← (10/15) →パンプス越しにも伝わる、冷め遣らぬアスファルトの地熱。亜熱帯の夜空の下漂う、みっちりと纏わりつくような湿気。肺に取り込む酸素はサウナのそれを彷彿とさせ、くらくらする頭にはふわふわとした浮遊感をも伴う。
立っているだけでも端から体力を奪われる中、ギンと出会った日のように、またタクシーが捕まらない
――漠然と、何か嫌な予感がした。
『及ばざるは過ぎたるに勝れり』
どうにも堪える暑さに、言い得て妙な在りし日の武将の言葉が過ぎる。
暑さは人を狂わせる。高温で歪んだ空気を取り込み、熱に侵され、浮かされた頭は徐々に正気から遠ざかる。
アルコールによって引き出された熱が感覚を鈍らせ、気付いたら馬鹿高い酒を傾けていた。これしきは序の口。芹沢沙希というホステスに自分に都合の良い妄想を抱き、育み、ひとり歩きさせた挙句、
――俺は沙希を死ぬほど愛している。こんなに愛しているのだから、沙希もきっと、俺を愛しているに違いない。
なんていう目も当てられない理不尽な飛躍をも、存外易々と成し遂げてしまう。自分しか見えなくなるような熱に溺れた愛し過ぎもまた、愛してないに等しい。
視界を横切る車の群れをぼんやり見つめながら、そっと唇に触れ、生温く柔らかい感触を思い出していた。
開店前の店に着くと東仙さんがひとり、何か慌し気にホールやキッチン、事務所などの出入りを繰り返していた。
「おはようございます」
「ああ君か、おはよう」
俄かにざわつき出す胸の内を潜め、いつもと違う店内の様相をさも今ふと疑問に思った風に聞いてみる。
「……あれ、市丸さんは?」
「事情があって今夜は自分の店に戻らねばならないそうだ。定時に当欠させてくれと言いに来た」
カランコロン……カランコロン……
と、そこでエレベーターホールから響いてきた小気味良い音に、私の胸は微かな動揺に揺れた。
「こんばんはっス〜」
ゆるい声と共に現れたは案の定、下駄に半纏、目深に被ったストライプの帽子。右手には、いっそ気持ち良いほどにミスマッチな花束。
「……まだ開店前ですが?」
見慣れない胡散臭い人物の登場に、すかさず眉をひそめた東仙さんが訝しげに覗いながら尋ねる。
「おっと、これは失礼いたしました。いつもお世話になってますー。すぐ近くで浦原生花店っていう花屋をやってる者っス」
「ああ、浦原生花の……しかし、配達にはいつも珍妙な髪をした強面の男が来ているが……」
「ええ、彼はアタシの店の従業員サンっス」
『アタシの店』という言葉の意味を理解したのか、東仙さんはなるほどというようにニ、三度頷いて見せていた。が、次いで私を見て取ったその人が口にした台詞で、東仙さんの眉根は再び寄ることになった。
「ちょっと見ない内にまーた綺麗になっちゃったんスねぇ、沙希サン」
「……お久しぶりです、喜助さん」
確かにこの浦原喜助という人物は、この一帯の飲み屋とその利用客から重宝がられる繁華街型生花店の店長、でもある。
VIP席と銘打ってはないが、鏡花水月にはオーガンジーカーテンに仕切られたほんの少し料金に色のついた別席が設けられている。そこをはらりと捲って姿を見せれば、扇越しの口からくぐもった「んまぁ!」とかいうわざとらしい声を頂戴した。
配達ついでに少し呑んでっても良いっスか? と臆面もなく言ってのけた喜助さん。ギンが不在の朝礼を終えるまでこちらでゆるりと待ち、こうして開店と同時に口開け客となった彼に私は呼ばれた。
「いやーしかし更に見違えましたねぇ! ささ、こちらへいらして下さいな」
自分の隣をポンポンと叩いて催促する素振りさえ、昨夜話した私からすると別の好奇心丸出しにしか見えない。仰せの通りに腰掛けると、去って行く東仙さんの姿を帽子と扇の隙間から見送ってから、
ぱしん。
閉じた扇子を懐にしまって、にこり、と笑いかけられた。
「こんなことならとっととアタシも理性の箍を外しとくんでした」
「……外す箍があったように見受けられたことも無いですけど」
この喜助さんという人とは、まだ私が学生だった時分にひょんなことから出会い、今では京楽さんを凌いで最も長い付き合いになる。といっても彼は私のお客さんではない。いや、正確に言うと一時お客さんになって私を試していた時期もあった。
「まーアタシが何よりあなたに惚れ込んでるのはこの仕事に対する姿勢っスからねぇ……まま、さておき乾杯といきまショ」
「……配達に来てルイを開けるお花屋さんなんて、聞いたことないです」
「ふふっ、残念ながらあんまり長居出来ないんスよ。それでも出来得る限りの貢献を、と思いまして」
名前こそ通ってはいるが正体不明で有名、この変わり者の資産家と私の間に色恋の絡んだ利害関係は存在しない。加えてこの奇妙なコネクションの存在を知る人もまた、殆どいない。それは無論、珍しく自らホールに立って眼鏡を光らせている藍染店長とて例外ではない。
「でー本題なんスけど……結論から申し上げた方がいいっスよね?」
その一転して神妙になった目つきとトーンの落とされた声に、私は瞬時に望まない予想が的中していることを悟った。そこに何らかの心配を覚え、わざわざ表立って店まで来てくれたことも。
『メビウスの輪』
最後のほんの気まぐれ、藍染店長の策に乗っかるふりをするつもりだった私が陥った罠。
表向きギンが出されただろう条件は、私の決心を改めさせ、且つ金を使わせてより辞められないよう仕向けること。その間、藍染店長の懐には私のキャストとしての売り上げ、及びギンの客としての飲み代、両方のアガリが舞い込む寸法。
とはいえそんな条件で辞められるとギンが本気で信じていたとも思えない。けれど何れにせよ、恐らくこのシナリオにはどちらも正当に辞められるなんていう筋書きは初めから存在しない。
――私は、管理風紀を差し向けられる体を装った管理風紀をさせられていた。