← (3/7) →本当は彼が忙しいのをいいことに、私も逃げてる。
「……なぜ言うことが聞けない」
真夜中の自室にひとり、ベッドで膝を抱える私の耳に届くのは低く落ち着いた、冷たい声。
「君自身が言った『そうかもしれない』、あれは僕の聞き間違いかな」
「……言ったけど」
――言ったけど、その通りにするとまでは言ってない。
喉まで出掛かった言葉をぐっと堪えて押し黙ると、携帯の向こうからまたあの大きな溜め息が滑り込んでくる。鼓膜から浸透するそれが、ここのところずっと私の内に巣食っているモヤモヤを更に大きくする。
口にしたら最後、いつもと同じように『言った・言わない』の応酬になるだけ。そうして結局は口が立つ彼に、それは言ったということと同義だよ、というような言葉でむりくり説き伏せられるだけ。
この地球上に、こんなやりとりが一体いくつ転がってるんだろう。
それでも少し前までは、まだまだ自分が子供なんだ、と彼の言い分を受け入れることも出来ていた。
「漠然とした将来に対し、精力的に動けない君の気持ちが分からないとは言わない」
だけど今の私にはもう、彼に彼氏として甘えることも、その日あったことを自分の感じたままに話すことも出来ない。
「だが実際、君が思っているほど世の中は甘くはないよ」
――疲れる。 彼の言うことはいちいち正しくて、疲れる。
と、そこで、聞きながら何となしに眺めていたノートPCの右下にメールアプリの通知がされた。クリックして開かれた小窓。ぴこんと現れたふきだしに『起きてっかバカ』と呼びかけられている。
……何でだろう。
今まで私はチャラ男だろうが真面目だろうが、何かあるとすぐ声を荒げたり無骨な振る舞いをする男が苦手で、嫌いだった。だからこそ物腰が柔らかく、私にも分かるよう教え諭してくれる、冷静且つ聡明な大人である惣ちゃんが大好きだった。
“明日の消費者行動論、出席取るらしいぞ早く寝ろ”
なのに何でか今は、こんなぶっきらぼうな親切にホッとしてる自分がいる。
「いいかい沙希、これ以上堕落したくなければ黙って僕の言うことを聞くことだ」
……っ。
「惣ちゃん、変わったね」
言えるほど僕を知ってるのかとか、変わらなきゃなんないのは君だとか、そう感じるのは君が変わったからだとか。理屈屋の彼にあれこれ切り返される前に、本日3回目の彼の重い溜め息にかぶせ、またしても私は逃げてしまった。
「ごめん、明日2限あるから私もう寝なきゃ。遅くまで仕事だったのに電話ありがとね。おやすみ、惣ちゃん」
捨て台詞っぽい私の言い様に、手に負えない子供を前にでもしたかのような気分なんだろう。ハァッ、という4回目の短いそれ。呆れて言葉も出ない、と書いてある惣ちゃんの顔が目に浮かぶ。
「……ああ、おやすみ」
今がそういう時なだけ。私の就職さえ決まれば、きっと。
そう、祈るような気持ちで私は通話終了を押した。
翌日の2限、ありがたい前情報のおかげで私と白は出席に漕ぎ付けられ、イベント前で忙しいリサの分の代返にも成功。カフェテリアの混み具合にウヘーとなった私たちは、購買のサンドイッチを片手に中庭へ向かうことにした。
「おっ、久々に見るねー六車氏が女の子あしらってるとこ」
途中、大講堂のある建物の脇で、その情報提供者がふわっとした女の子とかったるそうに喋っている姿を目撃。今日はロンTに軍パンだ。
どれどれーお顔を拝見! と額に手をかざして覗き見ようとする悪趣味な白。その腕を「ちょ、悪いよ」と慌てて私は引っ張った。
高く澄み渡った爽やかな秋晴れの下、芝生に足を投げ出しサンドイッチを広げる。
何人が告って玉砕したとか、他校の子にも校門でよく出待ちされてたよねとか、体育祭の親衛隊にはドン引いたよね、とか。さっき目にした場面から、私たちは彼をめぐる高校時代の噂話や思い出を肴にランチタイムを満喫した。
「沙希ちんとこのお店でも大人気?」
「大人気大人気。キッチンなのに酔っ払ったOLさんとかにも『可愛いー♪』ってよく絡まれてる。可愛いだよ? 信じらんなくない?」
「わっかんないよー? 数年後には沙希ちんも、あのテのタイプを『可愛いー♪』って思うOLさんになってるかもよ?」
私のバイト先はオフィス街に隣接した駅前にあってお客さんの7、8割が社会人。わりとしっかりしたフードを出すこともあって料金設定も高め。
制服もベスト着用のフォーマル系だし、彼がホールを歩いたら物凄い客寄せになるだろうけど、今はキッチンの方が人手不足。
「とかいって意外と本人と付き合ってたりしてねー?」
「は!?」
「だって何かー惣ちゃん大人だけど、沙希ちんに優しくなくなーい?」
彼氏の惣ちゃんは、2年くらい前、そんなうちの店へ社内飲みの後に流れてきたグループのひとりだった。スーツに眼鏡に柔和な笑み。正直ドストライクもいいとこだったけど、バイト中だった私は普通に受付業務をしながらチラチラ盗み見ただけ。
だけど適度に盛り上がったとこで抜けてきたのか、暫くするとカウンター前の待合席にひとり座りタブレットを眺め出した彼。ビジネスマンとしてあまりにも絵になるその姿に見惚れながら、付き合いも大変なんだろうなぁ、なんて思ったものだ。
そこで私は、どのみち飲み放つけたグループの人だしと思って、グラスに注いだウーロン茶を渡しに行くことに。
“ありがとう、嬉しいよ”
さり気ない言葉を添えてゆったりと微笑まれたその時にはもう、8割方私は落ちていたと思う。それから、付き合うきっかけになった夜カフェでの偶然の再会を合わせて3回ほど、白は惣ちゃんに会っている。
「よくわかんないけどさーあー? 何か沙希ちんばっか惣ちゃんのこと理解しようとしてる感じー」
……付き合い長いだけあって、鋭いなぁ。
歳の離れた彼に見合った女性にならなくては。分からないなりにも理解する努力はしなくては。確かに私にはそういう意識がある。
だけど彼は、自分の目線を21の大学生である等身大の私まで下ろすことは絶対にしない、そういう人だ。
“これ以上堕落したくなければ
――”
それでも、少なくとも前までの惣ちゃんは、あんなにハッキリ私を侮蔑するような言葉を使う人じゃなかった。