すきま風 1
「川村さん、俺と付き合わない?」
うわ、こういうの久しぶりだなぁ、と何だか的外れな感想がぼんやり過ぎった。
チラと2階の窓を覗えば、まだですかーと言いたげな視線を送るアシスタントの男の子の姿。確か待たせているのはカットとカラーリング希望の新規のお客さん。あまり待たせては心証に響きかねない。早く、目の前の自称お兄系の彼を帰さないと。
そう思って対象へ視線を戻せば、照れ隠しなのかわしわしと頭を掻いてるの図。
うわぁ……その右手、ワックスでベタベタになってるんじゃ……。
「つーか突然で吃驚だよねえ? 別に返事は急がないからさー。考えてみてよ、俺待ってるからさ」
『待つ』
爽やかな秋の陽気だというのに、冬の寒風に吹かれでもしたように体が強張った。
同時に浮かんだ、あのサラサラの金髪。慣れるには時間が掛かりそうだ、と内心で苦笑しながら、怪訝そうにこちらを覗う彼に視線を合わせる。
「あー……ごめんなさい。私にも、待ってみたい人がいるんですよ」
――もうニ度と、会えないかもしれないけれど。
「うー、夜チャリにはそろそろ中綿ブルゾンあたりが要るなぁ……」
既に日付を越えた深夜の街を、愛用の折り畳み自転車でコキコキ進む。閉店後、スタッフ全員で食事へ行ったはいいけれど、昼間のお客さんの件を洗い浚い白状させられて正直参った。恰好の肴とはこのこと。
ストレートにお断りしたことで店替えされる可能性も無くはないのに、夏希の若作りも侮れないもんだな、と店長は笑っていた。この少々失敬な店長と今の店に出会えた私は、多分かなり運が良い。
何となく呑み足りなくて、途中のコンビニで冷酒とつまみ、今日発売のヘアカタログと煙草を買って家路を辿る。アパートに着き、いつものように自転車を止め、コンビニ袋を下げて階段を上る。
各階、階段を挟んでニ部屋のみ。些か年季の入ったこの縦長のアパート。
“お疲れサン、夏希”
階段に腰掛け、私が上って来るのを待っている彼の姿がなくなって、およそ3ヶ月。代わりに、自宅の扉を開きながら一度だけ振り返る、という変な癖が出来た。
けれどその実、そんな自分も嫌いじゃない。
「ん……?」
不意に緩い横風が吹き抜け、それに乗って覚えのある煙草の匂いが鼻腔を掠めた。開きかけた扉から手を放し、踊り場まで降りて何気なく辺りを見回してみるも、あるのは当たり前に見慣れた風景だけ。
言ってもここは最上階の5階。下の踊り場で喫煙している人の気配も無い。でも、確かにほんのり残り香らしきが漂ってる気がするんだけど……。
「……ぷっ、もしや遂に嗅覚まで侵された? ええい、思い出ストーカーめ!」
独り言にしては少し大きめな声で笑ってから、その懐かしい香りに応えるように鞄から煙草を取り出して火を点した。
――空座町へ越して行ったおとなりさんが、今日もワイワイしてるといいなーなんて思いながら。
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