閉じ込めた夏
ピンポン、と音が鳴り、手の内の明細票から視線を上げる。開いた自動ドア。もわりとした外へ踏み出せば、じりじりと容赦なく照りつける日差しを感じて空を仰いだ。
生温い風にゆったりと揺れる街路樹の緑。その動きに合わせ隙間からチカチカッと、パッシングさながら明滅する白い太陽。ぼんやりとした私の頭を、警告音のような蝉たちの声が通り過ぎて行く。
ミ゛ーーンミ゛ンミ゛ンミ゛ン ジーー……ミ゛ーーンミ゛ンミ゛ンミ゛ン ジーー……
――なんでだろ。
細かい案件の入金を加味しても、今のままでは持って3、4ヶ月といったところ。でもそんな状況だって、別に今までにも何度かあったのに。
いつもならここで、すぐに携帯を開くぐらいだったはず。開いて、電話帳や受信メール、SNS、つぶやきツール、あらゆる食いつきどころを洗う作業を始めるはず。
どうしようか、なんて考えもしなかったはず。
ピンポン、と再び鳴った開閉音。ついと横を向くと、見るからに暑そうなスーツ姿のビジネスマンが私の脇を過ぎてコンビニに入って行った。とにかく明細をしまおう。そう思って財布を開くと、昨夜の分のレシートが目に入る。そういやこれも、会計ソフトに打ち込まずに寝ちゃったんだった。
あんなに必死で習慣づけたのに。朧な頭でそう思いながら、けれど私は殆ど無意識に今日の飲みの約束をキャンセルするメールを送り、続いて自分でも思いも寄らぬ先へ電話していた。
「もしもし――いやそれがさ、やっぱ帰れることになったわ」
ちりん、と風鈴が鳴る。父の一服場所であるバルコニーのウッドベンチに腰掛けた私は、愛犬のシャンプー用たらいに水を張って足をつけ、缶ビール片手にぼんやり外を眺めていた。
――途方に暮れていた、と言うべきか。
「もう、勝手なんだから!」ブツクサ言われつつも、急に帰ることにした私の為に手巻き寿司の用意がされていたり、何だかんだ家族は温かかった。
でもそうは言っても盆明けの遅い帰省。日中、両親は共に仕事で出てるし、地方の大学に通う弟とは今回そもそも顔を合わせていない。
ある意味、それが救いでもあった。
同じ都内に住みながら、忙しいを理由に顔を見せなかった娘がいきなり帰ってきた。それについて良くも悪くも当然のように、どうかしたの? と聞かれたものだけど。
仕事に必要な物は持ってきた。次の納期は少し先だし、せっかく帰ってきたから少しゆっくりするーなどと言った私を、両親は微塵も疑うことをしなかった。
それから数日、環境を変えたことで少しはモチベーションも上がるかもと安易に考えてたが、持参してきたタブレットを開いても携帯を開いても、単に文字を追ってるだけ、という感じで情報は少しも頭に入ってこない。
参ったな。パシャリパシャリと足を動かしつつ、うわ言のように呟いたところで、更に私を『参ったな』と思わせる声が響いてきた。
「あ、いたいた! 沙希ちゃん、やっほー!」
マンション裏手。遥か階下から満面の笑顔で両腕をぶんぶん振っている人物がひとり。それに応えるように、さっきまで窓際のフローリングにぺったりとお腹をつけて寝ていた愛犬が、アン! とひと声。
――沙希ちゃん、かぁ。
「おおモコ! 今日もいい子にしてんなー? 俺もいい子だから今日も沙希ちゃんに宿題手伝って貰うんだぜーい!」
「……そんな約束してないよ、赤点少年」
「ちょっと沙希ちゃん、それ言わない約束だろ!? ご近所中にバラす気満々じゃねーかよう! 大体みづ穂はよくて俺がダメとかずりぃーしー! つーことですぐ上がるから!」
ンパッ! と熱烈投げキッスをして見せるが早いか、ルンルンでエントランスの方へ消えてしまった彼。いや、レポートのコツを教えて欲しいというみづ穂ちゃんと、他力本願で宿題やっつけようとしてる君とは違うだろ……ぐらい言わせようよ。
ああ、ほんとに失敗した。というか迂闊も迂闊、本気でどうかしてた。額に手をやりハァと息を零した私の頭には、帰省した翌日の出来事がよぎっていた。
ほんの思いつき、ちょっとした懐かしさからだった。
その日の夕方、頼まれた愛犬の散歩がてら、私は嘗ての通学路をぷらぷらと辿っていた。部活帰りの子たちだろうか、チラホラすれ違う現役高校生たちを、かわいいなーなんて横目に見ながら。
「あれ、モコ……? つーか、え、沙希ちゃん!?」
