← (6/15) →ゆっくりと運転席の窓が降り、マンションの前に立つ私を眉尻を下げた狐目が覗く。
「……ほんま堪忍」
「ギン」
何度目か分からない詫び文句に少しの窘めを込めて名前を呼べば、何か言いたげな瞳が目の前で小さく揺れて。
ややあって開いた唇からは、搾り出されたような掠れた声が届いた。
「……あとで……作ったるからな」
「うん、待ってる」
『あとで』 『待ってる』
何でもない、それでいてきちんと便利な言葉を選択したギンに私も倣う。
角を折れるテールランプの赤を見届け、分厚い雲の広がる夜空をひとり仰いだ。
――雨は上がっていた。
すぐにそれが、市丸ギンというホストのキーパーソンと分かった。
主張し過ぎない装飾品を含め、身に纏う全てが品の良いバランスを成し、これ見よがしに高級品で塗り固めたようなえげつなさは何処にも見当たらない。
連れと分からぬよう距離を取りながら、久しぶりに見た『本物』に知らず私は感嘆の息を漏らしていた。
そうして耳に届く会話や仕草から、私の予想は確信に変わった。金盞花のナンバーワンの長期休暇。それを海外にでも行ってるのかと思っていたと言ってのける余裕。
ギンは、その素敵な人のものだった。
「……ごめんな、沙希ちゃん。ボク、戻らなアカン」
ビニール傘に当たるパツパツという音を聞きながら、ふたりで下から雨を眺めていた時、ギンがぽつりと零したそれ。けれど、とうに予測のついていた私にはギンが何故謝るのかよく分からなかった。
「エースでしょ……?」
一番の太客なんだから当然でしょう? という意味を含んだ私の問いに、何処となく決まり悪そうに苦笑し頷いて見せたギン。それから再び雨空を振り仰ぐと、車、スーツ、シャツ、指輪にネックレスに時計、とうわ言のように漏らしながら指折り必要な物を数えていた。
にも拘らず私をマンションへ送る道中も、ギンは何度となく「ほんま堪忍」と口にし続けた。急に帰らなアカンことなってしもてほんま堪忍。ご飯一緒食べられへんくてほんま堪忍。可愛いサンダル濡らすほど待たしてもうてほんま堪忍。
思いつく限り、取って付けたような見映えの悪いそれらを口にしながら、けれどギンは最後まで「ふわふわ作ったれへんくてほんま堪忍」とは言わなかった。
言葉慣れしている私たち。
嘘になる可能性を考慮して『あとで』を選んだギンの、それでも超黄金比率のソイラテを作ってあげたいという気持ちは、充分届いていた。
雨も風も無い蒸し暑い夜、けれどがらんどうのような私の部屋は今夜も底冷えしている。
テーブル テレビ コンポ トースター ポット ベッド スタンド ラック諸々 ラグ……
賃貸から越す時、一新するに良い機会と一式を捨て、気に入ったものを見つけたら買おうと思っている内に数年が過ぎた。手に入れたのは少し大きめなソファただひとつ。その上でひとり、四肢を投げ出してお客さんに返信メールを打つ。
まるで違う生き物のように私の意識を離れて動く指を眺めていたら、ふともうすぐ鳴き出すだろう存在が頭に浮かんだ。土から出た蝉は、たった一週間で死んでしまう。
――いつ、私はそれを知ったんだろう。
物は捨てられてもリセットの効かないこの頭は、夜も更けた今頃、ギンが誰と何をしているのか弾き出すことすら造作もない。
歳を重ねるにつれ毎日が駆け足で過ぎて行くように感じられるのは、日常の中の既視性が強くなるからだと聞いた。けれど、それをいつ誰から聞いたかは少しも思い出せない。いつからかそんなことの繰り返し。
数多の喜劇と悲劇の裏返し。いつの間にか知っている沢山の色々。どれも知ってはいても、識っているとは言えない色々。
毎夜ぴったりと身を寄せて眠りながらも、私とギンはセックスをしていない。それは多分、飽きることを識っている私たちが、簡単なことを『簡単』にしない為に残したささやかな遊び心。
なのに、間に合わせの温もりだと思っていたそれが、知り過ぎたこの体に何かを訴えている。
「……さむい」
横着して寝そべったまま毛布を引っ張り上げたところで、手の内の器械がメールではなく着信を告げた。画面に表示された名前に一瞬の迷いの後、そっと通話を押す。
「夜分すみません、沙希サン。寝ちゃってました?」
「いえ、起きてました」
「……辞める決心、やっぱり変わりませんか?」
……ちょっと待って。
私が辞めたらギンは、ギンはどうなるんだろう? 報酬を貰えないという金の問題だけで済む話?
もしも、同じ理由による交換条件だとしたら?
「は、い……」
「沙希サン?」
俄かに真実味を帯び始めたひとつの仮説。意図せず歯切れの悪い返答を漏らした私に、怪訝そうな声が届く。
「あの、すみません。金盞花のオーナーが誰かご存知ないですか?」
「金盞花……? 随分と意外なお名前が飛び出しましたね。ただ、あそこは会員制を謳う中でも神経質なほど閉鎖的っスからねぇ……残念ながらアタシもよくは知らないんスよ」
「そうですか……」
溜め息混じりに返したところで、ざあざあと窓を叩くような音が、携帯を当てた右と空いた左、その両の耳に聞こえてきた。
「……ん水くさいなぁー沙希サン。調べる手立てはあるアタシとご存知なクセに。アタシの話なら気にしなくてイイんスよ?」
窓の外に目を遣れば、幾重にも視界を遮る線が夜闇にもくっきりと見えるほどのドシャ降り
――何故だろう、無性にギンが泣いているような錯覚に襲われた。
「……喜助さん。私、最後の最後に取り返しのつかない間違いを犯したかもしれません」
願わくば全てが杞憂、ギンが私に見せている泡沫の夢であればいい。