近くて遠い 11
「私ちょっと、車に煙草取り行って来るね」
奇妙な息苦しさと混乱に苛まれている自分を悟られぬよう、少しの苦笑いを零しながらそう告げて私は足早にその場を後にした。とにかく、ひとりになりたくて。
真子が座っていた助手席に体を滑り込ませバタンとドアを閉める。次いで脇からキーを差し込んで窓を開け、軽くリクライニングを倒し、組んだ足をドカッとダッシュボードの上に投げ出した。
フーと白煙を吐き出すと同時に鎮まり行く動悸。有害なはずが滑稽だと薄っすら思いながら、今しがたの出来事を頭に思い描く。あの時の彼女の瞳は、店長から聞いた時の比じゃないレベルで私を滅入らすほど、かつて見たそれと酷似していた。
ひとりでに沸き上がる感情と、それに戸惑う感情とがない交ぜになっているような。
だけど何より、いつもの飄々とした目つきでいて何処か苦しげで、私のそれより一瞬早く、見るなと言わんばかりに逸らされた真子の視線。
ほんの一瞬、ただ目を逸らし合っただけ。たったそれだけのことで、まるで今までの全てが水泡に帰すかの如く、茫漠とした隔たりを感じてしまった。
……なんだったんだろう。
脳裏の残像を消す如く煙草を揉み消し、単なる思い過ごしと気を取り直して私は皆なの元へ戻った。
「なぁ、アンタはどの子んオッパイがイケてる思う?」
「んー……こっちと言いたいところだけど、こっち」
「おーあたしもや。何でそう思うん」
「やー何かこっちの子は明らか『入ってる』感じがするから」
帰りの車中、私は荷物の都合で弟の車に乗ることになったリサちゃんと、後部座席でエロ本を開きながらのオッパイ談義に興じた。運転する真子には、時折ミラー越しにチラと呆れた視線を投げられ「オマエら生まれる性別間違うてもうたんちゃうか?」などと言われたりも。
だけど初対面な為か、リサちゃんは気付かなかったみたいだ。
結局、私と真子の間に蔓延った妙な空気は延々渦巻いたままで。カラカラと音がしそうな実の伴わない会話を真ん中に、噛み合わなくなった歯車を否応なく思い知らされるばかりだった。
そしてそれは、真子とふたりになったアパートまでの数十分で一層浮き彫りになった。
「……夏希、いま何考えてんねや」
今まで一度たりとも、何を考えてるのか、などと聞かれたことは無かったというのに。
「アパート、遠いなって……」
「……せやなぁ、何でやろな」
“何で、遠く感じるんやろな”
この異様な空気の共有を拒絶しているのは明らかなのに、何故こんな風になってしまったのか、その答えは分からない。分からないということだけはお互い分かってる、それが尚更気持ち悪かった。
アパート下に着いて母に電話すると、もう遅いから明朝乗って来て電車で店に行けば? と言われた。幸い、母に頼まれた中に生ものは無い。
とっぷりと日も暮れ、昼の陽気など嘘のような冷たい外気に身が強張る。だけどその痩躯に見合わない大半を真子が持ってくれたおかげで、寒さに震えながら階段を何往復もすることなく済んだ。
その途中でさえ、すぐ前を上るいつも通り丸い背も、あれから数回洗わせて貰ったサラサラと揺れる金糸も、やっぱり物凄く遠く感じられた。
“アホか、同しや”
明確な言葉を口にすることなく、何かが通じ合ったように感じられた瞬間。
“アホ、お互いサマや”
理屈じゃない感情の色々を詮索することなく、寄り添い合えたように思えた瞬間。
実感はあったと言い張ったところで、でもそこにひとつとして確かなものなど無くて。
この頃の私と真子の関係は、たった一度お互いから目を背けただけで何かが変わってしまうほど、曖昧で、朧で。
それを強固にするような感情の追い付かない、ゆるく脆いものだった。
「……堪忍な、夏希」
「……おやすみ」
それぞれの部屋へ戻る間際、微かに切ない響きを纏った声音で真子が口にしたそれに、何を思い、何を言えばいいのかすら分からなくて。
その日を境に、私と真子は見事にぱったり会わなくなった。
あの、12月のしのつく雨の日まで。
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