← (4/15) →それなりにこの業界に長くいると、あちこちから勝手に耳に入ってくる話というものがある。アフター等の付き合いを除き、全くその類の遊びに興味の無い私ですら耳にはしていた。
会員制ホストクラブ『金盞花』
そこに、信じ難いスピードでナンバーワンになり、1年その座に君臨し続けている男がいる。毎日飽きもせず嬉しそうに干し柿を摘み、ひと度くっつくとひっつき虫のように離れてくれない、背後の彼だ。
「手ぇ握られたんが3回、腰抱かれたんが2回、腿らへん触られたんが4回」
眠りに落ちる前のソファにて、猫のように擦り寄る温もりから今夜の報告を受ける。そうだっけと思いながら耳を傾けていると、ゆるやかに腰に回されていた白い腕にほんのり力が篭った。
「素ぅで笑たんが1回」
穏やかながら何処か冷たさを孕んだ声音。明らかな非難が受け取れる。
「……笑ってない」
「いーや、笑うた。B卓で桃ちゃんにお花持って来はった人のお連れはんに着いたやろ?」
今日は桃ちゃんのお誕生日で、表には可愛らしいスタンドが立ち並び、花束を携えて来店したお客さんも少なくなかった。ギンが言ってるのは多分、本人・名前ともにピッタリで、とても良い香りのするピンクユリの席。
確かに着いた、の意味で首を小さくコクとさせる。
「そん時、綺麗や言うて笑うとった時の沙希ちゃん、素ぅやった」
「……そうだった?」
「鏡花水月のホールでは、素ぅ出さんのが決まりやん」
そんなことが分かるのはギンくらいなものだ。そう思いつつ『ごめんね』のひと言を口にする。更にぎゅっと力の篭った二本の腕も、絡まる足も、確かな温かさを伴って、ここにある。
鏡に映る花や水に映る月、目には映せても手に取ることは出来ないもの。ひと夜の夢は見せましょう。けれど所詮、夢は夢。
――鏡花水月、綺麗で良い名前。
元より向こう見ずな性分も否めないけれど、無知は時として強さにもなり得ると、今だからこそ思う。
スカウトに声を掛けられ、学生だった私がちょっとした興味本位でヘルプとして入店したのは、いわゆる『高級クラブ』と呼ばれる店だった。それから卒業、就職、退職といった表のライフステージの変化。夜は夜で、自分のやり方の通る場所を求め、何回かの店替えを経て8有余年。
誰かの誰か、そのまた誰かから聞いたような話。似たような顔。目に見えるとは限らない贈与と返礼の往還。
舌が酒の銘柄を覚える時間に比例して、当たり前に薄れ行く新鮮味や刺激。自己演出の辻褄合わせに勉強し、気まぐれに取ってみた資格も、結構な数になった。
元より物欲は薄く、目に見えて形に残るものを貰わない代わりに、お客さんとも寝なかった。
株と貯金でマンションを買い、平均出勤日数より10着と少し多いひと月分の衣装が揃った時、私の中の何かが終わってしまった。
「……金盞花、なんて皮肉な名前」
ここ最近の忙しない気圧の変化でなかなか寝付けないでいた私は、同じように寝息の聞こえない背後に向けてぽつりと告げた。
「ん、悲嘆や絶望と、誠実や慈愛いう花言葉が同列やから?」
「うん」
端的な私の言葉の裏側にある意図を、このギンという彼は驚くほど正確に読み当てる。けれどギンと私、同じように退屈を抱えるでも恐らくその中身はまるで違う。
「せやけど知っとる? もうひとつ、『忍ぶ恋』いうんがあるんよ」
ああ、なるほど。
紹介必須の会員制ホストクラブには、これ以上ないピッタリな名前だ。
私が納得した空気を察したのか、ふふっという笑いと共にかかる吐息で、首元が熱くなった。
広告の類を一切打たない鏡花水月は、関係者の人脈と口コミで集まった女の子たちだけで成り立っている。箱も小さくアットホームな雰囲気。苛烈な売り上げ争いも陰湿なイジメもなく、ボーイを顎で使うようなオラオラなキャストも皆無。
それでもギンのようなホストにとって、商品をサポートする側のボーイなんてアホらしくてやってられないものかと思っていたけれど。
驚くべき早さで仕事を覚え、今ではトレンチを持つ姿ひとつすらサマになっている彼が付け回しを担当する日も増えつつある。
寧ろ楽しんでいる風でさえあるギンは、お客さんや女の子たちともあっという間に馴染んで、ごく自然に店に溶け込んでいる。そんな光景を見る度、転がり込む先がプライベートでも愛想の良い子だったら良かったのにね、と思う。
――退屈してる人が退屈な人間といても、もっと退屈なだけじゃないだろうか。
「明日楽しみやなぁー……」
当たり前にネットで注文するつもりでいたミルクフォーマー。ふたりで外へ出ることに付随する配慮を思って億劫がる私に、ギンは一緒に買いに行こうと譲らなかった。
私が折れてからというもの、まだかなまだかなと、遠足を待つ子供のように彼は店休を待ち侘びていた。
「欲しいならベッドも買うよ」
「沙希ちゃんが要らんモンはボクも欲しない」
私に引けを取らない嘘吐きで可愛いこの生き物は、たった1年という時に一体何を見てしまったのか。確かにギンの言う通り、今ベッドを買ったところで梅雨が明ける頃には、それを私が知る必要ごと無用な物となるだろう。
「ギン」
「なぁに? 沙希ちゃん」
庇護欲か 同情か 自己投影か
それでもこの虚飾劇のさなか、嘘でもギンが私に向けている心配は拭ってあげなければいけない気がした。
「私、まだ呼吸をすることには飽きてないよ」
途端にまた腰に絡みついた腕にぎゅっと力が篭り、ボクもやでと少しくぐもった声が届く。その腕にそっと自分の手を重ね、薄暗く白んだ空より落ちる雨だれの音に耳を傾けながら、ゆっくりと目を閉じた。