曖昧な境界 8
――火曜日。
「おっ、来たかな?」
ピンポーンと鳴ったインターホン。デザインの作業を中断し子機に手を延ばすと、ドアホンに反応したキスケさんが作業部屋のドアをカシカシする音が聞こえた。ここだけは勝手に入れないよう、ドアノブを変えてある。
「ンッンー……あーとぉ、平子やけどー?」
「はーい、ちょっと待って下さい」
部屋から出て玄関に向かうと、気配で分かるのか、案の定キスケさんもヒョコヒョコと着いて来た。綺麗に前足を揃えたお出迎え姿に微笑みつつ、ガチャとドアを開ける。
「うっ……今日寒いですね。どーぞ」
秋の長雨が続くこの頃、今日も生憎の雨降りで、階段のコンクリには傘から滴り落ちた雫の跡と思われる斑点が見える。
「お、おぉ……何かアレやなぁ、慣れへん所為かインターホン越しいうんは変に緊張してまうなぁ」
お馴染みのシャツにネクタイ姿の平子さんはハンチングの乗った頭をわしわし掻き、ハァと小さく息を零しながら靴を脱いだ。
「あはは、そうらしいですね。あ、バイト明けですよね?とりあえず一服しましょうか」
「せやな。あ、ほれ珈琲。レギュラー切らしとる言うとったやろ? 店のパクッて来てんけどな。それとこっちはアレや、まかない詰めて来てん。後で食おうや」
「わーありがとうございます! じゃ、せっかくだから頂いたこの珈琲落としましょう」
リビングでラグに座った私はテーブルに頬杖をつき、こぽこぽと珈琲の落ちる音をBGMに、平子さんからバイト先の色々を聞かせて貰った。
てっきり休みなのかと思っていたが、ひよ里ちゃん曰く最近ランチから夕方までのシフトメインに変更したようだ、とのこと。夕方過ぎになるという伝言を貰った際、何でジブンらで連絡取らへんねんと怒られ、それもそうだと笑ってしまった。
これといった理由もなく、言われるまで私は何故かそういう考えには及ばなかった。
平子さんがパクッて来てくれたのは、ヘーゼルナッツの香りのする、でもしっかりと珈琲の味が活きた美味しいフレーバーコーヒーだった。薄暗い窓の外から聞こえる控えめな雨音が心地良く、部屋にはふうわりと甘い香りが漂っている。
「しゃーけど昼はあんまし酒が出えへんくてつまらんわぁ、コッソリ飲むことも出来ひん」
「じゃ、完全に中番になったんですか?」
「いや、週末だけ遅番やねん。しゃーから、また店長サンとでも『根暗モテろ』飲みに来てや」
「……またえらく切実な思いの篭ったビールになりましたね」
そんな中で平子さんと笑っていると、さっきまでの変に意気込んだ緊張が嘘のようにゆるゆると解けて行く。何かとても暖かで、優しい時間が流れているような気がした。
――しかし。
まずはシャンプーし、乾かしてからのドライカットが望ましいが、シャンプーも髪質によって種類がある。ということで一旦作業部屋の椅子に座って貰い、髪を触らせて貰うことになった、のだけど……。
「うぅぅ……やっべ、どうしよ。ものっそい緊張するんですけど!」
「あ、あんなぁ! そんなん思うても言うたらアカン、めちゃめちゃ伝染すんねんて!」
もはやとうに『憧れ』の域に達してしまっていた金髪を目前に、私ときたらリアルに頭を抱えてしまっていた。自ら上げ続けたハードルは、思ったよりずっとずっと高くなってしまっていたらしい。鏡に映る平子さんの表情はMAX怪訝で強張っている。いや、もはや怯えていると言う方が正しいかもしれない。うん。
と、不意にハァと溜め息を零してくるりと振り向いた平子さんが「おし、こーしよや」と言うなり私の右手を掴んでぐいんと引っ張ったではないか。
へ? と思っている間に、彼の頭上にかざされたその手は、続いて私の目の前でぴたんと真下に降ろされた。
「うわうわうわぁっ!?」
驚きと動揺のあまりこれでもかと目を見開き、それはそれは残念な声を上げたものだけど。その感触を感知するや否や、私はピタリと完全静止してしまった。
「……!」
何だろう、このしなやかさ。それでいて上質の絹のようにつるりと滑らかで、柔らかで。いつの間にか離されていた手にすら気付かず、私は誘われるようにそーっと指を通していた。
「う、わー……」
ほうっと吐息混じりに感嘆の声を漏らし、艶やかな金糸に魅入られながらそのままゆっくりと下へ梳いてみる。やっぱりあの最初の日の自分の目は確かだった、そう改めて思う。こんな髪、本気で初めてだ。
そう思った時、ぼそりと呟かれた声で漸く私は我に返った。
「……なんちゅー顔しよんねん」
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