歯車は回る 5
毎日毎日、色々な人の髪に触り、ハサミを入れ、カラーやパーマを施し、エクステを付け、編み、洗い、会話をする。
にも拘らず、予約を消化するだけの、まるで機械作業が如く飽和しかけていた時期があった。髪が好きだから美容師なのか、美容師だから髪が好きなのか。
卵と鶏、どちらが先か? どっちでもいいじゃん。
本当にそうか?
当時の私は、そうした疑問とじっくり向き合う時間も作らず、ただ大きなうねりに呑み込まれ右往左往するだけの、ヒヨッ子だった。
指名、効率、売り上げ、雑誌、取材、ショー、コンぺ……
自分が何者で、どこを目指し、誰に向かって立っているのか分からなくなり、体だけが生きているような感覚だった。なのに髪は切れた。だから見失った。
――大切な人の苦しいサインすら見過ごしてしまうほどに。
変わってはいけない部分が、知らぬ間に根元からぐにゃりと曲がってしまっていたと気付くのに、大きな犠牲を伴ったというのに。
変わらなければいけない部分が未だ変われずにいることすら、人に迷惑を掛けて思い知らされる。
「凹むなぁ……」
病院から店へ向かう車中、雨が伝う窓に頭をもたげながら、少し骨張った、でも意外と広い背中の感触を思い出していた。
「おはようございまーす」
「大丈夫なんですか!? 夏希さん」
昨日に続きマスク装備の私に、先に開店準備を整えてくれていたスタッフやアシスタントの子たちが口々に心配してくれたけれど。
「ごめん、実は大丈夫じゃない……つーわけで、あんま私に近寄らないどいて?」
そう言った途端、ずさーっと見事なまでに皆な私から遠ざかった。
「本当ごめん! でもどうか、サポートはお願いします!」
がばりと頭を下げると、受付にいた店長が近くのアシスタントの男の子に声を掛けた。
「悪いけど、ちょっくら駅前の古本屋行ってブリッヂ全巻買って来てくれねぇか」
「え、大人買いっすか?」
「1時の客、こないだ読みたいって言ってたんだよな?」
不意にこちらを向いて確認するよう言って来た店長に、慌てて首をこくこくとさせた。今日の1時のお客さんは、パーマ、カラー、エクステ、フロントコーンロウ、部分ブレイズ――6時間は固い。
「あ、あとで私が払います!」
「いらねぇよ、俺も読むから」
片口を吊り上げニヒルな笑みを浮かべてみせた店長は、挙句「でも夏希には読ましてやんねー」とかいう、どこぞのクソガキみたいなことを言った。
だが作業しながら長時間話すことになれば、おのずと風邪をうつしてしまい易くなるし、実際今の私にとってしんどくもある。連日のタクシー通勤に加え、病院へ行った私の懐とて決して余裕なわけでもない。
現状をきちんと把握させた上で私を送り出してくれた真子。スタッフ全員の温かいサポート。この余りある恩恵に浴する甘ったれの私に出来ることは、ただひとつ。
“気張るんやで”
結局この日、しのつく冷たい雨が止むことはなく、何件かキャンセルになった予約もあった。だが店長の計らいが功を奏し、例の1時のお客さんはテーブルに山積みになった漫画を夢中になって読み、仕上がりにもとても満足してくれた。
処方された薬もキッチリ飲み、閉店作業こそさせて貰えなかったものの何とか事なきを得、私は無事アパートまで帰り着くことが出来た。
ピカピカ光る張さんの部屋の窓を見上げ、あー帰って来たぁ、という実感からゆるゆると融解する感覚が心地良い。些か頭はぼーっとするも、今日のドーピング効果は覿面。まだ私には5階まで上れる余力と気力があった。
加湿器つけて、キスケさんに餌、しっかり飯食って、薬飲んで、化粧を落として、めちゃくちゃ着込んで、寝る!
あ、真子に電話して改めてお礼も言わなきゃだな……にしても、あのどうにも気持ち悪かった空気を吹っ飛ばす非常事態というやつは凄い。
だがとりあえずは何を考えるより体調を万全にすることを優先しなくては。そんなことを考えながら、私はゆっくり一段一段、自分の部屋を目指した。
――しかし。
ブーッ ブーッ
4階に差し掛かる辺りで振動したそれ。表示を見た私は、あちゃーという決まり悪い思いでいっぱいになった。とにかくお礼だお礼。心に決めながらぽんと通話を押す。
「おーお疲れサン、無事帰れたんか?」
「!?」
携帯から届く声と肉声がだぶって聞こえた驚きに、思わずガバッと天井を仰ぐ。
「もうすぐ着く……てか多分、真下」
「は!?」
すると案の定、頭上からタンタンタンと階段を下りる音が聞こえ、4階と5階の間の踊り場からひょことオカッパ頭が覗いた。
「……あの、今朝ほんとありがとね」
自分から掛けるつもりが、先に心配の電話を貰ってしまうという体たらく。やはり何となくバツが悪い。
「んあ? あぁー気にしすぎやて」
だがこちらはともかく、何故か真子まで何処となくいつもの落ち着きに欠けて見える。と、その時、真子の手に握られた傘の先からポタポタと雫が落ちていることに気付いた。
「俺も今戻って来たとこやってん」
見上げた先にいる真子の背後で降り続く雨模様。ちらりと前に続く階段に視線を遣る。
「そう、なんだ……」
5階へ続く階段には、斑点が無かった。
- 76 -
[*前] | [次#]
しおり
ページ:
章:
Main | Long | Menu