がいるんだけど」
「あ、なーんだイイ感じってこと? いーないーなー! 俺も早くカノジョほしー! なーんか水色といるとさーって、あ、水色ってあの中学から一緒のヤツで超絶年上キラーなんだけど、なんつーの? 俺ってば究極かわいそうじゃね? みたいなことばっかでさーあー」
始まっちゃったよ、と内心で苦笑しながら啓吾くんの嘆きトークをふんふん聞く。だれだれがさー、と友達の話をしている時の彼は本当に楽しそう。
「井上さんも黒崎くん黒崎くんって感じでつれねーしよー。ルキアちゃんだって美人だけどって、あ……」
「……?」
明らかに、やべっ、という顔。どした? と思って覗き込むと「あー」と小さく唸ってから、転校しちゃったんだよねとひと言。
そっか残念だね。私がそう言うと、啓吾くんは何か複雑な表情でちょっと黙り込んでから机の上のプリントにパタとシャーペンを置いた。
「……カノジョかー。やっぱ俺、いらねーかも」
「そうなの?」
「や、そりゃー本気で好きな子でも出来たら分かんねーよ? ただ……去年さ、ちょっと色々あったんだよね。で、そいつがさ、それからずっとどっか元気ないわけよ」
くい、と顔を向けてきた先に視線を合わせれば、そこには私が手にした15点のテスト用紙。イチゴくん、か。
「どうすりゃいーとか分かんねーけどさ。ヤなんだよなー俺、そーいうの」
変わんないな、そういう優しいとこ。
昔3人を地元のお祭に連れて行った時も、アレやコレやとパシらせるみづ穂ちゃんにぶーぶー言いつつ、でもその小さな手にしっかり4人分を抱えてきて。
おばちゃんからふたりの分のお金も貰ってるから、とその分を私が差し出しても、名残惜しそうに見つめながら、いっちょ前に「い、いらねーやぃ!」と突っぱねた。
私が預かった分を返したその夜、あんた自分のお小遣いで払ったんだって? と茶化したおばちゃんに、だって俺と姉ちゃんのふたりじゃお祭行けねーだろ! と小さな啓吾くんは言ったそう。
「つーかマジでヤんなるよなー! 久々に帰ってきたと思ったら、沙希ちゃんまで同じ顔してんだもんよー」
ぼんやり回想していた私の意識を、思い掛けない言葉が引き戻す。えっ、と視線を戻したそこには、今まさに大人と子供が同居してるような表情で、ははっと笑う、16歳の啓吾くん。
物凄く勝手なことを思ってしまった。止まれないならせめて、と。せめて、あんまり急いで大人にならないで。ひっそりと、でも強くそう願った。
――うっかりどきっとしやがった心臓を、コラッと叱咤しながら。
『たまにご飯を食べ行ったりしてる人』からメールが来たのは、その日の夜のことだった。私の命綱と呼ぶべきコミュツールに全くアクションしない日が続いたことで、いよいよ心配になったらしい。
ただ啓吾くんには言いそびれてしまったが、私にとって今の状態は正直微妙なのだ。何故ならその相手というのが仕事絡みでそこそこ付き合いの長い人だから。
元は私がフリーになる前に勤めていた会社の先輩で、当時彼には彼女がいた。
ふたりが別れて暫く経つが、何となくそんな気配が覗えるようになったのはここ数ヶ月ぐらいのこと。
――返事は待つ、付き合ってくれ、と言われたのが今月の頭。
「しかし……捨てたっけか? 私」
みづ穂ちゃんに聞かれたことで、自分はどんなレポートを書いてたっけ、と昔の自分の部屋をがさごそやり出したはいいけど、どうもそれらしきが見当たらない。ひょとして弟にやったパソコンの中にしか残ってないかも?
うーんと額に手をやっていたら、ふと目に留まった本棚の中の『空座第一高校』の文字。しばしそれを見つめ、背後のソファベッドに寄りかかって天井を仰ぐ。
「本気で好きな子、かぁ……」
遠い昔、校門で待ち合わせて帰るだけで心臓ばくばくだった私は、あの時の彼の何がそんなに好きだったんだろう。今となってはよく分からない。でもめちゃくちゃ好きだった、という記憶だけはやけに鮮明だ。
それを思うと今の自分がいかに打算的な視点に囚われているか、情報過多に溺れ、シンプルに考えられなくなっているかを思い知る。何だかここ数日、そんなことの連続だ。
何となしに携帯を手に取り、諸々の通知のひとつからネットに接続してみる。が、やはりズラズラと並ぶ文字やアイコンを見ても、ただ雑多な記号が頭の中でざわざわとひしめく感じがするだけ。
その記号の合間を縫って頼りなく、ゆらゆらと、何か気泡みたいなものがひとつ、またひとつと昇ってくる。
多分、ほんとは
――「沙希ー、 梨むいたけど食べるー?」
「…………食べるー」
ひとつ息を吐いてさっと液晶をなぞる。そうして受信フォルダを開いて手早く返信を済ませた私は、追憶の匂い漂う自分の部屋を後にした。