← (11/15) →「……いっちょ前に飽きたなんて言って、私もまだまだですね」
クリスタルボトルを傾けながら思わず零れた苦笑。チューリップ型のグラスに琥珀色が落ちる。純日本人ながら色素の薄い家系に生まれ、この仕事に就いてブランデー色の瞳だと数え切れないほど言われてきた。
そのふたつに再び喜助さんの姿を映すと、彼は糸のように細めた目で藍染店長を一瞥して言った。
「腹、立たないんスか……?」
「かわす手立てが無かったわけじゃないですから」
まんまと術中にはまり体の良い駒にされていた、そのことだけを思えば多少悔しくはある。喰えない人であることに変わりはないし、表向き優良店舗の店長を通す方が彼にとって何かと都合が良いのだろうとも思う。
だがそれを差し引いても、今まで好きにやらせてくれたことへの恩は余りある。
「……夢を、見てみたかったのかもしれません」
色恋のごたくさに一番近いような日常にいて、その実かなり遠いところにいる嘘つきなギンと私。実際、夢を売るという言葉にそえるほど、そのひとつひとつは手放しで綺麗などと呼べるものではなくて。そこにいる自分も、当たり前に綺麗な存在なんかじゃない。
けれど引け目を感じたことも無ければ、かと言って一流への拘りも、のし上がりの志向も無い。ただ、色々なものを見れるこの世界が好きだった。
だからこそ辞めたいと思った。
見せることに食傷し、耳年増に拍車掛かる一方で見る人話す人同じに思えて。
わざとルールを破るよう仕向けられることにすら、久々に犯人の分からない推理小説を読むような新鮮さを覚える。
――私なら、金を払ってまでそんな女と酒を呑むのは御免だ。
「……それで、イイ夢は見れました?」
「ふふ、『初めて』を沢山味わいました」
風紀は勿論、あんな形で自分のテリトリーに人を入れたのも、ただ寄り添って眠る日々も、素を見抜かれたことも、ふわふわを作り出す器械も。
識らないことはまだある。それを実感出来るだけでも毎日は確かに違って見えた。
でもあの唐突なキスと今夜の当欠を思えば、それもきっと、もう終わり。
――だけどギン、こんなのは違うよ。
喜助さんが帰って以降、私は期待通りふらりと現れた新規のお客さんから場内指名を頂くことが出来た。しかしその人が帰ってからというもの、暫く完全に店空な状況での待機と相なった。
元より過ぎる時間を長いものにする待機の時間は好きじゃない。とりわけ今日に至っては良くない逡巡が止まらず、ヘルプでも何でも客席にいたかった。
全ては最初に思っていた通り。つかの間の虚飾劇が終わっただけ。その時期が少し、早まっただけ。
――なのに。
この狭い箱の中で携帯片手に座り続けて、私は何をやってるんだろう。
この時間は何? 何で私はここにいるの? 何の為に? お金? 生活?
分からない。似合うと言われた色の衣装を纏っていても、それを楽しみだと言ってくれた人はいないのに。
いっそ巧みな弁の上に乗せるでもして、営業でも何でも容赦なくかけてはくれないだろうか。この短い日々に記憶された温もりの余韻など、そんな、よくある無情な現実というやつでさらりと消し去って欲しい。その余韻は多分、絡みついて少しずつ痛みに変わるから。
「ちょっといいかな、沙希くん」
きた。
俯いた顔を上げた先には、何か含みのある表情をした藍染店長の姿。同時に私は、この居た堪れないループを続ける思考が遮断されたことに、ほんの少し胸を撫で下ろしていた。
小奇麗に整理された事務所に藍染店長とふたり。掛けなさいの言葉に従い、応接セットと言うにふかふか過ぎるソファに腰を下ろす。同じようにその低く艶のある声に促され、この人を前に面接を受けた頃が懐かしい。
「良い色だね、よく似合っているよ」
「ありがとうございます」
こういうさりげない言葉を掛けてくれるところが素敵だと、彼に絶対的な敬愛を寄せている桃ちゃんの顔が浮かぶ。くすり、と微かな笑い声を発し、薄っすら弧を描き出した口元を見るともなしに見つめる。
頭は驚くほど冷えていた。
「……ふ、君は変わらないね。自我はいくらでも殺せるが一貫して誰のものにもならない。この仕事は天職と言えるだろう」
「ありがとうございます」
「ギンのことも、男の征服欲を掻き立てるその目で取り込んだのかな?」
「……仰る意味が分かりません」
不自然のない受け答えのリズムを意識しながら淡々と返せば、眼鏡の奥の瞳が僅かに細められた。怒りも何も感じない。ただ自分の立場で成すべき姿勢を崩さない。頭にあるのはそれだけ。仮にギンがこの人に洗いざらい報告していたとしても、それを認める言葉を私の口から発するわけにはいかない。
「まぁいい、とにかく君のおかげでギンを引き止めることには成功した。感謝しているよ」
「……よく分かりませんが、何かのお役に立てたのであれば光栄です」
現状、そして将来的にもどちらが藍染店長にとって有益であるかは明白だけど。
現段階で成功したと言い切るということは、ギンがあの人に切られた事実にはまだ気付いてないのかもしれない。
「ところで君の方はどうなのかな。実は今日、店に来たギンに君を辞めさせてあげて欲しいと頼まれてね」
「……おかしいですね。私は藍染店長の他にそのお話をしたことは無い筈なのですが」
少しの驚きと思案するふりを装いつつ、思った通りのギンの意図を知らされた胸中に落胆が広がる。だが事実、私はギンの前で辞める云々の話をただの一度もしたことがない。
まして、こんなことを望んでもない。
“色々見てきて構える気持ちもよーく分かります。だけど沙希サン、あなたの求める『初めて』も沢山あると思いますよ”
同時に頭に過ぎる、先ほど帰りしなの喜助さんに言われた言葉。ふと、残す30分程度で日付が変わることを告げている壁の時計に目が行った。長く、こうして勤務中に明日を迎える生活が私の日常であり、そうやって毎日は隙間なく続いているのだと今更に思う。
「……確かそのお話、開店前のA卓でしましたよね?」
――屁理屈や揚げ足取りになろうと、いつだって逃げ道は作っておく。