← (8/15) →「風邪引くよ」
明け方近く、駐車場から一瞬でずぶ濡れになったと言うギンの頭に、バスタオルをぽふんと被せて。
そのままわしゃわしゃしようとしたら、ハシと腕を掴まれた。
「……おおきに。せやけど自分でやるわ」
そう言ってエレベーターの隅に長身をはめたギンは、未だ水滴の滴る銀髪に自らタオルをあてがった。光沢感のある黒地に、薄くストライプの引かれた見慣れないスーツ。所々水分を含み、濃淡が生まれているそれを纏った濡れ鼠のギンは、明らかに様子が変だった。
自分の部屋の階に着き、目的の扉が近付くにつれ徐々に私の背中からギンの気配が遠ざかる。時間も時間なので、とにかく先にその前へ行って鍵を開けた。
「……ふわふわの乗ったソイラテ、作りに来てくれたんじゃないの?」
「ウン、作りに来てんよ……やけど今んボクにはよう上がられへんねん」
“車、スーツ、シャツ、指輪にネックレスに時計……”
取りに帰るそれらを読み上げ確認していた姿と目の前のギンとを照合、なるほどあの素敵な人のセンスだけあると感心した。
「雨も滴る良い男、じゃないの?」
「ふ、冗談きっついわぁ……」
……。
「徹底して嘘ついて店に通って貰うのと、それ以外へも投資して貰ったお金持ちに体と時間使って奉仕すること、どっちが汚くてどっちが綺麗なの?」
平たく言えばホステスもホストも、店という空間に属した個人事業主。大っぴらにするしないは別にして、その営業の一貫としてお客さんと寝るも寝ないも個々の裁量であり自己責任。
情動と理性は絶えず脳内でせめぎ合うもの、水と油のように綺麗に分離なんかしない。
「別口座のヘソクリ使ってせっせと店に通う旦那さんと、薬指に指輪はめたまま若いホストを囲うセレブな奥様、どっちがどれだけ不義?」
「沙希ちゃん……」
線引き出来るとすればただひとつ。宝くじよろしく金を払って夢を買いたい人は買う、買わない人は買わない。それだけだ。そして金盞花のナンバーワンが、その夢を売る商品として気に入られ続けることの難しさ、大変さを知らないはずがない。
「それで……ふわふわを作る為にずぶ濡れで午前4時に現れる色男と、梅雨の蒸し暑い今も寒くて寝つけない体温調節が下手な女は……ふふ、どうしたらいいかな?」
そろりと伸ばされた手。ふんわりと私を包み込んだギンの腕の中は、雨の匂いがした。
ピーというレンジの音を合図に手招きをされ、私はいつになくそそくさとキッチンへ向かった。
これと決まった瞬間から徹底して見せて貰えずにいた私は、カウンターにある不思議な器械を改めてまじまじと見つめた。附属のスチール製のスタンドに立てられたそれにはコードらしきが見当たらない。電池式のようだ。
「そないなコイルが直接当たって傷つかへんかなぁ……」
「気にするほどのグラスじゃないよ」
意外と慎重なんだなぁと微かに笑みつつ、お互いが初体験ということの新鮮さに胸が高鳴る。
「ほな、いくで?」
飛び散りを考慮して流しに置いたギン。その脇から顔を覗かせてスタンバイし、コクと頷いた。
カプチーノグラスに3分の1ほどの豆乳。その中にコイルのついた先が差し込まれる。と、すぐさまその回転によって白い液体がたぷんたぷんと波打ち出す。
「おーこら凄いなぁ!」
「うわぁー早い!」
みるみる内に3倍くらいまでむくむくと成長した豆乳は、驚くほどきめ細かな本当にふわふわな泡へと姿を変えた。感嘆の息を漏らしながら、そろそろと伸ばした人差し指をペロリ。おやと思う。
「沙希ちゃん冷えとるからちょびっとだけ砂糖入れたったんやけど……アカンかった?」
「ううん美味しい。ギンも味見してみて」
私の言葉を受け、続いて白く細長い指にふわっとした泡が絡めとられる。
「お、ほんまええ感じやわ」
何や子供のつまみ食いみたいやね、ほんとだね、と少し微笑み合った後、予め用意してあったドリッパーをセット。よくよく蒸らされた粉からゆっくりと珈琲が抽出され、漂う香ばしい香りに自然と頬が緩む。
「超黄金比率、なった?」
「うん、凄い……」
喫茶店のラテのように、白、薄茶、茶、ふわふわの順に綺麗な4層に分かれたそれ。よもや天才なのではと目を丸くしてギンの顔を仰ぐと、思いのほか愁眉の寄った表情にぶつかり首を傾げた。
がばり
と、急に勢い良く抱き込まれて足下がふらついたが、背に回された腕にしっかりと支えられて踏みとどまる。
「……ボクな、今日あんお人に切られてしもた」
「えっ……なん、で……」
咄嗟に理由を尋ねてしまった自分にハッとしたが、続けてギンは堰を切ったように私に問いかけて来た。
「なぁ、優しさて何? 人に優しゅうするてどういうことなん? それが分からんボクはお客はんを幸せに出来てへんの?」
「ギン……」
矢継ぎ早に漠然とした難問を投げられて戸惑う頭に、ギンをエレベーターで発見した時の、あの素敵な人の笑顔が浮かんだ。細身の背に柔らに手を回し、少しだけ力を込めてゆっくりと口を開く。
「……あの人、ギンに会えて凄く嬉しそうだった」
そう言うと、更に力強く私を包む腕。
「ギンと『初めて』を味わえて、私も嬉しかった」
「……沙希ちゃん。逢いとうてボク、息出来ひんくなるか思た」
この短時間で大袈裟なと思いながら、じんわりと沁み渡るような温もりにそっと目を伏せる。
――その確かさに、自分が生きていると実感する。