← (15/15) →「あらあら、市丸屋はんとこのギン坊んやないの。いつ帰ってきはったん? あんたのお母ちゃん、ずっとさびしいさびしい言うてはったさかい、喜ばはったやろ〜」
「……おばちゃんも変わらず元気そうやねぇ」
ボクんちがやっとる老舗の和菓子屋はんは、鴨川に沿うた先斗町言われる細長い通りの脇にあって。こないしてちょこっと近所を歩くだけで、馴染みのおばちゃんなんかにバンバン呼び止められるんが常。
――何年ぶりとか関係あらへん、昨日の今日やってもや。
身ぃくらましがてらあっちこっち旅行行って夏を越えて。肌を撫でよる涼風に、無性に恋しゅうなってふら〜帰って来てみてんけど。
会う人会う人お母ちゃんの話。ほんでもって「好ぇ人でも連れてきはったん?」
同し地元やのに、ボクん方が感心してまうほどよう回る舌先。べにがら格子の家より何より、そないな感じに帰って来たんやなぁなんか思う自分に笑てまう。
言うたかてええ歳して無職の放浪モン。せやけど何や憑き物が取れたよに心は落ち着いとる。全部を投げ出したった今は、何がそないに不安やって色んなモンにしがみ付いとったんかすら、よう分からへん。
ただ、全ては沙希ちゃんが自分のビニール傘を渡してくれはったことから変わった、そないな確信はある。黒い傘に隔絶された、限られたモンしか見えへん世界からボクを出したってくれて。
身ぃ寄せ合うて眠る時の安心感も、他に何や誤魔化したり紛らしたりするモンの無い、あのガランてした部屋でこそリアルやった。
……今にして思うと、そないして沙希ちゃんが自分のモン沢山の人に差し出したった結果みたいな部屋やってんなぁ。
せやからボクは、彼女に何かあげたりたかった。したりたかった。喜んで貰えへんくても、ありがとうもお返しも何も要らん。そう思わしてくれよる存在がおる、そん事実がボクに安心をくれた。
せやから今はただ、案じるだけ。上手いこと頑張れとるやろか。ちゃんと寝て、ちゃんと起きれとるやろか。さむがってへんやろか。
泣いてしもてへんやろか。
「雨……?」
ポツて頬に落ちた冷たい感触に空を仰ぐと、灰色の雲から透明のこまい線が薄っすら伸びとって。すっかり色づきよった紅葉の赤が、それを浴びて小刻みにこうべを垂れて見せては、戻る。
もうちょい歩きたい気分やってんけど、おつかいで買うたモンが濡れてまう。
「ただいまぁ」
「遅かったやないのーさっきあんたに女の人が会いに来はったんよ?」
仕方なしに戻って自分んちの戸を引くと、カウンターに商品並べとったお母ちゃんが何や妙に怪訝そな顔を上げはった。
「すぐに戻るからここで待っとって下さい言うたんやけど、また後で来ますー言わはって……」
「……それてどないな人やってん?」
何でか、予感がしててんや。
「えらい綺麗な人やったわぁ、何やザラメ糖みたいな色の瞳したはってー……ギン?」
――帰って来て、初めての雨やったから。
傘を手に店ぇ飛び出したったはええけど、逢いたい焦燥と心配が募ってごちゃ混ぜんなってわけが分からへん。
ボクが見っけたらなアカン。
せやけど、そないなモンは花小路を抜けた先ですぐに杞憂に終わった。ごっつ眉間にしわ寄せて地図に目ぇ落としながら、角ん店先で雨宿りしとる
――。
「……っ、沙希ちゃん!」
「あ、ギンだ」
ちょい痩せた気ぃする彼女は、でもボクを見るなりふわって顔を綻ばせたってくれた。せやけど、いざ逢うたら何から話したらええか分からんくなってもて。
「……どこ見に行くつもりやってん?」
「清水寺」
「うわぁ、ベタベタやん。たぶん今、めっっっちゃ人多いで?」
「げんを担いどこうかな、って……」
ああそか、お店出すんやもんなぁ言うたら、それもあるけど言うて、彼女はこっちを覗うよに首を傾げよった。艶やかな唇が、まぁたちょっと悪戯っぽい形を描き出しとって
――噛み付きたなる。
見惚れるボクをよそに、沙希ちゃんはそのまんま店先から一歩踏み出しよって。
慌てて掲げたった傘ん下からボクんこと見上げると、クスて笑て言いよった。
「……ナンパが成功するように」
ゼラニウムの花言葉:
君ありて幸福
−END−
2010.7.18