曖昧な境界 11
私が片付けモードへ移行しても、平子さんは座ったまま首を左右に傾けたりしながら、おぉー! と感心の声を上げていた。
そうした反応が素直に嬉しく、また何だか微笑ましくもあって。
「もうちょい伸びたら前髪も頼むわ〜」
満足げな声色で告げられた次の依頼が、この上ない達成感で私を満たしてくれた。
「あーすまんな。手伝おか?」
「あ、すぐ終わるんで大丈夫です」
床のビニールシートに落ちた髪を片そうとしゃがみこんだ私を、椅子の背に顎を乗っけた平子さんが覗き込んでいる。気にせず下向いて作業をしていたら、何やら上方からぽふぽふという小さな振動が頭に伝わって来た。
……どうやら平子さんが、トップで纏めてパイナップル状に散らした私の毛先に手をかざして遊んでいるようだ。
が、そんな少し子供っぽい所作とは裏腹に、彼の口から発せられた思い掛けない台詞は私をピシと固まらせた。
「こないにめっちゃ髪好きななっちゃんが、ワケ分からんシャンプーやら何やら、法外な値ぇで俺に売ったりせえへんやんなぁ」
「……!」
すぐさまフル回転した私の頭は、日頃あのHolyで感じていた『それ』は単なる自分の疑心暗鬼によるものではなかった、と確信した。
――そこに、故意の悪意が無いにせよ。
しかし平子さんの声には疑念や警戒の類は一切覗えず、かといって同情めいてもなく、労わりの色さえ帯びた『確認』という感じだった。
あのラウンジで遭遇した元同僚との会話、はたまた寝室の段ボール。それらから、彼が何をどこまで把握しているかは定かじゃない。だが今まで何も触れてこなかった平子さんが、敢えてこのタイミングで口にしたということは……。
恐らく、今日の約束についてバイト先で話したかして何か言われたと考えるのが妥当だろう。
「……ここの人や身内に頼まれて、店の品を私が立て替えて売ることなら……ありますよ」
「アホか、そんなんただの好意やろが。そんだけの為に店ぇ行くには不便やしなぁ、ここ」
過去の一件を、メディアや噂などを通じて耳にした人たちが私に向ける感情など、いい加減知り尽くしている。失望、怒り、疑念、哀れみ、軽蔑、嘲笑、呆れ、警戒。
嫌悪、そして敵意。
恋人だった彼の有罪が確定しようとも、被害者に返金して頭を下げようとも、人々の意識まで覆るというものではない。
“本当はお前がやったんじゃないの?”
“お前が唆してやらせたんじゃないの?”
巷に溢れている事件の第一発見者や通報者が疑われたりするに同じく、ごくありがちでいて自然とも言える発想。
かの一件において言えば、彼は『川村夏希』を騙るに止まらず、あまつさえ金までここに置いて去ったのだ。普段、当たり障りなくにこやかに対応してくれるHolyの従業員たちの心中にも、そうした一物があったとて何ら不思議はない。
「……すみません」
「何を謝ることがあんねや、やましゅうことなんかあらへんのやろ?」
確かに無い。無いけど、足りないものは山ほどあった。
自分が誰に何を言われ、どんな目で見られるか、その現実を受け入れる覚悟なんかとうにした。正直なところ、もう慣れすら覚えている。
だけどやっぱり、身近な人間に不快な思いや肩身の狭い思いをさせたり、迷惑を掛けたりは心苦しくて仕方がない。知らずぎゅっと噛み締めていた唇がずきずきする。
こうしている今も、頭上からするぽふぽふという振動はただ一定のリズムを刻み続けている。
「……堪忍な、信用してへんかったら髪切ってくれなんか頼んでへんねん。ただ一回は本人の口から聞いときたい思うてな」
「信用……?」
「確かにそない色々は知らんけどな。あない難儀な『妹』が懐いとる。俺んとっちゃジブンこと信用する理由なんかそれで充分やねん」
ぽふ、ぽふ……ぽふん。
「おし、ちゃっちゃ片して飯にしよやー」
最後にぽふんと優しく掌を乗っけられた途端、まるで体の奥底にポッと松明が灯されたかのように、内からじんわりと熱が広がった。
――平子さんは器の大きい人だ、とても。
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