曖昧な境界 4
「200円のお返しです」
「ありがとうございました」
ブーンと遠ざかるタクシーの音をBGMに、釣銭を入れようとした財布の中が些か寂しい事実に気付き、ふぅと溜め息が漏れる。
「やっぱブーツは来月まで我慢しよ……」
自分に言い聞かせるよう小さく声に出してから、郵便受けの中を確認。DMやチラシに混じって小奇麗な白い封筒を見付け、ああ今月も来たかと思った私は、特に確認することなく鞄へしまった。
コート下にひらひら覗くアシンメトリーな裾。休日の遠出による疲労に加え、足元のスースーする慣れない感覚に眉が寄る。華奢なデザインサンダルに悲鳴を上げている足裏といい、いっそ脱いで階段を上ってしまおうかという考えすら過ぎる。
よし! と半ば喝に近い気合を入れた私は、カツーンカツーンと、一段一段ゆっくり階段を上り始めた。
ソファ、キスケさん、もふもふ……
ソファ、キスケさん、もふもふ……
いつの間にか、こうして頑張った先に待つ色々を反復することで、己を奮い立たせる癖が付いてしまった自分に、若くないなぁと内心で自嘲する。
やはり3階以降が山場。ジンジン止まりだった足裏は、いよいよズキズキとした鮮明な痛みを訴え出す。面倒でも着替えを持って行くべきだったとか、物凄く今更なことを思ってしまう。
一旦ひと息つこうと踊り場の縁に腕を投げ出して夜空を見上げると、昼に分厚く立ち込めていた雲はすっかり晴れ、いつもよりくっきり星が見えた。軽く身を乗り出し、視界に広がる端から端へと目を走らせてみたが、どうも月らしきは見当たらない。
ああ、だから星が綺麗なのか。ひとり納得した私は、ずれた鞄の持ち手を肩に掛け直し、コキコキと首を鳴らした。
――残すは2階。
「ハァ、きっつー……」
「随分遅いお帰りやなぁ、女王サマ」
「……!?」
自分の生み出しているヒール音が反響する中、頭上から聞こえた声。急ぎ最後の踊り場を折れると、ゴールの段にハンチングを被った平子さんが俯き加減で座っていた。しかし依然引っ張る下僕ネタながら、今日の私は反応することが出来なかった。
少し前に垂れた両サイドの髪で影になり、表情はよく見えない――が、何かいつもと雰囲気が違う、ような。
「……何や、今日は拾うてくれへんのか」
ぼーっと見上げたまま立ち尽くしていると、平子さんがハハッと抑揚のない笑い声を漏らして立ち上がる。そして、片手でハンチングを押さえたまま、タンタンタンと階段を下りて来た。
「あの、どう……へっ!?」
平子さんは下りて来た歩調のままにぐいと私の手を引き、次の瞬間、私の視界はあの『金』でいっぱいになっていた。
おぉーこれは最初の日の……。
などと、えらく的外れなことを思いつつ、私はただされるがまま押し黙った。直前に垣間見た真一文字に引き結ばれた口元と、背中に感じるぎゅうっという感覚に、何か、必死さみたいなものを感じたから。
「……ドレスアップなんかして、どこ行っててん」
「あー結婚式だったんです」
「ほー……そらおめでとうサン」
「ありがとうございます」
何事も無いかのように返し続ける私を、平子さんは小さく、ふっ、と笑ってから顎の下で抱き直した。表情は、やっぱり見えない。
「……旦那はどないしよったん」
「家で待ってますよ」
「ああ、なるほどなぁ……て、それキスケやんか」
「ふふ、はい」
ほんのり煙草の臭いがする黒いシャツ越しに聞こえる、トクン、トクン、という心音が心地良い。
「……聞かへんのか」
低い声でぼそりと言われたそれに、思い当たる色々を喉元深くへ押し込め、私はただただ知らんぷりを通した。
「何をですか?」
「……何で待ってた、とか……色々あるやろ」
そう、確かに色々ある。だけど私には、その色々のどれも、いつも飄々としている彼が、表情ひとつまともに見せられないような夜に聞くほどのこととは思えなかった。
少し考えた私は、実にずるい質問返しをすることにした。
「……聞いて欲しいんですか?」
「……くくっ、意外に意地悪サンやなぁ、なっちゃんは」
「ふふ、今頃知ったんですか?」
そこで漸く、背に回された手がほんの少し緩んだ気配がした。
「……なぁ、この青りんごの匂いするやつで、俺ん髪の毛も洗うてくれへんか?」
「!」
今までのような場あたり的な言葉ではない、はっきりとした『依頼』をされた驚きに思わずガバッと顔を上げる。そこで今日初めてパチと合った目は、アンニュイな色気を帯びつつ、でもとても柔和で、密かに私はホッとした。
「私、物凄くダラしなーい顔するかもしれないですけど、いいですか?」
「ぶっ、どないやねん。俺んことハァハァさせよったら責任取って貰うで?」
「あー、寧ろ全力で萎えさせる気が……」
“考えてもしゃーない分かってても考えてまう時てあるやろ”
そんな時などいくらでもあるし、独りでは殺伐とした気分を持て余してしまうだけの、どうしようもなくどうしようもない、こんな夜もある。
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