休憩ついでに駄菓子屋の前でひとりラムネを傾けていたら、不意に名前を呼ばれた。見ると、通りの先からこちらへ向かってくる制服姿の男女6名。内ひとりの男の子が、思いっきりこちらを指さしている。
「あれ? 啓吾のマンションのお姉さんだ」
私が反応するより早く、彼の隣にいる小柄な男の子が口を開く。ああ、何か見たことあるような……? ぼんやり記憶を辿ってたら「沙希ちゃーん!」と再び私を呼んだ本人が猛スピードで目前に迫っていた。
「何だよーいつの間に帰って来てたんだよーぅ! 俺ぜんぜん知らなかったんだけどー!」
「うん、昨日の夜に帰って来たばっかなんだ」
「そっかそっかー! つーかいつ以来だ? とりあえずめちゃくちゃ久しぶりじゃね!?」
「……背、伸びたね、啓吾くん」
男の子の成長スピードって凄いな、と改めて思う。
最後に見たのは確かまだ中学生。私の記憶の中の啓吾くんは「モコの方がよっぽど静かでお利口さんね」とおばさんに苦笑いを零されるぐらい、まだ元気いっぱいに甲高い声を出していた小さな男の子だった。
だが頭上から凄い勢いで降ってくるハイテンションな声も、今ではすっかり声変わりを果たした男の声。白い半袖シャツから伸びる少し日に焼けた腕には、薄っすら血管も浮いている。
「あっ、そこ気付いてくれちゃった? そーそー俺様バリバリ成長期! このまま行くとユウ兄も越しちゃうかもってな感じでさぁー!」
「啓吾ー! あたしら先帰るねー!」
「僕たちお先に失礼しますんで、すみませんがそこの、よろしくお願いしますー」
少し離れたところから様子を覗っていた啓吾くんの友達。その内のウルフっぽい髪型の女の子が切り出したそれに先の小柄な彼が続く。多分、啓吾くんとは同じ中学だった子。
「良かったじゃねぇか、ケイゴ。今日は水色にイヤイヤ付き合って貰わねぇですんで」
次いでオレンジの髪の少年がニヤリとした顔で言うと、何のフォローも無く「じゃあね浅野くーん!」とロングヘアーの可愛い女の子がにこにこと手を振り、ガタイのいい色黒の彼も無言で片手を挙げた。
「ちょ、そこのって俺!? つーか今までずっとイヤイヤだったの!? ねぇ!」
見た目は垢抜けた今時の高校生。でもあのみづ穂ちゃんの弟だけあって、いじられキャラは変わらないらしい。思わず、ぷっ、と吹いた私に気付いた啓吾くんは、むぅぅと口を尖らせ、何だか決まり悪そうにふいっとそっぽを向いた。
うわ、なにその素直すぎる反応……!
よっぽど、何だよー沙希ちゃんまでー! とか言うと思ったのに。
同じフロアに住む浅野家の姉弟と比較的歳の近いうちの弟。それぞれ共働きの家なこともあり、ひとり歳の離れた私は3人の姉というより半保護者に近かった。
ちっこい彼らがギャン泣きしたり、クソ生意気な口を叩くようになった過程も見てきた身としては、そんな可愛くお年頃っぽい素振りをされては面食らいもするもんだ。
しかし啓吾くんの真っ直ぐさはそんな態度に限った話ではなく、どうも私は徐々にその空気にあてられでもしちゃったらしい。
川沿いの帰り道。とことことこ、と前を歩くモコ。長く伸びたふたつの影。
今日は、あのオレンジの髪の少年が助っ人として駆り出されたバレー部の練習試合だったそうで、皆なでひやかし半分で応援に行ったとのこと。ああ、それで夏休みなのに制服なんだ。
都心にほど近い自分のマンションの界隈に比べ、今のこのくらいの時間なかなかいい風が吹くんだなーなんて思いながら、私は、へえ、という感じで啓吾くんの話に耳を傾けていた。
「……なんか、さ。あった?」
突然だった。
ひと区切りついたところで、さっきまでの楽しそうなトーンが嘘みたいな落ち着いた声で聞かれ、えっ、と反射的に私は彼の顔を見た。
「や、なんか分かんねーけど……元気なくね? 沙希ちゃん」
首の後ろをさすってほんの少し口ごもった啓吾くんは、横目でちらと私を覗いながら曖昧に笑う。でも聞くんだ? そんな気まずそうな顔で。
何だかおかしくて、私は本当にぽろっと、口を滑らせてしまっていた。
「……少し、疲れてきちゃったかも。情けないけど」
それって仕事? と聞いてくる啓吾くん。どう考えても話してもしょうがない相手。馬鹿みたいだ。今度は私が曖昧に笑う番だった。
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