← (13/15) →最初に喜助さんにお店の話を持ち掛けられたのは、まだ私が就職について迷っていた頃だった。
そもそもにして胡散臭さいっぱい。当初はそのとんでもない申し出に「この人、頭大丈夫かな……」とさえ思ったものだ。だけどそれも、その段階でオイシイ話をぶら下げられて喰い付くか否かを計る、喜助さんによるテストだったようで。
“何年でも待ちます、ゆーっくり考えてみて下さい”
そんな大層な野望など欠片も無かった私が丁重にお断りの旨を告げた時、彼はやけに嬉しそうだった。
その後唯一の拘りを胸に、ここも違う、あそこも違うを繰り返して辿り着いた鏡花水月は、限りなく理想に近い優良店だった。
――私にとっては。
お客さんの好む店やキャストのタイプが千差万別であるように、当前働く側にも好む店や客層がある。つまりは結果、こういうスタイルで働きたいという私のそれと鏡花水月が合致したに過ぎない。
けれど頼んで来て貰うことに意味を見出さない私と同じように、自分自身で勝負しなければ意味がない、そう思う女の子だって少なくない。
“ホールに出たら自分という人間は殺しなさい”
それ故に、自我を出さないことを店側から強いるような藍染店長のこの方針だけは、ずっと疑問だった。
店なんて星の数ほどある。自分にここが合ってるならそれでいい、とも思う。
けれど自分の気に入る店であっても、自分のお客さんが気に入るとは限らず、またそこに馴染めるかどうかも入ってみなければ分からない。そういったリスクを背負って店替えをする、その際に要するパワーを識らないわけでもない。
“あなた自身が選択肢のひとつになっちゃーみませんか?”
当時の何倍もの顧客数を掴むに至るだけの年月を経て、もうその意味が分からない自分ではなくなっていた。けれどいくつもの夜を越える内に、耳に、目にした知識は、あたかも自分が体験・体感したかのように肉付けされて。
例えば、ママとはこうこうこういう立場だから大変だとか、今はこういう景気だからどうだとか。
勝手な理詰めで構える一方、本当に時間は正しく流れているのかと疑わしく思えるほど、毎日が平坦で無感動なものに映る。そんな私が店を出すことは、あの頃とは別の意味で大それた話に他ならなかった。
だけど、漸く思い出した。
好奇心のままにこの世界へ飛び込んだ時、初めての就職と退社、形式の違ういくつかの店へ移ったその時々。良くも悪くも、私にはもっと瞬発力があった。そして『初めて』は、いつだってそうした瞬発力を以って決断した先に溢れていた。
「言ってなかったかと思いますが、私は『みなづき』からこの仕事を始めています。ですから恩を仇で返すような真似はいたしません」
「ほう、卯の花ママの……確かに初耳だ。だが一体何をしてくれるというのかな」
「それなりの実績を作った者が店を出す、となれば鏡花水月の箔もつくのではないですか?」
「……言っておくが、ここはホールではないからね?」
――だからこのシナリオの結末を担うのは、ギンじゃなくていい。
私が次なるステージを目指すと決めた以上、ギンが私に気兼ねする必要もなくなる。送りの車の窓に走り始めた雨の線を見ても、感謝こそすれど悲観することなど何も無いと強く思った
――家に帰るまでは。
カチャリ
と鍵を開けると、その先に全てを飲み込む暗闇が広がっているような錯覚を覚えた。
バタン
と扉が背中で閉まると、今度は肌をなぞるようなシンと深い静寂が気になった。
“チャンスボトルやてピッチ上げて呑み過ぎたんと違う? お水持ってきたるさかい、ちょおここ座っとって”
パチン
と玄関の照明スイッチを押して靴を脱ぎ掛ければ、出しっぱなしの和柄サンダルに目が留まる。少し性急に進めた足は、リビングに繋がる扉を開いた途端、縫い止められたように動きを失くした。
“うわっ、えらい殺風景やなぁー……”
“ここでちゃんと越冬出来るん?”
“干し柿に豆乳て合うかなぁ?”
誰もいない見慣れた部屋に、たかだか1ヶ月ちょっといただけの存在の声が煩い。煩くて、息苦しい。
とにかく窓を開けようと重い踵を上げ、一直線に突き進んでカラカラとそれを引く。
“匂いよるん?”
しとしと、なんていう音では足りない。延々木霊するそれが煩くて、痛くて
――。
さむい
ギンが私をどんな風に思っていようと、それが嘘でも本当でも何でも良かった。例え何も思われていなかったとしても、かまわなかった。
去って行ってしまった人を思っても体なんか温まらない。そこにギンがいる、ということだけが私には大切だった。大切だったのに。
この空間の全てが居た堪れずペタンと膝を折ってその場にへたり込めば、同時に床についた右手のドレスケースが歪む。
「……嘘つき」
似合うなんて言って 見たいなんて言って
――泡沫夢幻が如く消えるなら、ミルクフォーマーも持って行ってよ。
けれどそんな声に出来ない声が届いたかのように、鞄から響き出した振動音。そろそろと取り出した器械の表示を見、少しの迷いの後に静かに通話を押した。
「……どういうことなん」
頭に響く声と耳に届く声とが重なり、唇の端が頼りなく震え出すのが分かった。出来るだけ窓際に寄り、淡々と紡ぐ語調が震えないよう細心の注意を払ったのに、どうしてかギンには通用しない。
「……やっぱりギンは雨男だね。でも予想では週末頃に明けるって」
それでも私は否定も肯定もしないで、それとなく雨音だと匂わせる。
「週末……何や早い気ぃするなぁ……」
「……名残惜しいくらいが丁度いいのかもね」
電子レンジで豆乳を、あ、その前にお湯を沸かしておくべきなのかな、それともドリップの用意かな。沙希ちゃん、と苦しげに呼ばれた声を聞きながら、私はギンが作ってくれたソイラテの工程を必死で思い出そうとしていた。